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【朗読する会 第5回開催決定!】2024.3.20(水曜・祝)7時『ゴドーを待ちながら』




【第4回開催レポ】

2024.2.18  サミュエル・ベケット著『ゴドーを待ちながら』朗読する会を開催しました。参加いただいた3名の皆様,ありがとうございました。p.64-83の3行目までを朗読し,印象に残る箇所や感想を思うまま語りました。
 今回は、本作とトーマス・マン「魔の山」との類似性がでたり、人として考えを述べる切り替えに、「帽子をかぶる」がスイッチの役をしてる。などの気づきも示されました。

・この作品を読み始めてずっと、捉えどころのない、あらすじのないような劇だという感じがする。ゴドーを待っているのは分かるが、一体いつ現れるのか。ゴドーに何を求めてるのかが見えない感じ。
・ポッツオは演劇をして、その評価をエストラゴンとウラジーミルに求めている。演劇をすることで時間がたつのは早いとまわりに感じさせている。
今読んでるトーマス・マンの「魔の山」にも,時間の重さと軽さが出てくる。「魔の山」では,山の上のサナトリウムで静養する。仕事がある山の下の暮らしを下界と呼ぶ。寝てるか食事するかで、時間の流れが下界と違う。
この作品も,木が一本あるだけで何もないと想像する。
空間と時間が象徴するものが似てるといえそう。
忙しくしてると時間はどんどん重くなり,暇にしてると軽くなる。
ポッツオは時間を重くしているのか?
退屈=苦痛。そこに対して時間を重くしようと。
・読むのに一生懸命で何が起きてくるのか分からない。ポッツオは,前は横柄な感じがしてたのに,今はエストラゴンやウラジーミルを楽しませようとしてる。自ら何かやろうとしてる。
・ポッツオは不安定。今回急に泣き出したり,高圧的だったりする。
ポッツオは,「ものを考えるか,踊るか」と。考えるより踊ってと。村上春樹の「ダンス,ダンス,ダンス」を彷彿とさせる。資本主義のダンスを踊らされてるみたいな。自分で何かを考えて動いているつもりでも,広告とかで動いてるのを思い出した。
・著者のベケットは,イギリス人だけど異邦人の扱いをされてた。第二次大戦でドイツがフランスへ攻めた時ベケットは隠れて過ごし,恐れながらも退屈してた。その時の体験が作品に現れてるかも。
・ラッキーは、AIとかロボットみたい。それなのに逆になっていて,ものを考えることが出来ると。人間の方が自我のありそうな印象なのに。
・ラッキーが長い長いセリフを話す。ラッキーのセリフは人間が考える時言いそうな言葉を繰り返して言ってるような。
(セリフ)人間が痩せて縮小していく。どんどんやせ細って地球が石化する?と。←いつまでも未完成なのだと言ってる。
・ラッキーは帽子を被らないと考えられない。帽子が考えることのスイッチみたいなもの。
・p.70ではポッツオがラッキーは以前は(考えを)立派に演説できた。今では、考えさせたら酷い状態になる。ラッキーは壊れた機械、パソコンのように思える。
・ラッキーは最初喋れない役かと思ったが、中盤で人間の役を演じるのも大変だという、居ないといけない役になってきた。
・第二次大戦の戦地となったヨーロッパではこの劇が絶賛された。アメリカでは不評だったという。起承転結がはっきりしてないからか。
・佐野史郎がラッキー役を無表情で演じると、怖さが際立ちそう。
・この劇は、評論によると、著作権の管理が厳しいため、音楽をかけたりのアレンジをしてはいけないなど決まりがあるらしい。
・映画「きちがいピエロ」に、劇中人が観客に話かけるシーンがある。スクリーンの向こうから。映画でないとありえない。
でも、この作品とのつながりを考えたりした。この作品も、舞台から読み手に(観客に)語り掛けているように見える。

第5回目は,2024年3月20日朝7時から開催予定です。


ご参加お待ちしております。
よろしくお願いいたします


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