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舞台の並行性と再現性についての一考察 ──アニメーション『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』各作品の比較を通して──

隠世左近
https://twitter.com/To_Kakuriyo


はじめに──研究対象

 本稿では、アニメーションシリーズ作品『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』内各作品間の並行性と再現性について論じる。当該3作品を順にテレビ版・総集編・劇場版と呼称する。なお、上記3作品を総括する場合は、三部作と呼称する。

 また、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』には舞台版も存在するが、本稿では取り扱わない。

 アニメーション『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を構成する重要な要素の1つが、総合芸術たる演劇である。演劇を現実の社会一般において概観がいかんすると、同一の作品で複数回上演されるものが多く存在する。そしてそれらのほとんどは、台本や演出など事前の取り決めに沿うことによってある程度の再現性を保ちつつも、全く同じ上演にはなり得ない、という並行性を有する。本稿では、この演劇における並行性や再現性が『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』三部作全体においてどのように表出しているのかを考察する。これは、作品の性質を新たな側面から解明することに繋がると考えられるために試みるものである。

それぞれが別の上演

 本稿で検討するのは、三部作がそれぞれ時間軸や世界線が一貫しておらず、あたかも異なる上演回であるかのような並行的な状態となっているのではないか、という仮説である。

 三部作では直接の言及がある部分だけでも、脚本担当の樋口達人氏が「舞台という要素の中に、その時を超えてとか、時間を超えてとかっていうのは要素として含まれている」(*1)と述べていたり、劇中歌『スーパー スタァ スペクタクル』で「過去は未来 未来は今」と歌われていたりするように、時間の流れが重視されている。

 しかし時間の流れという側面から捉えたとき、テレビ版と総集編では大きく内容が異なる部分が存在する。

  • 各レヴュー曲の歌詞の有無やその合間の台詞の有無、歌割りや曲調の違い

  • 誇り、渇望の両レヴューの順番の違い

  • 「運命のレヴュー」(タッグマッチ)のレヴュー曲の違い

  • テレビ版第7話の大場ななVS 天堂真矢レヴューシーンと総集編の相当部分での台詞の違い

  • テレビ版第9話の星見純那と大場ななが第99回聖翔祭の大道具を眺めるシーンと総集編の相当部分での台詞の違い

  • テレビ版第12話の「星罪のレヴュー」突入シーンと総集編の相当部分での台詞の違い

 これらは、テレビ版第7話で「舞台は生き物。同じスタァライトでも、全く同じ舞台なんてありえないもん」、テレビ版第9話「絆のレヴュー」と総集編の相当部分で「同じ私たちも同じ舞台もない。どんな舞台も一度きり。その一瞬で燃え尽きるから、愛おしくてかけがえなくて価値があるの。一瞬で燃え上がるから、舞台少女はみんな舞台に立つたびに新しく生まれ変わるの」と愛城華恋が述べたように、演劇が有する並行性と再現性の特徴をここで端的に表出させ、三部作内の各作品をそれぞれ独立した上演回として描き出しているのだ。冒頭「アタシ再生産」によって始まった“再生産” 総集編はテレビ版と同じ〈スタァライト〉を描きつつも、テレビ版と全く同じ〈スタァライト〉とはなり得ないのである。つまり、テレビ版と総集編は同一の時間軸や世界線上の〈スタァライト〉ではなく、それぞれ別の〈スタァライト〉を描いていると考えられる。

 加えて、テレビ版や総集編では同様に描かれていた幼少期の愛城華恋と神楽ひかりの別離のシーンが、劇場版では全く異なる場所での出来事として描かれている事例が挙げられる。テレビ版や総集編では一貫して「区立わくわく公園」の滑り台上で会話しているのに対し、劇場版では同公園のなにもない平地で会話しているのだ。会話内容はほぼ同一であるが、会話場所が全く異なっている。

 テレビ版第12話と総集編の相当部分で愛城華恋と神楽ひかりが「私たちの運命の舞台は、ずっと昔から始まってた」と話したその「ずっと昔」とは、彼女たちが幼少期にミュージカル『スタァライト』を鑑賞した時、またはその帰途に東京タワーで髪飾りを交換し合い「運命の舞台のチケットを交換」した時のことを指すと考えられる。いずれの場合でもこの別離のシーンでは彼女たちの〈運命の舞台〉は既に始まっているのである。

 物語の根幹をなす〈運命の舞台〉最中の描写が異なることは、劇場版がテレビ版とも総集編とも異なる時間軸や世界線上にあること、つまり並行性を有した異なる上演回であることを示している。(*2)


*1 ラジオスタァライト第167回 29分30秒頃~

*2 併せて考察すると、総集編パンフレットでは「舞台少女」と記されたページが、キャラクター紹介ページとスタッフコメントページを隔てる役割を担っている。そこに描かれている3つの円が並んだ独特な図が、三部作内各作品それぞれの時間軸や世界線の独立を象徴している可能性がある。

大場ななが立つ青い舞台

 総集編には、主に制服姿の大場ななとキリンのみが登場する「RONDO RONDO RONDO」という名前の、物語の展開とは独立した舞台が描かれている。基本的に色調が青いので以下〈青の舞台〉と呼称する。これら〈青の舞台〉が、時間軸や世界線として、あるいは時系列としてどこに位置するものなのかを以下で検討していく。

 総集編で挿入された新規パートには、〈青の舞台〉とは別個に大場ななとキリンが対話する舞台(対話)、レヴュー服姿の神楽ひかりが独白する舞台(独白)が存在する。

 なお、これら〈青の舞台〉(対話)(独白)には、原則としてレヴューおよびそれに準ずるものの描写に後置されてそれらの歌詞を引用している、という特色があるとの前提的認識をここで共有したい。以下、表で各場面での描写を整理した。

表 総集編各場面の描写(筆者の資料をもとに主催が作成)

 また、それぞれのシーンの作中での挿入順を図の左側に、本来の時系列順として考え得る順番として並べなおしたものを右側に示した。図中左側の順番に描かれる〈青の舞台〉などは、そのままでは各レヴュー内劇中歌歌詞とその後の〈青の舞台〉などでの大場ななによる台詞との対応関係や該当シーン発言場所などの観点から、内容的に順番が不自然なものとなっているために改めて整序したものである。

図 シーンの並び替え(筆者の資料をもとに円あすかが作成)

 具体的に精査する。

 青1では、制服姿の大場ななが「確かにあの日見たんだ 弾けた星のキラめき」と述べている。場所は青の舞台上である。『星のダイアローグ』の歌詞を引用しているため、青1は『星のダイアローグ』の後ろに入るシーンだとわかる。さらに、描写の近似性や青1の描写が不自然に途切れている点から、青1と青7が連続していると考えられる。

 次に対話1に注目する。制服姿の大場ななが「ずっと望んでいた星は二人のスタァライト」と『スタァライト(movie ver.)』の歌詞を引用しており、場所が新章「星摘みのレヴュー」の舞台上であることから、対話1は「新章」の後ろに入るシーンだとわかる。

 さらに対話2では、レヴュー服姿の大場ななが「私たちはもう舞台の上」と述べ、キリンとともに、舞台少女の死と、劇場版の内容である「wi(l)d-screen baroque」に言及していることから、(舞台少女の死)の後ろかつ(独白)の前であることが分かる。場所は青の舞台上である。

 独白では、レヴュー服姿の神楽ひかりが「選ばなかった過去たちへ 静かに捧ぐ讃美歌を」「私たちはもう舞台の上」と述べている。『再生讃美曲』の歌詞を引用しているため、エンドロールよりも後のシーンである。また、場所が〈新章〉の舞台の遠方に存在する東京タワー上であること、対話2およびこの独白での大場なな・神楽ひかりの衣装がレヴュー服であること、神楽ひかりの「私たちはもう舞台の上」との発言から、これは対話2から劇場版に続く場面だと考えられる。よって、総集編のラストに据え置く。以上の理由で、直前レヴュー劇中歌歌詞・直後台詞の対応や会話地点を軸に並べ替えると、図の右側に示したような順になる。

 この順番のとき〈青の舞台4〉末でキリンが宣告した「本番5分前」の「本番」には2通りの可能性がある。

 第1には、総集編の作品内で青4の5分30秒後にあたる大場ななの台詞「この日生まれたのです。舞台少女、大場ななが」から開始される彼女の再演を指す可能性。

 第2には、青5以降の〈青の舞台〉および対話や舞台少女の死、独白を合計すると4分56秒となることから、総集編の終了=劇場版(またはそれに相当する並行的な時間)の開始を指す可能性。

 前者の場合、それぞれの〈青の舞台〉間での連続性や一貫性に乏しい。また、確かに「舞台少女大場なな」の誕生は彼女の再演の開始と極めて密接にかかわっているものの、正確には彼女の再演の開始は星のティアラを獲得した時点であると考えられる。しかし、星のティアラ獲得までには10分40秒が経過しているため、理論にやや難があるように思われる。

 後者の場合、〈青の舞台〉間の順序を並べ替えたことにより連続性や一貫性が生まれている上、5分間により近い時間となっている。前述した三部作内各作品それぞれの時間軸や世界線の隔たり、つまり演劇の並行性や再現性の表出という側面も考慮すると、〈青の舞台〉の大場ななは、総集編の〈スタァライト〉ではない別の時間軸や世界線(=おそらくは劇場版の〈スタァライト〉の時間軸や世界線)から総集編の〈スタァライト〉を鑑賞していたのだと考えられる。だからこそ彼女は劇場版で「あの日、私は見たの。再演の果てに、私たちの死を」と述べ、行動するに至ったのだろう。以上より、本稿では後者の仮説を採用する。

「皆殺しのレヴュー」の3つの線路

 これまで検討してきた、三部作が相互に並行性を有する異なる上演回であるとの説を踏まえたうえで、劇場版の皆殺しのレヴューに登場する線路について考察する。

 劇場版の皆殺しのレヴュー中の地下鉄の線路は、進行方向を向いて右から〈照明機材線〉〈舞台少女たち線〉〈大場ななの大刀線〉の順に3本並んでいる。この3本の線路は、それぞれテレビ版・劇場版・総集編を表していると考えられる。

 大場ななが裏方にも回る様子がはっきりと描かれたテレビ版が〈照明機材線〉に、現在進行形である劇場版が〈舞台少女たち線〉に、劇場版に繋げる役目を果たしつつそれを大場ななが鑑賞し一部出演していた総集編が〈大場ななの大刀線〉に、それぞれ表されているのである。

おわりに

 本稿で検討してきたアニメーションシリーズ作品『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は、まるで演劇のように各作品が相互に再現性をもち、互いに補完し合う性格を有するとともに、それらは並行性をも有して時間軸や世界線の差異を顕現させ、あたかも異なる上演回であるかのような様相を呈する複雑な構造をしている。

 以上のようにここまで検討してきたが、未だ論理的な飛躍や推測に過ぎない箇所が多く、また『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』にはアニメーション以外の作品も数多いため、今後の更なる検討と解明に期待する。

著者コメント(2022/10/10)

 鑑賞する度に「私ももう一歩前に進まなくては」「もう一歩だけ頑張ろう」と勇気づけてくれる作品で、本当にどうしようもなく狂おしく好きで、好きで、好きで仕方がなくて今回の企画に参加させて頂きました。
 他の作品でもそうなのですが基本的に他の方の考察などは読まないようにしていて、これまでスタァライトでもその状態なので、今回の参加を通じて皆さんの論文を拝読できることを楽しみにしつつ、私が井の中の蛙となってとんちんかんな発表をしていないか恐れる日々を送っています。
 ついに彼女たちは塔から降り、新たな旅路を歩み始めました。テレビアニメ放送開始前から応援してきた私は、彼女たちに目を奪われて、目を焼かれてしまって、まだ「運命の舞台」に幽閉されたままです。私も次の舞台へ進まなくてはと感じますが、まだ暫くはロンドを続けたい気もします。どんな時でも、この塔に来ればみなさんとまたお会いできるはずだと信じています。
 「だから約束タワーで、待ってて」

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