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《コラム》考える事を考える|AIと一緒に哲学

 「独学の思考法」という本において、改めて読書とは別に思考する事の大切さを考えさせられる羽目になった。ショーペンハウアーが指摘するように、本を読むのに思考はいらない。これは体感的にも正しい。思うに、過去の偉人は体感を言語化する能力が優れていたので偉人となったのだ。ショーペンハウアーの指摘は、誰でも指摘しようと思えば指摘出来る、極めて直感的な話だと思う。

 という事で、本を読むついでに何か思考し、記事にしてみたい。思考の題材としては、「考える事とは何か」を選ぼうと思う。なぜなら、上記した書籍のテーマがそれだからである。今回は、この題材を扱うにあたって、回り道をする必要がない。なぜなら、「考える事は何か」を考えている自分を、直感的に捉えて記述すればいいのだ。
 
 さて、考えるについて、ひとつ思い付くのは、「人間は常に何かしら考えている」という命題である。これは一般的には脳内言語がある事を意味する。この事から、考える=脳内言語がある、と帰結するのはどうだろうか。もう少し厳密に、「文法的に整然とした意味のある文章を脳内で生み出している」事と言ってもいい。果たして、これが考えている事なのだろうか。

 しかし、当然のように、「思い付く」という言葉があり、それは考えると区別される。「思い付く」も脳内言語であるが、考える、ではない。よって、脳内言語と考えるとの安直な結び付きは正しくはなさそうだ。ならば、思い付くと考えるの違いを考えてみよう。第一に思い付くのは、思い付く、というのは連想的に浮かび上がる考えであり、考える、というのは、継続的な考えであるという事だ。

 しかし、どうもこの、継続的だという定義がイマイチな気がしてならない。継続的というのは、あくまで同じ題材について長く述べているという事ではないのか?そして、人間の思考過程においては、全ては連想的ではないのか?つまり、前の思考に対しての連想が積み重なっているだけと言えてしまわないか?こういった疑問が生じる。

 無論、体感として「思い付く」と「考える」は微妙に区分け出来る事は知っている。しかし、この区分けが本当に難しい。そもそも、この2つは感覚的に違う。具体的には、考えている時は捻り出そうとしている。もう少し言うと、「思い付く」の時は、グーグル検索で一覧をぱっと表示して、一番に目に入るものを読み上げている。「考える」の時は、一覧から必死にスクロールして、自分が目当てとするページを開いている。こんな感じの差異ではないか。

 しかし、この類比は卑怯だ。なぜなら、Google検索などのアルゴリズム自体が人間の思考を下に作られたのであって、これを考える事だと提示するのはトートロジー的である。では、考える事をそれ自体として哲学的に論じると、結局どうなるのか。ここで私は、埒が明かなくなった為に、Claude2に考えさせる事にした

 「連想以上の何か」。私が必死に考えていた、「連想ではない何か」は何かを定める事なくそのまま解として提示された。なるほど、もはやこれは捻り出すのは不可能なのだ。恐らく、この感覚に対応する言語がないのではないか。だとすれば、もはや、「考える事は考える事である」のトートロジー以外に解を見つけ出そうとすると、必ず失敗するという事ではないか。もしくは、「考える事は思い付く以上の何か」。

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 冷静に考えたら、僕は本を読んだ後に書評などを書く際、かなり一生懸命に思考をしている方だ。わざわざ思考の為に思考する必要はなかった。ともあれ、これから読む本、楽しみです。


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