見出し画像

ニューヨークメッツを愛する私がクイーンズで通った市立のCC: 実践仕様の米語は、人種のるつぼで培われた。

憧れの摩天楼に架かるブルックリンブリッジの夕闇が綺麗にプリントされたポスターを、部屋のど真ん中に貼って、いつの日かニューヨークに暮らす夢を見ながら少年時代を過ごした。いつしか、周囲はカナダやオセアニアにワーホリに旅立つ輩も目立って来た頃、外野の芝生には見向きもせず、頑なに計画通りに、ほぼ定刻通りに、私はJFK国際空港に降り立った。

ブルックリンドジャースと云う伝説のプロ野球チームは、とっくの昔に、其の街から姿を消していたが、そのモダンタイムズな面影を残しつつ、ナショナルリーグを引き継ぎ、ビッグアップルの新たな実りや香りをクイーンズから放ち続けるニューヨークメッツと云う球団の醸し出す、なんとなくエスニックなチームカラーに、私はどっぷり魅了されていた。

日中はマンハッタンのユニオンスクエアの一角に陣取る映画学校に通ったが、帰り道、グランドセントラルSta.から7番線に乗ってクイーンズボロブリッジを渡り、対岸から摩天楼を見上げる33rdの駅で、週四日途中下車して、米語のトレーニングに通った。ラガーディアCC(コミュニティカレッジ)と云うニューヨーク市立大学(CUNY)群の一校で、夕暮れ時から授業開始のEIEPコースのクラスメイトは、私とタイ大使館に勤務する女の子を除いては、みな一概に《不法移民》と云うレッテルを貼られた友人達ばかりだった。コースの募集要項にも『登録にパスポートは必要ですが、写真のページ以外は見ません(から、安心してお越しください)』とご親切に記載されているではないか。そこにアメリカの変テコな矛盾も横たわる。USAに合法的に滞在する私やタイ人娘の方が、よっぽどそのステイに課される制約や手続きが煩雑で、半端ない経済的負担も、同時に強いられるわけである。

とは云え、そんなイリーガルなパーマネントステイスタンスのクラスメイト達って、肝心の《話す&聴く》米語が、日本人の私なんかより格段にハイレベルで、一方《読み書き&文法》受験英語で頭でっかちな私は、クラス分けの筆記試験こそ得点を荒稼ぎして、ちゃっかり一番上のクラスに組み込まれたものの、当初は完全に場違いに感じたものだ。

教室は人種のるつぼそのものだった。熱血ゲイ教師のエナジー漲る教壇からのパフォーマンスは、球審の胸ぐらを掴まんばかりに迫るメッツのレジェンド、ボビー・バレンタイン監督を彷彿とさせた。その熱血漢に対し、ひるむどころか機関銃の様に早口でまくし立てて抗戦するバングラディッシュの雄やら、ドスの効いたアル中みたいなしわがれ声でズシリズシリと応戦するポーリッシュの鳶職人やら、必ず下ネタに結びつけ茶化してはぐらかすコロンビアのプレイボーイやら、そのネタをウケまくって笑い転げるエクアドルの巨乳美女やら、それを上品にたしなめるマチュピチュの老婆やら、多士済々であった。周囲の熱狂に当初は圧倒されながらも、私はそんな刺激的なポットの中で、一緒にぐつぐつ煮込まれながら米語を学ばせるニューヨーク市の懐の深さに、夜な夜な酔いしれたものだ。

全米で何千人あるいは何万人英米語教師が存在するのかは知らぬが、私の担任を務めたアラン・リーフ先生は、確か2008年頃に全米最優秀ESL(English as a Second Language)ティーチャーに輝いている。ゲイって情熱的なんですなぁ、凄い教える才能ですなぁと、その人身掌握術と云うか、魔術の如き話術に生徒を引き摺り込むプロフェッショナルな教えのアートに、毎度畏れ入ったものである。ニューヨーク市立大学群のリーズナブルな学び舎は、他にも幾つか点在するが、あの教室であの教師に導かれて、私の眠っていたポテンシャルは呼び覚まされ、現在に至る仕事の端々に、確かに息づいていると日々感じている。

円安に逆らってもニューヨーク暮らしを始めたい方に、自信をもってお薦めするコミュニティーカレッジのランゲージセンターである。ちなみに二学期目の担任ニール・アップルバウム氏は、NHK『テレビで留学:コロンビア大学英語講座』で、知らぬ間に祖国のブラウン管にも登場していた。名門・コロンビア大学で教鞭を執る講師の授業を、市立のCCでリーズナブルに受講出来るのはお得ですな。
https://www.laguardia.edu/ce/english-language-learning/the-english-language-center/

当時のクラスは月曜日~木曜日の週四日、18時50分~21時20分迄だった。終わると、級友達とまた各々の母国語のアクセントが滲み出る不完全なイングリッシュでワイワイ喚き合いながら7トレインの駅に向かうのだ。夜風が冷たいから、みんなパーカーのフードを被って歩く。私もメッツやカープのキャップの上から更にフードを被せて防寒対策。当時、ニッポンでフードを被って夜道など歩くと「怪しいヤツだ」と警戒されたものだが「何の為にフードついとるん?」と内心、逆に嘲笑ったものだ。一方で、黒人って何を着ても上手に着こなすし、クールに見えてスペシャルだなぁ、とも感じたものである。

7系統をマンハッタンとは逆のフラッシング方面に引き返して帰宅の途につく歳月だったが、その終着駅・フラッシングは東アジア人街で、云わばクイーンズのチャイナタウンである。で、その一つ手前の駅・Willet Pointで降りると、メッツのシェイスタジアムや、全米オープンテニスが開催されるナショナルテニスセンター(フラッシングメドウ)が線路を挟んで、広大な敷地を有して横たわっている。

私は、CCとシェイスタジアム(現在はCITIフィールド)の間の停車駅・Junction Boulevardが最寄りのヒスパニック街・エルムハーストと位置づけられるエリアに、ルームシェアで寝床を借りていた。フラッシングの街中に暮らすと、日本人と同じ様な顔をした東アジア人だらけで、せっかくのニューヨーク生活なのに、なんだか醍醐味が損なわれるようにも感じたからである。お陰で、夜は刺激的なメキシカンのスープと美味しいタコスを一個だけ買って帰り、ESPNのスポーツニュースを流し観ながら食べるのが幸せだった。MLBは延長戦が無制限だから、時には日付が変わってもまだメッツの試合がLive中継されていることもあった。

もちろん週末は野球and NYC三昧に暮らしたわけだが、当時のメッツには千葉ロッテマリーンズでキャプテンを務めたフリオ・フランコが在籍していて「49歳?」などと噂されながら現役最晩年を過ごしていた。そのフランコを千葉に呼び寄せたのがボビー・バレンタインであるが、そのバレンタインの下でプレーした新庄剛志や吉井理人のみならず高津臣吾、松井稼頭央に至るまで、何と現在NPBで指揮を執る元MLB戦士全員が、一度はメッツのユニフォームに袖を通している。ワシらのカープからは、ドミニカカープアカデミー出身のティモ・ペレスや高橋建投手コーチもシェイスタジアムを舞台に活躍した。

そんな日本人選手獲得の舞台裏では、影の仕掛け人が存在する。新庄剛志を或る日、メジャーリーガーに仕立てた男は当時、メッツの環太平洋スカウトを務めていた大慈彌功さんである。彼は、メッツ以上にド派手なユニフォームで日本球界に一瞬の輝きを放った太平洋クラブライオンズで束の間プレーした後、ロッテ時代のバレンタイン監督の通訳なども務め、メジャー球団の海外スカウトなどを歴任しているジェントルマンである。

新庄は今でも「大慈弥さんが僕をメジャーリーガーにしてくれた恩人」と語っている。新庄が阪神時代に槙原寛己のピッチドアウトした敬遠のボールに手を出してサヨナラタイムリーを放った奇襲の裏には、その奇策を許容した柏原純一打撃コーチとの厚い信頼関係が在った。
ボビー・バレンタインを千葉ロッテに招聘したのは、当時のGM・広岡達郎の一存だったわけで、やはり才能を見出し、抜擢するのも一期一会、人の縁がこの世界を支えているわけである。

昨今、スポーツ関連など英米語で仕事をこなす度に、アラン・リーフ師とクイーンズの熱く滾るような夜の教室を思い出す。単一民族国家、島国ニッポンの内側でエエ語は喋らずに読み書きで学んだ凡才の舌を、がむしゃらに遮二無二ねじ曲げるように「違う!こうやって喋るんだ!」と実演しながら、このリーガルステイの小さな日本人にも口角泡を飛ばして、細かい発音の違いの妙まで激コーチしてくれた。自由の女神に導かれたような、あの名伯楽との出逢いに、あらためて感謝する今日この頃である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?