峰庭梟
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春になると毎年読み返している本があります。それは、梨木香歩さんの「春になったら苺を摘みに」という本です。 この本は著者である梨木さんがまだ作家としてデビューする前、イギリスに留学していた頃の思い出を語ったエッセイ集です。 本書の中には「子ども部屋」と題された章があります。それは、こんなお話。 ある日、梨木さんはコッツウォルズからソールズベリへ行き、湖水地方やスコットランドをぐるりと回る旅の計画を立てます。 すると、その計画を聞いたホームステイ先のウェスト夫人が彼女
今、中公バックス世界の名著のベルクソンを読んでいます。 まだ読み始めたばかりなのですけど、読み始めたらすぐめちゃくちゃ面白かったのでその話をします。 この本に収められているのは「形而上学入門」「哲学的直観」「意識と生命」「心と身体」「脳と思考」「道徳と宗教の二つの源泉」の5タイトルです。 最初の「形而上学入門」の冒頭で、ベルクソンは言うのです。僕らは何か形而上学的な対象について考えるとき、二つの方法をとる、と。 一つは、分析する方法です。科学的手法と呼べるのかもしれま
僕らの目玉は脳になった すべてが可視化されたとき 僕らの目玉は指にもなった すべてが可視化されたとき すべては明瞭になった すべては公正になった それは素晴らしいことじゃないか かつて目玉だった口が言った だけど、目玉は脳じゃない 目玉は指折り数えはしない 目玉が喋ったりするはずもない 君の目玉をよく見てごらん 見えないところにあるものを 1でも10でも5でもあるものを あのとき僕らは失ったんだ すべてが可視化されたとき
出来事はいつも否応なく起きる。 いいことも悪いことも、 ネガティブな感情も、 認めたくないことも、 起きるべくして起きる。 君の知らないどこかで。 君の身の回りで。 君の心の中で。 たとえば君が、 君の知らない間につくられ、 この世に訪れたように。 君がいつか まだ準備もできてないのに 旅立たなきゃいけないように。 この世界に何かが起きて、 君はそれに対処して、 また何か起きて、 また何か対処して、 また何か起きて、 それに対処して、 また何かが起こる。 きっと君は、
すごく好きな奴隷のたとえ話があります。この話は、僕が自分で考えたのではありません。かつて、どこかから仕入れてきたはずの話です。しかし、僕は、いつ、誰が、どこで言っていた話なのかはまったく覚えていないのです。 それは、こんな話。 人は奴隷の身分に落とされると、領主に対して反発します。当然です。誰も、自分が奴隷に相応しい人間だと考える人なんていないのですから。だから、第一世代の奴隷というのは、とにかく反抗します。仕事だってきちんとやろうとしないし、それに、隙あれば何度も何度も
先日、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」と「ゲーム的リアリズムの誕生」を読みました。 「動物化するポストモダン」は2001年発行ですから今から23年前、「ゲーム的リアリズムの誕生」は2007年発行ですから今から17年前の本です。 だとすれば、「動物化するポストモダン」の発行年に生まれた人はもう社会人になっているし、「ゲーム的リアリズムの誕生」の発行年に生まれた人はもう高校生になっています。 これらの本で書かれていた社会のポストモダン化という現象は、確かにその通りだった
今日は善悪というものについて考えてみます。 僕は、実は倫理学みたいなものがあまり好きではないというか、あまり魅力を感じないのです。 というのは、多くの場合、倫理学を自分ごととして考えると、それは自明のことをわざわざ難しくしているように感じるからです。というか、あれってなんか根本的におかしくないか? と思っている。 たとえば、有名なものにトロッコ問題とかありますけど、あれって僕が思うには、どっちにしろ悪なんですよね。だって、どっちも人を殺すから。 トロッコ問題って結局ど
今よりもずっとずっと昔、恐竜と呼ばれる生き物たちが大地を闊歩していた頃の話です。 地面にはシダやマツ、イチョウなどの草木が生い茂り、それを食べる草食恐竜と、その草食恐竜を食べる肉食恐竜がいました。 全体はちゃんとバランスが取れており、どこかが欠けてしまう、というようなことは、ずいぶんと長い間なかったのです。 ところが、ある日、空に大きな黒いものが現れました。その黒いものには、たくさんの不気味な尻尾がありました。それに、たった一つの、巨大な目をしていたのです。 大地の生
考えるとは何だろう。今度はそんなことを考え出してしまいました。そうして、ふと気づいてしまったことがあります。 それは、「考えることは醜い」ということです。 そんなことを言うと、世の中には脊髄反射的に「けしからん!」と怒り出す人もいるのかもしれない。 多分、考えるという行為を「醜い」なんてネガティブな言葉で表すのは、多くの人にとって違和感があるでしょうから。 まあでも、ちょっと「考え」てみてください。 そもそも考えている仕草は美しいでしょうか。 いえ、美しくはありま
今日は「価値がわかること」と「理解できること」との違いについて書きます。 僕は過去二回の話 で価値というものは僕ら自身の見識が広がることでよりたくさんわかるようになる、と述べました。でも、このことは「勉強すれば色んなことが理解できるようになる」ということと同じではありません。 なぜなら、実際には ①価値もわかるし理解もできるものごと のほかに、 ②価値はわかるけど理解できないものごと ③価値はわからないけど理解できるものごと ④価値もわからないし理解もできないもの
前回 僕は価値とか本質というものは僕ら人間には多分認識できないものであり、僕ら自身がそれを発見していくものなのではないか、という話をしました。 でもそれは、もしかしたら最初の設問からずれてしまったのかもしれません。つまり、前回の例えであれば「そもそもキュウリが何かを知らないのに、それを発見すれなんて無理じゃん」ということになる。なので、もう一回改めて考えてみようと思います。(別に結論は同じなんですけどね) 価値とは何か。あるものに価値があり、あるものに価値がないとは一体
今日はちょっと最近考えていることについて書きます。別に、具体的な何かについてではないのですが。 そもそも、価値とは何か。あるものに価値があり、あるものに価値がないとはどういうことか。また、僕たちは一体どのようにして価値があるとか、あるいは価値がないとかを判断するのか。そのようなことは果たして可能なのか。可能であるとしたら、なぜそうなのか。 僕は昔から思っているのですけど、多分、この世界の多くの人は、なぜか「自分にはものの良し悪しがわかる」ということについてまったく疑ってい
一夜文庫さん、という一箱古本市や間借り古本屋さんに出店されている読書家の方がおられまして、その方が「読みたい夜に」というZINEを出しておられるんですけど、僕もお誘い頂いて、そのZINEの末席に寄稿させていただいています。「瞬光(またゝき)集」という、140字小説と短歌を合わせた10篇のお話です。 で、毎回ね、そこにプロフィールというのを載せて頂いているわけですが、今は って載せて頂いてます。 まあでも、140字小説も短歌ももうだいぶ呟いていないし、このnoteだってこ
6月後半も色々短歌を詠みました。 なので、今日はそのまとめです。よろしかったらどうぞ。 まずは、うたの日。 ちなみに、「負け方は俺の背中を見て学べ でも勝ち方は自分で学べ」という歌で薔薇をいただきました! やったね! あと、RIUMさんというアカウントのお題でも詠んでいます。 今は1日2首くらい詠んでる感じです。 ということで、お粗末さまでしたー。 おやすみなさい。
詩歌ビオトープ30人目は近藤芳美です。 この人は1913年、朝鮮馬山浦で生まれました。12歳で帰国し、広島県に住んでいたそうです。高校生の頃短歌に興味を持ち、広島で療養していた中村憲吉を訪ねたことがきっかけでアララギに入会、中村と土屋文明に師事しました。 大学卒業後は建設会社に入り、設計技師として働く傍らアララギの活動もしていたそうです。 終戦後の1947年には加藤克巳、宮柊二らと「新歌人集団」を結成、同年に評論「新しき短歌の規定」を発表して大きな話題となりました。この
詩歌ビオトープ29人目は宮柊二です。 この人は1912年に新潟県で生まれました。北原白秋に師事して「多摩」の創刊に参加、戦時中は召集され、そのときの経験を詠んだ「山西省」は戦争詠の代表的な歌集といわれています。 戦後は「多摩」の後継誌として「コスモス」を創刊。「コスモス」は今も会員がたくさんいて、歌壇における重要な一派といえるのでしょうね。 門下生もたくさんいて、島田修二や高野公彦、河野裕子らもこの人のお弟子さんにあたるのですね。 さて、今回もいつもの通り小学館の昭和