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人生のドン底から復活し「本質を知った男」との奇妙な友情。なにゆえ本質を知れるのか。

久々にかつての友人のSNSを見たが、とても元気そうだった。
相変わらず彼はいい人たちに囲まれている。

かつて友人だった彼には、常にいい友達が隣り合わせだ。

そこんとこが、どこにいっても変わらず混迷極まりない
どこぞの俺なんぞとはえらい違いだ。

私が彼と同じように友人づくりをやっても
見た目も味も悪いチャンポンにしかならない。

そんな私が、安定したコミュニティを離れて、
別のコミュニティ探してそこで人間関係作るなんて
そんなことできるわきゃねーだろって思うわけだが…。

これまで人選ミスを犯し
何度も失敗してやらかしたのに
過去の過ちを忘れてしまったのか?

だがそれでもやってやろう。
「旅に出る」って決めたからには。

「使えない中途社員」の運命

会社という場において、多くは本質が見れていない
仕事人間、機械人間ばかり。

そのせいではあるが、やりとりもどこか
無機質なものばかりなのである。

どれだけ会社で仕事ができる人間と話をしてもつまらなかったし
ましてや気持ちが昂るなんてことはなかった。

同期や仲の良い同僚と話をしても
やっぱり面白いと感じたことはない。

しかし彼は違った。

いや、彼を初め見た時はどこからどうみても普通のおっさんだった。

中途入社の彼は、当初は会社でプロジェクトリーダーを期待されて入ってきたが、
仕事の失敗に次ぐ失敗で、会社内での地位を落としていって
クビ寸前の窓際にまで追いやられた。

中途で入ってきた社員は、当然成果を残さないと生き残っていけないわけだが
仕事ができないとみなされた中途の人間は
会社で使えないとみなされた人間の受け皿になる
最果て部署に飛ばされる運命にあう、

そうして当初入社の時に希望していない業務の遂行を余儀なくされ、
「使えない」というレッテルを剥がせず、やがて辞めていく。

私はそういう中途の人を何人も見てきた。
当初の私は彼もそういった中途社員の一角に過ぎない、と見ていた。

悪評で会社での居心地が悪くなること

当時私がいた会社は、従業員を
「仕事できるできない」でしか人を判断しない会社だった。

彼は仕事ができないレッテルを貼られた上に、
プロジェクトをめちゃくちゃにする危険人物の扱いを受けた。

会社では一度ついた悪評を拭い去るのはとても時間かかるし、
正直それだけでも居場所がとてもなくなる感覚がある。

当時私は、どういう気持ちで当時の彼に接していたろうか?
特別彼に惹かれるものはなかったが、

会社でついた悪評のせいで肩身を狭くしたことがある自分と
悪評がついて肩身の狭い彼を重ね合わせたから、

というのはあったと思う。

悪評のせいで会社での立ち回りがしづらいのは生き地獄でしかない。

居心地が悪いったらない。
これは悪評を貼られた人間にしかわかるまい。

いつクビになるかわかったもんじゃないし、
社内の意地の悪いヤツが、いつまでもその悪評ネタで
ずけずけと断罪してくるし
あげくには女子社員からも敬遠される始末だ。

社内でも立場の低い若手だった頃にこれをやられたので
俺は相当メンタルにきていた。

俺がそういう経緯があったからこそ、
同じような立場の彼に感情移入するところがあったんだろう。

「奇妙な友情」

仕事でしか人を判断しない連中ばかりの会社において
仕事人間と会話してもクソほど面白くない、と
見限っていたのもあるし、彼に感じた、
仕事人間連中にはない「本質力」があると嗅ぎ取ったから、

だったかもしれない。

会社での保身と昇進しか興味のない
仕事人間連中が持っていない「何か」を彼にみたからだろう。

私は毎日休み時間を見つけては彼をコンビニに誘って、
何気ない会話をしては、現状のグチを語っては、、

それを何日も続けてきた。

中途で入ってきた彼からしてみれば、
使えない危険な社員のレッテルを貼られて味方が誰一人いない、
そんな状況で唯一話しかけてきたのが
私だったという事実に助けられたのだろう。

彼は私との会話を通して成長したようで、
私も彼の会話を通して成長していった。

私と彼は年も9つくらい離れていたし
共通の趣味とか共通の話題とかこれっぽっちもなかった。
しかしどういうわけかウマがあった。

その積み重ねが「奇妙な友情」というやつを形成したのだろう。

終わりに

会社に洗脳された仕事人間ばかりでやりづらい会社という世界で
彼がその支配を逃れていたのが大きかった。

彼は本質を知っているから、会話をしてとても気持ちが昂るものがあった。
私の基礎を作ったのは間違いなく彼だ。

そんなかつての友人のような、本質を見抜く野生の勘を持ちつつ、
鋭利な知性を持った人と友情を育む。
それができれば一番越したことはないが…、

現実はそうはいかない。

いろんな人にも言われたけど「人間関係に夢見すぎ」って。
言われなくたって、わかっちゃいるんだわそんなの。

そんな夢みたいなことあるわけないんだって。

しかし彼がどん底にいたところから逆境を跳ね除け
見違えるように大きく成長した、ということを知ってしまったからには
人間の可能性をゼロと否定できない。

だから、必ずしもイニシエートと呼ばれる者たちが
本質で生きてるとは限らないと思ってる。

本質を知れるのは、自らの激しすぎるがほどの
内なる葛藤・試練を乗り越えることだと、私は思う。


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