見出し画像

第58話 1979年 『国際復帰の中国とモスクワ男子代表決定戦』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

バックナンバーはこちらから→マガジン「ハンドボール伝来100年」

モスクワ・オリンピックアジア予選(男女、11月17~23日・台湾)を控えて2月に東ドイツ女子、7月に西ドイツ男子の現・世界チャンピオン、9月に伝統国オーストリア男子が女子のヨーロッパトップクラブ・同国のヒポ銀行HCを帯同して次々と来日、豪華なトライアルとなった。

両世界チャンピオンは“遠征疲れ”をのぞかせるなどベストコンディションではなかったが、全日本男女は力及ばず、いずれも2戦2敗。

女子は観客を前にして初の公式国際試合となった。男子は大同特殊鋼(愛知)が15-15の引き分け、王者をあわてさせた。

オーストリア男子はアマチュアリズムを守っての活動を続けたいと日本側の共感を誘ったが、ヒポ銀行は対照的に外国の有力選手と高額で契約し強化、当人が望めば国籍を与えてオーストリア女子代表の強化につなげる大胆な策を採っていた。

話題を集めたのは東ドイツのロスビッタ・クラウゼとヒポ銀行のエリザベート・プロコップの両ゲームメーカー。メキシコ・オリンピック(1968年、ハンドボールは行なわれず)でクラウゼは競泳400m自由形リレーの第2泳者として、プロコップは陸上競技・7種競技でともに銀メダルを獲得。クラウゼはモントリオール・オリンピックのハンドボールでも銀メダリストとなった。

2人とも「個人スポーツに打ち込んだあとはハンドボールに転向」を決めていたと言う。ヨーロッパ・スポーツの一面を知ることになった。

モスクワ・オリンピックアジア予選直前に驚くべき展開があった。中国が国際オリンピック委員会(IOC)への復帰を決め、国際ハンドボール連盟(IHF)もすぐにその仮加盟を承認したのだ。

中国はこれまで強硬に「台湾との同席」を拒んでいた路線を大きく転換し、IOCは10月末名古屋での理事会でIOC全委員の郵便投票に問うと決め、10月26日開票の結果、89票のうち62票が復帰に賛成、国際舞台への登場が決まる。

ハンドボール界は祝うように11月3日から中国・南京で第2回アジア男子選手権を開く。日本は2連覇(日本27-25中国)。

IHFは11月6日、「モスクワ・オリンピックの男子アジア代表は台湾での予選勝者と中国が対戦(2試合)して決める」と発表、騒然となる。

台湾での1次予選は男女で明暗が分かれた。男子は韓国、台湾をストレートで下し中国との決定戦へ進むが、女子は前年の世界選手権アジア予選での敗戦(第57話参照)が尾を引いたのか韓国に15-17、14-22で敗れ「3大陸代表決定戦」(1980年3月・コンゴ人民共和国)へ進めず、オリンピック連続出場の夢を絶たれた。

日本協会は男子代表決定戦に日本の進出は確実と見て準備に入り、チームが台湾から帰国した時には「12月7日名古屋、8日東京」の日程が固まっていた。

試合は台風で中国の来日が遅れ、8日に第1戦、日本は35-21で先勝、9日の第2戦も27-22で完勝し、ようやくモスクワ行きを決めた。国内の観客を前にしてのオリンピック出場決定は初めてだった。

4年目を迎えた日本リーグは1・2部制を初採用、男子は1・2部各6チームによる2回総当たり、女子は1部8チームによる1回総当たり、2部は3チーム。男子2部に自衛隊勝田(茨城)が加入した。自衛隊チームは初。

日本が世界ジュニア選手権(男女)へ初参加したのはこの年である。

第59回は9月20日公開です。


よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートはよりよい記事を作っていくために使わせていただきます。