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善悪について考えることは可能か

今日は善悪というものについて考えてみます。

僕は、実は倫理学みたいなものがあまり好きではないというか、あまり魅力を感じないのです。

というのは、多くの場合、倫理学を自分ごととして考えると、それは自明のことをわざわざ難しくしているように感じるからです。というか、あれってなんか根本的におかしくないか? と思っている。

たとえば、有名なものにトロッコ問題とかありますけど、あれって僕が思うには、どっちにしろ悪なんですよね。だって、どっちも人を殺すから。


トロッコ問題って結局どちらの判断をしても殺人という罪を負うわけです。だから、これってそもそも問題として成立していない。

Aのケーキを食べすぎて糖尿病になった人とBのケーキを食べすぎて糖尿病になった人のどちらが正しいですか? と問うているようなものです。どっちも正しくない。糖尿病にはなりたくない。

あるいは、「4-3=1」という計算式と「4-1=3」という計算式のどちらが正しいですか? と問うているようなものです。答えは、どっちも引き算として正しい。

あとは、数字の「1」と「3」のどっちが好きかとか、たくさん引くほうが好きかちょっとだけ引くほうが好きかという、それぞれの趣味嗜好の問題でしょう。でもそれは、論理でどうにかなる領域ではない。

そんなことは、生きていたらたくさんあるのです。数年前に大阪市長選挙があった際、誰かが「これって有権者にウンコ味のウンコAとウンコ味のウンコBのどっちかを選べというてるようなもんやんけ」と呟いていましたが、そういうことです。二つのウンコからどちらかを選ばなければならないとき、どちらかが実はウンコではない、なんて思い込まなければならないわけじゃない。そのような場合は、どっちもウンコなんです。ウンコ味のカレーじゃない。

結局のところ、問題は「僕らは論理によって善を生み出せるのか」、あるいは「僕らは論理によって善に迫れるのか」というところにあります。

そんなこと、可能なのでしょうか?

もちろん、見識が深まることで自分の中の善悪の基準が変わることはあります。たとえば、犯罪者のことをよく知ることによって、その人の犯した罪に対する意見や評価が変わることはあります。でも、それは別に論理によって変わったわけではないですよね。

その意味でいえば、僕は倫理学なるものがもしもあり得るならば、それは善とか悪について論理的に突き詰めることではなく、むしろあるテーマに関するいろんな人の意見をとにかくたくさん集めて比較することだと思います。

そうしていろんな意見を聞いた結果、正解がたくさんあって選べなくて、正しいか正しくないかなんてよくわからないけど、でもとにかく今の俺としてはとりあえずこれです、と何らかの選択を示すのが、倫理について「考えた」ということなのだと思うのです。

その選択なり決断は、きっと、論理的なものではない。論理としては、多くの場合、矛盾しているものです。そうなるまで「考える」必要がある。

なのに人はなぜか、善悪と論理をイコールだと考えているのです。そして、善いほうは論理的にも正しく、悪いほうは論理的にも間違っている、と思う。だから、論争になるわけです。

でも、実際は、論理的に正しい善もあれば論理的に正しくない善もあるし、論理的に正しい悪もあれば論理的に正しくない悪もある。

だから、善であることが善である理由を論理的に述べることもできなければ、悪であることが悪である理由を論理的に述べることもできない。

もしそんなことをすれば、論理というものの性格上、善は究極の善というものに辿り着き、悪もまた、究極の悪というものに辿り着くでしょう。複雑な数式を分解していったら単純な数式になるように。

そうして、もしも究極の善とか究極の悪なるものがあるとなったならば、僕らはその究極の善だけを実行し、究極の悪だけを避ければよいじゃないか、ということになってしまうでしょう。合理的な結論として。

でも、それでいいのでしょうか。

それがおかしいということは、それこそ「考える」までもなくわかるでしょう。

それに、もしも善悪が論理的な問題であるのならば、何が善で何が悪かは人間なんかよりもずっと論理的であるコンピューター様に尋ねればいい。


ということで、そもそもこのようなことを書くことは、果たして善なる行為だったのでしょうか。それとも悪なる行為でしょうか。

僕にはよくわかりませんが、これを読んだあなたが、僕に近い趣味嗜好の人であったらいいなと、切に願うばかりです。

それでは。

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