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『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を「何かを得るために、何かを犠牲にする映画」として読み解く

はんぺん番長
https://twitter.com/hanpen_910


0.はじめに

 本論文では、平尾隆之『映画大好きポンポさん』(2021)の内容について触れている。本映画を未鑑賞の方はご容赦いただきたい。本論文は個人の感想、解釈であり、古川知宏『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(2021)(以下、劇ス)やほかの映画作品の解釈を押し付けるものではない。人の数だけ解釈があり、名作の前に人は皆平等であると私は考える。

1.序論

 世の中は2種類の人間に分けられる。既にスタァライトされた人間と、これからスタァライトされる人間である。そして私は、劇スからスタァライトされた人間である。初めてスタァライトというコンテンツに触れたのは劇スの評判をSNSでよく耳にする様になったのがきっかけだった。私はこの作品のことが気になってしまい、まずは、TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TVアニメ)全12話と『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下、総集編)を視聴してから劇スを観ることにした。TVアニメと総集編は良い声でしゃべり出すキリンや、かっこいい口上、斬新な演出にびっくりしながらも十分楽しめた。そこまでは良かったのだが、問題はここからだった。劇スがそれ以上の衝撃を与える映画だった。完全に作品に圧倒されてしまい、落涙しながら「面白いものを観てしまった...」と言葉にするのが精一杯だった。具体的な感想はすぐには出せずにいたが、大きな幸福感と満足感に包まれていたことから、劇スを素晴らしい作品だと感じていたのは確かだ。

 劇スは素晴らしい作品であると私には思われる。実際、劇スを支持しているファンは多いし、映画やドラマ、アニメのレビューサービス「Filmarks(フィルマークス)」の「2021年上半期 映画満足度ランキング」では1位を獲得している(*1)。この劇スにどうしようもなく魅了された人は様々だ。例えば、評判をSNSで知った初見の方や、映画ファン、アニメファン、そして今までのTVアニメや舞台からのファン(舞台創造科)が挙げられる。劇スには多くの魅力がある。個性的なキャラクターたちや音楽とセリフに合わせて光り輝くデコトラのような、今まで見たことがなく、見応えがある演出はその1つだろう。ほかにも音楽や声優の演技など挙げればキリがない。その中で私はこの劇スの魅力の1つに「何かを得るために、何かを犠牲にする」というテーマを扱った作品としての魅力があるのではないかとの考えに至った。本論文ではこのテーマを通し劇スとは一体どんな映画だったか、そしてなぜ人々を魅了するのか、私なりの考えを述べていく。


*1 2021年上半期映画・ドラマ・アニメの満足度ランキング発表!満足度No.1は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』と『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』《Filmarks調べ》・PRTIMES・https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000234.000008641.html・最終更新日2021年7月7日・最終閲覧日2022年3月31日

2.「何かを得るために、何かを犠牲にする」を扱った作品の魅力

 「何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならない」というテーマはしばしば映画やアニメ、漫画などで描かれる。本論文では、何かを得るため犠牲を払った姿を描いた作品として、奇しくも劇スと同じ日に公開された『映画大好きポンポさん』を例として挙げる。『映画大好きポンポさん』は主人公の青年ジーンが天才映画プロデューサーのポンポさんに突然映画の監督に抜擢されることから始まるストーリーを描いたアニメ映画だ。本映画は映画の編集作業にスポットを当てた、珍しい作品になっている。主人公ジーンは、紆余曲折ありながらも映画制作の終盤で自分の人生で切り捨ててきた映画以外のものと、編集中の自分の映画を重ね合わせ、映画を完成させる。編集中の映画内では偉大なことを成すために家族や友人などを切り捨てる姿が描かれる。その中でジーンは次のセリフを語る。

「何かを残すということは、それ以外を犠牲にすることなんだ」
「生きることは選択の連続だ。
1つを選択したら、それ以外を切らなくちゃいけない。
(中略)
ただ1つ残ったものを手放さないために」

 詳細は割愛するが、このシーンは日々の生活の中で何かを犠牲にして生きている人(*2)の心を動かすような名シーンであると私は感じた(*3)。

 こういったテーマを描く作品は、観客をどうしようもなく魅了してしまうものだと私は考えている。というのも、人は無自覚的にしろ自覚的にしろ、『映画大好きポンポさん』のジーンのように、人生で何かを犠牲にし切り捨て、その対価として何かを得ているからである。最も身近な例であれば、映画を観るといった行為も含まれるだろう。私たちはお金と時間を使い、作品を楽しんでいる。より重い例としては人生の中で、夢を追うために恋人と別れる、家族のために夢を捨てる、何かを極めるためにそれ以外を切り捨てるといったものが挙げられる。そのような行為をいつの時代も映画やアニメは描いてきた。犠牲にするという、ある種残酷でもある行為を演出や音楽によって肯定的に描き、何かかけがえのないものを得る。そして笑顔でキャラクターたちがエンディングを迎える(*4)。そのような姿を、人はこれまでやこれからの自分と重ね合わせて感動するのだろう。


*2 特に映画やアニメなどのコンテンツをお金と時間を消費して楽しんでいる、または人生の時間を使い創作活動をしている人に見ていただきたい。

*3 このようなテーマを扱っていると思われる映画や作品はいつの時代も多々、世に生み出されている。映画の感じ方は人それぞれだが、個人的にこのテーマを描いていると感じたほかの作品を、以下で挙げたので参考にしていただければ幸いである。宮崎駿『風立ちぬ』(2013年)、デイミアン・チャゼル『セッション』(2014年)、大根仁『バクマン』(2015年)、デイミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』(2016年)など。

*4 例外はある。

3.観客の犠牲に対する肯定

 2章では、『映画大好きポンポさん』を例として挙げ、キャラクターが犠牲を払う姿を肯定的に描くことで私たちは作品に魅了されるということを述べた。劇スでは演者、作り手、そして観客が“新たな舞台”の開幕という1つの目的に対して犠牲を払う姿が描かれている。作り手としては寝る間を犠牲にし、「ひどい顔してる」と言われるまでボロボロになってでも脚本作りに励んでいる姿が描かれた雨宮詩音が挙げられる(*5)。普通の女の子の楽しみを犠牲にして演じ続ける運命にある9人の舞台少女たちもそうだろう。そのような姿に自身が惹きつけられる様をキリンは次のように語る。

「あなたたちが演じる終わりの続き、
我儘で欲張りな観客が望む新しい舞台。
そう、あなたたちのせいですよ」
「普通の喜び、女の子の楽しみを捨て演じ続ける運命。
あまりにも美しく、どうしようもなく惹きつけられてしまう。
キラめき……舞台少女……
ですが、どんなものにも燃料は必要。
私はあなたたちの糧。舞台に火を灯すための……燃料」
「近づけば燃えてしまうほどの熱。危険ですねぇ、舞台少女とは。
危険だからあなたたちは……美しい」
「あぁ、私にも与えられた役があったのですね。
舞台に火を灯す、その役が。わかります……」

 こうしてキリンは、燃えながら、文字通り自らを犠牲にして、線路へ落下し舞台へ火を灯すことになった。このキリンはTVアニメからたびたび観客、視聴者の代弁者のような存在として描かれている。2章で述べたように観客はお金や時間を犠牲にして映画を楽しんだり、評価をして他人に勧めたりしながら作品を盛り上げるのだ。そのような観客の姿を燃えて落ち、舞台に身を捧げ、火を灯すキリンとして表現したのだろう。演者や作り手の犠牲と比べれば些細なものだが、我々観客も何かを犠牲にしている。そして新しい舞台を開幕するために必要な存在なのだ。「何かを得るために、何かを犠牲にする」をテーマにしている映画ではクリエイターや演者、ミュージシャンなどの表現者が何かを犠牲にする姿が描かれることが多い。だが劇スは演者や作り手だけでなく、映画を観ている我々も舞台のために必要な犠牲を払っている存在として描き、肯定しているのだ。また、観客は犠牲を払うだけではなく、演者に犠牲を強いてしまう存在でもあるが、それさえも肯定している。

 キリンの言う通り「ワイルドスクリーンバロック」は我儘で欲張りな観客が望んだ舞台だ。というのも、すでに完結した作品の続編を作るということはキャラクター達に新たに困難を強いるということだからである。舞台芸術がテーマとなっている、この『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』シリーズにおいては演者に犠牲を強いたといっても過言ではない。実際に劇スでは舞台少女たちを“舞台少女の死”と向き合わせた。だがその犠牲と「ワイ
ルドスクリーンバロック」のおかげで彼女たちは生き返り、傷つきながらも、もう一度舞台へ上がり、様々なことにケリをつけることができた。そして私たち観客に笑顔でエンディングを見せてくれたのだ。

 私たち観客は役者や裏方に対して新しい舞台を求め、犠牲を強いてしまう我儘な観客なのかもしれない。しかし劇スは新しい舞台に必要な存在として観客を肯定し、またキャラクターたちが笑顔でエンディングを迎えるのに必要な存在としても観客を受け入れる。劇スは「何かを得るために、何かを犠牲にする」映画として観客である私たちを肯定した。


*5 あの2人と俳優育成科と舞台創造科、99期生全員が描かれる決起集会のシーンは凄まじくエモーショナルで間違いなく名シーンだと感じた。私はこのシーンの分析と言語化がいまだできずにいる。ほかの舞台創造科(ファンの方)のうち、このシーンで押し寄せる感動の正体を知っている方が居れば是非教えていただきたい。

4.『遙かなるエルドラド』が出てきた理由

「我々は神の舞台に立つ道化……
一度きりの舞台なら思うがままに演じるだけさ……」
「すまない友よ
私は征かねばならないんだ、あの大海原へ」

 劇スで「何かを得るために、何かを犠牲にする」というテーマを非常にわかりやすく描いているものがある。劇中劇の『遙かなるエルドラド』だ。

 大海原へ行ってしまうサルバトーレを星見純那が演じ、おいていかれてしまうアレハンドロを愛城華恋が演じている。その際、愛城華恋は神楽ひかりにおいてかれた自分を役に重ね合わせ、相手の星見純那を圧倒し、101期生の後輩達を魅了してしまう。愛城華恋の友に置いて行かれた悲痛さと、役に入り込んだ時の演技力の高さを象徴するシーンだ。友を捨て、理想郷を求め大海原へと旅立つ、といったこの場面は「何かを得るために、何かを犠牲にする」シーンと言っていいだろう。『遙かなるエルドラド』を演じる場面はこれ以降見られないが、新国立第一歌劇団の舞台へ99期生たちが電車で向かうシーンでは『遙かなるエルドラド』はまた異なった意味を帯びる。

 新国立第一歌劇団で見学予定の演目は物語冒頭で愛城華恋たちによって演じられていた劇中劇、『遙かなるエルドラド』だ。99期生たちは見学へと向かう電車内で“観客”として浮足立っている。また花柳香子にいたっては見学前日に新国立第一歌劇団の舞台を「しょうもない」と切り捨て、決して認めようとしない。重ねて書くが『遙かなるエルドラド』は友を捨て、理想郷を求め大海原へと旅立つ舞台、すなわち「何かを得るために、何かを犠牲にする」舞台だ。そして彼女たちは何かを犠牲にして、糧にしなければ生きてはいけない舞台少女なのだ。そのような彼女たちが「何かを得るために、何かを犠牲にする」舞台をいつまでも観客気分で観ることは許されないのである。だからこそあのタイミングで「ワイルドスクリーンバロック」が開幕したのではないだろうかと私は解釈した。

5.背中を押してくれる映画として描いたこと

 古川監督はTwitter上で劇スを制作する際に意識したこととして次の内容を述べた。

人生の転換期で『観るたびに背中を押してくれる』映画を目指しました(*6)

【ネタバレ】劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』古川知宏監督の一問一答ログ(2021.8.)・togetter・https://togetter.com/li/1793746?page=2

 この人生の転換期、とは大きな決断をする時期だ。大きな決断には、進路を決めるという誰もが一度は行う決断も含まれるだろう。進路を決めるということは、他にもあったであろう自分の未来を捨て、手放し、犠牲にし、たった1つの可能性を選ぶことだ。人生の転換期とは無自覚的にしろ、自覚的にしろ、何かを手放し別れ、犠牲にしなければならない。舞台少女として生きるため、「普通の女の子の楽しみ」を捨ててきた彼女たちは、さらに何かを手放し、別れ、犠牲にしなければいけないのだ(*7)。

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』シリーズは愛城華恋と神楽ひかりの2人が主人公として描かれてきた。TVアニメは幼馴染2人が同じ舞台に立つという夢を叶えて完結する。しかし、劇スでは同じ舞台を一緒に演じる約束をした幼馴染としての2人は別れ、舞台少女として生きるために必要な、運命のライバルを得る物語になっている。TVアニメでは必ず別れる悲劇である『戯曲 スタァライト』を再生産し、再び立ち上がり、再会する物語にした。しかし、現実では自分の進路を決める過程で必ず別れが来る。その進路を決める過程が描かれた劇スはどうだっただろうか。キャラクターたちの様々な別れが、必ず別れる悲劇である『戯曲 スタァライト』のように描かれる。だが、そのキャラクターたちは役者としての成長や、再会を誓うのだ。別れをただの“悲劇”ではなく、別れを“燃料”として再生産したのである。人生の転換期で「観るたびに背中を押してくれる」映画とは、転換期で必ず訪れる別れという名の犠牲を払う行為が、決して悲劇ではないということを描いた映画であったのかもしれない。

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』とはどのような映画であったかをまとめる。

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』とは人生の転換期で自分にとって大事なものを犠牲にするキャラクターと、全ての人間に対して作られた映画だ。彼ら、彼女らに対し音楽と舞台装置によって作られた最高の舞台で肯定を行い、背中を押してくれる映画。それが『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』なのである。


*6 【ネタバレ】劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』古川知宏監督の一問一答ログ(2021.8.)・togetter・https://togetter.com/li/1793746?page=2・最終更新日2021年10月26日・最終閲覧日2022年3月31日 該当ツイートは監督のアカウントの削除と共に回覧できなくなっている。

*7 劇スは文章にすると中々鬼のようなことをしているように感じる。

6.もう1つの“最後のセリフ”

 最後にポストクレジット(*8)に触れておきたい。このポストクレジットが、先に述べた、古川監督が目指した「背中を押してくれる映画」を象徴する終わり方をしている。

 ポストクレジットでは、愛城華恋が新たに別の舞台へのオーディションに臨む姿が映し出されて終了する。このシーンでTVアニメと同じ決め台詞を愛城華恋は発する。しかし顔は全く見えない。だがその声は前向きで明るいものだ。自信に溢れた表情で発しているのが容易に想像できる演技である。文字通り、次の舞台へ向かうことへの覚悟と決意ができたのであろうことがわかるシーンになっている。ここで私が注目したい点がある。「本日、今 この時」のテロップだ。このテロップは現実世界にいる我々が映画を観ているこの時間、この瞬間を意識させるものではないだろうか。オーディション場面がアニメではなく、現実に近いように感じさせる意図があるのだろう。寓話であることを示す、物語の時間や場所を限定させないための一文、例えば“ANOTHER TIME ANOTHER PLACE…”(いつか、どこかでの物語)(*9)を意識して、その反対の現実の表現として使われたかもしれない。いずれにせよ、ポストクレジットは現実に近い場所として表現されているように思われる。その現実に近い愛城華恋は観客と同じ方向を向き、観客と同じように椅子に座っている。その観客と近い状態から次の舞台を目指し、椅子から立ち上がり、決め台詞を放つ。

「一番、愛城華恋
みんなを、スタァライトしちゃいます!」

 映画の最後に「レヴュースタァライト」の主人公、愛城華恋は現実に近い場所でそう宣言する。そのような主人公の姿が「背中を押してくれる映画」として、「私も次の舞台へ進もう」、「自分だけの舞台を私も演じてみよう」という気持ちにさせてくれるのだ。現実の先という次の舞台へと背中を押されたような、見事としか言えない最高に前向きなラストシーンである。

 “舞台少女 愛城華恋”が生まれた日に、私たちと同じように観客席に座っていた神楽ひかり。輝く舞台が眩しすぎてあきらめようと思っていた神楽ひかりは以下のセリフを愛城華恋から言われた。そして“舞台少女 神楽ひかり”として生き返った。映画を観た後の感情が、その時の神楽ひかりの気持ちと近いのではないだろうか。あのラストシーンでこのセリフを、私も言われた気がしてならない。

「行こう、あの舞台へ
輝くスタァに、2人で」

 “私も、自分の人生という舞台の主役を、もう少し頑張ってみよう”。そう思わせる力が『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』にはあったように思える。観客は映画が終われば『戯曲 スタァライト』のようにキャラクターたちと必ず別れてしまう。しかし、映画が終わった後に少しでもそんな気持ちになれたのなら、その別れも決して悲劇ではなく、糧と燃料になったと言えるだろう。


*8 スタッフロールのあとに流れる映像のこと。主な使われ方としては次回作への伏線を張ったり、未回収の伏線を回収したり、後日談を流したり、悪役を復活させたり、観客に帰宅を促したりする。余談だが、筆者は劇スのポストクレジットの使い方が今まで観てきた映画の中で一番素晴らしい使い方だと感じる。

*9 ウォルター・ヒル『ストリート・オブ・ファイヤー』(1984年)の冒頭より引用。寓話や昔話の冒頭には、これから始まる物語の時間と場所を限定させないようにするための一文が挿入される。(“昔々あるところに...”等)これは物語に普遍性を持たせるためだと考えられる。『ストリート・オブ・ファイヤー』の冒頭で“A ROCK & ROLL FABLE”(ロックンロールの寓話)の字幕と、“ANOTHER TIME ANOTHER PLACE...”(いつか、どこかで) の一文が表示される。この一文でこれから始まる映画が寓話であると示している。

著者コメント(2023/11/30)

最後まで読んで下さりありがとうございます。 劇場版スタァライトを初めて観たときから随分と時間が経ちました。 ですが、この作品を観たときの衝撃や感動は未だに忘れられません。 これからもずっと、心に残り続けるような気がしています。

完全に余談ですが、本文で触れている「映画大好きポンポさん」は 「劇場版スタァライト」と同じように、未だに映画館で上映されることがあります。 「映画大好きポンポさん」と「劇場版スタァライト」は本文で触れた所以外にも重なる部分があると思っています。 もし興味がありましたら是非観てみてください。 原作の漫画もおすすめです。

最後にこの場を借りて主催チームの皆さん、私の文章を校正やチェックをして下さった方々へお礼申し上げます。 本当に、本当にありがとうございました。

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