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第55話・1976年 『開幕・日本ハンドボールリーグ』

「ハンドボール伝来100年」を記念した1話1年の企画も後半に入ります。オリンピック競技への定着で日本ハンドボール界に国際シーンの激しい波風が吹き込み、国内のトピックスを押しのける年も増え始めます。世界の中の日本ハンドボールが主題となる内容は各大会の足跡やチームの栄光ストーリーをごく限られたものとします。あらかじめご了承ください。
(取材・本誌編集部。文中敬称略。国名、機関・組織名、チーム名、会場名などは当時)

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9月4日、日本リーグの歴史が始まった。日本協会は先発している7つのスポーツの日本リーグとは異なるカラーを打ち出そうと2月の評議員会・理事会で了解を得たあと、各全日本連盟のトップを候補リストにあげ、さらに47都道府県協会からの推薦を受けつけ男子25、女子19チームが揃った。

4月の加盟締め切りまでにこのうち男子10、女子9が申請し、男子に教職員クラブ「大阪イーグルス」の参戦が決まったほか、男女とも2チームによって残り1枠を争う決定戦が行なわれ、関心の高さを示した。全日本実業団リーグの移行による開催は避けたいとしていた日本協会は、一応の狙いを遂げた。男女で12の大学チームがリストアップされていたが、いずれも辞退した。

記念すべき男女開幕戦は男子・三陽商会(東京)−大崎電気(埼玉)、女子・日本ビクター(茨城)−立石電機(熊本)、いずれも会場は東京体育館。同日、広島・呉市体育館でも男子・日新製鋼呉(広島)-湧永薬品(大阪)が行なわれた。9月26日まで1回総当たりの短期シリーズで男子は14都府県、女子は12都府県で開催されたが、総観客数は2万6500人。1試合平均500人ラインに届かず大きな課題となる。“事業力”に対するマスコミの評価は厳しかった(=1会場2カードの日程が多く、来場者数の1会場平均は1000人弱)。

注目のモントリオール・オリンピック(7月)。男子のアジア1次予選(3月)は女子(54話参照)とは別の問題がのしかかった。国際ハンドボール連盟(IHF)は開催地を台湾と決めたが、同地は日本オリンピック委員会(JOC)の「日本・中国スポーツ交流3原則」で定める「日本は台湾で開く国際大会に参加しない」に触れる。

JOCは再三の会合の末「オリンピック予選は特別」の判断を示した。当初のエントリーではクウェート、フィリピンの名もあったが、両国は棄権。日本、韓国、台湾の2回総当たりで日本は4戦全勝、イスラエルとの代表決定戦へ勝ち進んだ。

日程の決定時点で開催地はテルアビブ(イスラエル)で4月に2連戦と決まっており、日本の出発前にはイスラエル当局から「安全な状況」が伝えられた。イスラエルの日本対策はこれまで以上に練られていたが、日本は17−15、18−15で遠征の不利をはね返した。

初の女子は3大陸代表決定戦の詳細がなかなか決まらなかったが、IHFは5月になって本大会直前アメリカでの開催とした。JOCは準備や手続きなどが複雑となり、渋い顔をしたが、敗退の場合、生じた経費の大半を日本協会が負担することでまとまる。チームの編成は選手が男女各12、役員は男2、女1となった。

3大陸代表決定戦(6月)は日本が地力を発揮、アメリカ(アメリカ大陸)、チュニジア(アフリカ大陸)をいずれもストレートで退け4戦全勝、代表権を手にし、そのままモントリオールへ向かった。大会は男子が10位、女子が5位、蔵田照美(立石電機)が得点王に輝いた。

この年の1月、クウェートで「アジア・ハンドボール連盟(AHF)」が正式に旗あげされた。加盟国数は14。

日本協会は、一時IHFが「極東」「中東」の2地域案をのぞかせ、慎重になりゆきをみていたが、結局、IHFも中東カラーの濃いAHFを承認する方向に傾いたこともあり、6月に加盟を届出た。運営はクウェートが“政治力”を見せつけて仕切る。大陸連盟はアフリカ(CAHF、1973年設立)に次いで2番目。イスラエル(男女代表チーム)のヨーロッパ転籍(復帰)は10月の第16回IHF総会(ポルトガル)で決まった。

第56回は9月17日公開です。


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