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"自分らしさ"とは何か? ~幸せに生きる方法を書いてみる~

やあみんな、かずまだよ。
いま俺は地中海は西側、スペインの小島マヨルカ島のパルマにいるよ。
明日は一日中海上に居て、明後日はイタリアはシチリア島のパレルマを旅する予定だよ。

いまたぶんグレーのポイントのこのあたり。赤い丸がシチリア島パレルモ。

海外に行って驚いたこと。
それは、とにかく物価が高いってこと。

レストランに入ってご飯を食べたら1万円以上かかるし、3食ふつうに食べたら1日で2~3万円はいく。俺みたいにふらっとその辺のテラス席のあるレストランに入ってそれだから、ちゃんとしたそれなりの高級店に入ったらもっとかかる。

海辺のなんてことないカフェで、ハンバーガーとレモネードだけで7000円くらいいったり(マジ)、缶コーラ1本で700円くらいだったり、水ですら500円くらい(イタリア・スペインではレストランで出てくる水は有料。フランスは無料だった)するから、目ん玉飛び出るくらい驚いたよ。

バスだって片道25分程度のルートを往復で15ユーロ(2400円くらい)かかる。

物価は3倍って聞いてたけど、体感で10倍くらいに感じるなあ。

スイス人の初任給は73万円らしいけど、確かにそれくらいないと生活きつそう。

日本は貧しくなっただとか、スタグフレーションだとか、言葉や知識としてはわかっていたつもりだったけど、いざ海外に行ってみるとマジで何もかもが超プレミアム価格で、世界と日本の差をまざまざと痛感したよ。

1000円から1500円でおなか一杯食べられる日本は、ものすごく安い国だなあ、と思ったね。

ちょっと前まで日本人が東南アジアに行って「何もかもが安い!」と喜んで飲み食いしていた感覚で、欧米の人たちが日本に来ているって感じがよくわかった。
しかも日本は治安もいいしね。中流階級の外国人たちが遊ぶには最適な国だと思ったよ。

暗い話になりがちな日本が貧しくなったという話だけど、視点を変えるとポジティブな話でもある。

だって、自分が周りの群れから飛び出してほんのちょっと稼げば、それなりに幸福に暮らせるってことだからね。
常に80%オフセール価格の国・日本で生きていけるのは、最高だね。しかも言葉も文化も理解できる国だし。

物事は捉え方次第。よくも悪くも考えられる。

日本はとにかく安い。しかも言葉もわかるし文化もわかる。スリの心配もない。税金が高い以外、最高じゃん!

* * *

さて今週なんだけど、視聴者さんからリクエストが届いたから、今週はそれについて書いていこうと思うよ。

まずは、以下に依頼文を掲載するよ。

公式ラインに届いたリクエスト。ありがとう。

『カーネギー氏の「道は開ける」の本を読み、「どんなことがあっても自分らしく生きなさい」という言葉で心が明るくなりました。
 私はそんな言葉をかけられたことがなかったので子供にはそう言い聞かせようと思います。
 かずまさんなりの言葉で「自分らしく生きること」について深掘りしてほしいです。』

リクエスト文より

ということでね、まずはリクエストありがとう。

あ、ほかにも公式ラインに感想を送ってくれてる方々、本当にありがとう。
いつもうれしく読ませてもらってるよ☺✨
 

さて、「どんなことがあっても自分らしく生きなさい」という言葉は、励まされるよね。
俺自身も、わりとどんなことがあっても自分らしく生きている寄りの人間だから、シンパシーを感じるよ。

この「自分らしく生きる」とはどんなことを指すのだろう?と改めて考えてみたよ。

自分らしさとは何か

自分らしく生きること、を語るためには、まず「自分らしさ」を言語化する必要があるよね。
だからまず、自分らしさの定義から。

「自分らしさとは、『私というキャラクター』にふさわしい振る舞いのこと」

というところか。つまり自分らしさとは、私というキャラクターを理解していることが前提にある。ここ重要。あとで触れる。

ということでカーネギーの言葉「どんなことがあっても自分らしく生きなさい」を言い換えると、「どんなことがあっても自分の信念、価値基準をブラさずに生きなさい」といったところだろう。

または、前後の文章によっては文脈が変わるか。
「どんなことがあっても自分以外の誰かを演じたりせず、誰かの期待に沿った人生ではなく、自分の望む人生を生きなさい」という意味合いにも受け取れる。
まあ似たようなもんだけど。

どちらにせよ、自分らしさとは「ほかの誰でもない私の意志」が重要だということだね。

「私の望み、私の信念、私の価値基準、それが私らしさ」

* * *

そして、当たり前のことだが、それらを損ねながら生きていくことは非常に辛い。
自分の意志や尊厳をないがしろにしながら幸せを感じることは難しいからね。

わかりやすく、

「私の望み、私の信念、私の価値基準、それが私らしさだ」

という先ほどの言葉の逆を書いてみよう。

私の望みを捨て、私の信念を曲げ、私の価値基準ではなく他人の価値基準で生きること。

ぎくっと感じた人は、生き方を見つめ直す時期にいるのかもしれない。
言葉にして可視化すると、これがいかに幸せから遠ざかる生き方なのかがわかる。
これ以上なくボディに響く重い文字のパンチだ。

幼少期の自分からの強烈な一撃。

さらに対比させてみよう。

私の未来への展望・希望を胸に抱き、
私の信念をないがしろにせず、
私の人生における優先順位を明確にし、それに沿って生きること。

私の望みを捨て、
私の信念を曲げ、
私の価値基準ではなく他人の価値基準で生きること。

このように対比するとさらにわかりやすい。

* * *

ちょっと話は逸れるが、先日Twitter(X)で「貧困層の貧乏は生涯続く」という書き込みに対して、「俺も貧困層だったけど、今はその境遇から脱した。一生続く貧乏など幻想だ」という引用をしたときに、あるフォロワーから「それは脱した人だから言えることで、無理な人には無理」という指摘があった。

これに対して俺は「確かに俺は経済的な環境には恵まれなかったけど、才能や頭脳には恵まれたから、ある意味ではそうなのかもしれない。だけど、俺が最初からあきらめて、何もチャレンジしていなかったら、今の俺はいないよ」と答えた。

そう。あきらめず、さまざまなチャレンジをしたからこそ、今の俺がいる。

だから、前述の文章で一番重要なのは「私の未来への展望・希望を胸に抱き」という部分だ。

自分の人生に希望を持っている限り、ヒトは行動を起こすことが出来る。
そして行動をしている間は、幸せへのチケットを握っていられるし、絶望せずに済む。

極論、自分の人生を変えてやる、という希望がヒトを幸福たらしめる。

抗え。走れ。

いかに境遇が酷かろうと、社会的に底辺だろうと、貧しかろうと、家がなかろうと、家族を失おうと、未来に対する展望や希望があれば、ヒトは自分を憐れまずに済む。

逆に、自分の人生をあきらめた時、自分の人生に対する主導権を手放してしまったとき、ヒトは絶望し、不幸になる。

自分の人生に対する効力感こそが、幸福の有無をわけるということだ。
効力感とはつまり、自分の人生の主導権は自分にあるという感覚だ。

だから、Twitter(X)で「無理な人は無理」という言葉を聞いたときに、不憫に思った。
「無理な人は無理」と未来への展望を捨ててしまうことによって、効力感を失い、不幸になってしまうからだ。

人によって価値観が違うのは当たり前だし、赤の他人の価値観を変えようとは思わないが、自分の子供が同じことを言っていたら、対話によってその考え方のデメリットに気付かせたいくらいには貧しい考え方だ。

いつも言うように、価値観や考え方が変わると、人生が変わる。

どうせ無理だと諦めて死ぬまで自分を見下しながら生きる考え方と、
絶望せずにチャレンジし続ける考え方。

どちらが貧しい考え方で、どちらが幸せな考え方か、一目瞭然だろう。

成功するかどうか、金持ちになれるかどうか、そんなものはどうでもいい。

俺は自分の子供に効力感を持って、死ぬまで野心を燃やして生きていってほしいと願っている。
死んだ目をして、「俺なんてどうせ」と言うような大人にはなってほしくないと願っている。

獲物を狙え。飛びかかれ。

まあ俺の血を分けたやつらに限ってそんな弱々しいことを言うはずがないとは思うが笑笑。

「ヒトを幸福たらしめるものは、自分の人生・未来に対する明るい兆しである」
「幸福へ導くための行動を起こさせるのも、未来に対する効力感である」
「自分に絶望し、変化をあきらめるとき、ヒトは本当の不幸になる」

* * *

話を本筋に戻すと、カーネギーは「どんなことがあっても自分らしく生きなさい」と説いたが、それは「その方が幸せだからだ」ということだろう。

自分らしさを理解し、そこから離れず、ブレず、自分の求める人生を追求し、行動すること。
それが幸せにつながると確信しているからこそ、そう書いたのだろう。

自分らしく生きることは、人生を楽しむということと同義なのだから。

* * *

うんうん。その通りだ。
自分らしく生きられれば、幸せだよね。
みんなそうすればいいのに!

と6歳のあなたならシンプルにそう言っただろう。
まったくその通りだ。

「みんなそうすればいいのに!」

みんな自分らしく生きようぜ!!

でもほとんどの26歳や36歳や46歳は「そうは言ってられないんだよ。大人って窮屈な生き物だよ」と肩をすくめて「大人な選択」をする。

でもちょっと待ってほしい。
これって変なんじゃないか?

みんな自分らしく生きたい。
誰もが自分らしく生きる方が幸せだとわかってる。

でも現実にはほとんどの人が自分らしく生きられていない。

子供の心で考えれば、異様である。
これは大きな謎だろう。

では、なぜヒトは自分らしく生きることが出来ないのか?

この問いを立てたとき、その原因は大きく2つあると考えた。

①そもそも自分らしさがわからない
②自分らしさを貫くのが怖い

それぞれを解説していこう。

* * *

①そもそも自分らしさがわからない

客観的な自分を認知できる?

まず、俺が冒頭のリクエスト文を読んだときに真っ先に考えたことが、「子供に自分らしさなどあるのか?」ということだ。

もちろん俺には3人の子供がいるし、自分だってかつては子供だった。妹や弟もいるし、同級生も100人以上いた。だから子供にだって個性があることくらいはわかる。

ただ、個性と「自分らしさ」は違う。

言語化すると、個性とは他人との差異であり、生まれ持った性向のこと。
そして、自分らしさは上述のとおり「『私というキャラクター』にふさわしい振る舞いのこと」だ。

では、子供は自分を客観視できるのか?
私というキャラクターらしさを理解できるのか?
望み、信念、価値基準を自覚しうるのか?

答えはNOだろう。

俺は超早熟児で、2歳から自我があり、漢字を理解していたが、自分のことを理解し始めたのは20歳を超えてからだった。
なんなら賢くなったと言えるのは25歳以降のことだった。

俺の長男の話をすると、彼はいま小学五年生で、まだまだ自分のことを深く考えることは出来なさそうだ。
この間、真剣な話を電話でしていたらYOUTUBEショートを見ながら聞いていたらしいし。
それを元奥さんから聞いて、怒るよりも「まだガキだなあ」とめちゃ笑った🤣✨

つまり、子供に「自分らしく生きろ」と伝えたところで、意味がないということだ。

だって、自分らしさがなにかもわからないのだからね。

だから上に「子供に自分らしさなどあるのか?」と書いたが、正確には「自分らしさを認知できるのか?」と思ったわけだ。

自分らしさ??何それ??美味しいの??

では、リクエストしてくれた方が「子供に伝えたい」という要望だったので、それに沿った言葉を考えてみよう。
どのように伝えたら子供にも意図が伝わるのだろう?と考えてみた。

さて。俺が自分の子供に伝えるとしたら。

「自分はどう感じた?」
「自分はどう思っていた?」
「自分はどうしたかった?」

と気持ちを言語化させるかな。

「自分らしさ」がまだわからない時期だからこそ、自分と対話させ、自分を理解させる。

俺ならそうする。

* * *

さて、大人だって自分のことがわからない人はたくさんいる。
というか大抵の人は「わかってる」と思ってても、ほとんど自分のことをわかってないと思う。

それくらい本当の自分を理解する、客観視するということは困難なことだから。

無意識のパターンを自覚したり、当たり前だと思っていること=観念を自覚することは難しい。

では、そんな大人の場合はどうするのが最適か。

ちょっと考えてみたが、こんな道筋でどうだろう。

A.自分と対話し、自分の気持ちを言語化する訓練
B.自分の個性や性向を理解し、肯定する
C.自分の価値基準を定める
D.自分の未来を描く
E.自分の過去・現在の考え方を書き出し、その考え方は未来の自分にふさわしいか考えてみる

ざっとこんな感じだろうか。

俺が自分の子供に教えるならこんな手順を踏むと思う。

長くなってしまうし、本筋ではないので概略をさっと解説するにとどめる。

▼概略

A.自分と対話し、自分の気持ちを言語化する訓練
→とにかく自分の気持ちを言葉にする。抽象的な言葉や、ざっくりした言葉をさらに分解して具体的な言葉にしたり、本人が無意識に使ってる言葉を深掘りして、その言葉をどういう意味で使っているのか、その裏にある観念は何か、を浮き彫りにしつつ、無意識や思考プロセスを見える化していく。その過程で、自分の気持ちや思考を言語化できるようになっていく。

B.自分の個性や性向を理解し、肯定する
→自分を受容し、肯定する。自分を肯定することで、未来に対してアプローチする気になれる。自分に対するあきらめを解除していく。またあきらめを解除する段階で、視野を広げてあげることも重要。さまざまな事例から、発想を転換させてあげたり、違うルートを提案することをしてあげよう。

C.自分の価値基準を定める
→なんのために生きるのかを明らかにしていく。何が楽しいのか。何をやりたいのか。人生で一番重要なものは何か。譲れないものは何か。これが信念になり、価値基準になる。これが定まれば、人生の迷いや後悔は消える。価値基準がわからないときの判断はあとで後悔するが、価値基準が明確になっていたうえで選択・決断したことには後悔しないものだ。「あのときに遡って、自分は違う決断をするか? いやしない。それは自分の判断基準が○○だからだ。だから後悔は無意味だ」と割り切れるようになるということ。これは幸福度に直結する。過去にフォーカスする時間や、ネガティブな感情に支配される時間を極度に減らすことが出来、そのぶん生産的な活動や、無駄な遊び、ぐうたらした平和な昼寝などに人生を使うことができるようになる。

D.自分の未来を描く
→人生とは、地図に似ている。目的地と現在地がなければ、どこにも行けない。だから目的地を決める。ちなみにAやBは自分を客観視するために必要なステップで、客観視こそが現在地となる。現在地と目的地がはっきりするからこそ、ルートが導き出せる。このルートもいくつものルートがあっていい。ひとつのルートでなくてもいい。むしろ「この道しかない」と思い込むことは精神衛生上、害悪である。そしてルートを走るうえで、エンジンとガソリンが必要になる。エンジンは動機。なんのためにそれを達成するのか。これはなるべくわかりやすい原始的な動機がいい。原始人でも理解できるくらい簡単な動機がいい。「モテたい」「家族を守る」「復讐する」とかね。ガソリンはやる気。時々入れてやらなきゃいけない。ただときどきガス欠するのも人間らしいこと。責める必要はない。またガソリンを入れてやればいい。ときどき自分はどうなりたいか、なにをやりたいか、それを点検することがガソリンになる。そしてアクセルを踏む。ヒトによってこのアクセルの種類は違う。自分は何をしたら前に進めるのか、理解する必要がある。俺の場合は、女の人に褒められること。だから自分からお願いして、たくさん褒めてもらった。ダイエットをするときは、友達と対決する形式にしてモチベーションを保った。また痩せたら女の人に褒めてもらう約束を取り付けた。自分の動かし方を理解することが重要。

E.自分の過去・現在の考え方を書き出し、その考え方は未来の自分にふさわしいか考えてみる
→人生を楽しんでいる人は、考え方に共通点がある。「無理な人は無理」という考え方は貧しい考え方で、「やってみよう」という考え方が幸せな考え方、というのを上で説明したが、幸せな人・楽しんでいる人は考え方に共通点がある。ある事柄に対して、どう感じるか、どう考えるか、それをまず浮き彫りにしていく。そしてそれが幸せな人にふさわしい考え方なのかを検証していく。そしてどう捉え直すと幸せになるのかを考えていく。人生は考え方がつくる。遺伝子は真似できないが、考え方は真似ることができる。

この5ステップで「自分らしく生きる」ための力を養おう。

いずれはこんな講座もやってみたい。

でも言語化の訓練だけで何週間かやらないといけないし、ちょっと大変そうだな笑。これは余談。

* * *

②自分らしさを貫くのが怖い

これは、自分の考えで選択したり決断したりすることへの恐怖心のこと。
自分の意見を表明したりすることへの恐怖や、自分だけ違うことをすることへの恐怖も含まれる。

自分が行ったことで大失敗したときのトラウマや、親に叱られた経験から、こういった億劫さが生まれることも多い。
また、親から「お前なんて」「お前にはどうせ何もできない」などと頭ごなしに否定された人にもこういう恐怖心は生まれる。

逆に親から大切に育てられすぎてもそうなる。

つまり、親があれこれと世話を焼き、進路から習い事から塾から交友関係までをも管理・支配していたパターンの人たちだ。

彼らは自主的に何かを選択したり決断するという経験を親に奪われ、主体性を養えないまま大人になってしまう。

すると、自分らしく生きるよりも、誰かの求める自分として生きる方が楽に感じるようになる。

親の求める自分、妻・夫の求める自分、友達の求める自分、会社の求める自分。役割を演じようとする。

他者の中にしか自分を見出せない人は、他者に一挙手一投足を縛られる。

役割を奪われたときに、どうしていいかわからなくなるという人はこういうタイプだ。

そういう人は、「○○のため」に生きることを是としている。それは決して「私のため」ではない。ただ他人のために生きることは美徳だと教えられてきているため、違和感に気付きにくいのが特徴だ。

もちろんチームワークは重要だし、協調性もコミュニケーション能力も重要だ。人間は社会性動物だからね。

だからといって、それは「私」を犠牲にしてまで保つものじゃない。

国のために神風特攻隊として死ねとか、思いやりのためにワクチンを打てとか、とかく「体制」は大義名分のもとにそういった犠牲を求めるものだが、それはもちろん虚構だ。

他人に尽くすため、他人に従うために産まれてくる人間などいない。

そこまでじゃなくても、「家族のため」「会社のため」「友達のため」「仲間のため」「親のため」と他人の期待に応えようとする自分の姿を、いったん冷静に見てみよう。

そして「私のため」に生きる、と考えた時に、どういう感想を抱くかで自分の観念が浮き彫りになるだろう。

自分を愛することとは、自分の尊厳を守るということ、自分を人間らしく扱うということ、自分をないがしろにしないということ。

ただ当然のことながら、自分で判断したり選択したり決断したりする経験がないからといって、一生その経験を積めないわけではない。

大人になればどんなことでもチャレンジすることが出来る。失敗を受け入れる気持ちさえ持てば、恥をかく覚悟さえすれば、どんどんと挑戦することができる。

だからいつでも自分を変えることができる。


そして、他人と違うことをすることの恐怖心は、自分の判断に自信がないときに起きる。

数日前、バチカン美術館に行ったとき、時短のために優先入場券付きのツアーをネットで買ったときの話。

ツアーの集団とともに美術館の中に入り、荷物検査を終えたんだけど、そのときにガイドさんがいなくなった。7分間くらいかな。たぶん。

そのときに、どうするか迷った。
勝手に進むべきか、それとも待つべきか。
7分は結構長かった。体感で30分くらいだった。

時間は刻々と過ぎていく。

俺は周りを見た。周りのツアーの客たちもざわざわしていた。
だが、結局は待っていた。そして俺も待つことにした。

その後、ガイドが戻ってきた。
待っていて正解だったわけだ。
そしてチケットをもらい、入場することができた。

この話のポイントは、「外国での文化・マナー・しきたりの違いに自信が持てなかった」ということ。だから周りを見て合わせた。

「自分の判断に自信が持てないとき、人の判断に身をゆだねるのがヒトの習性」

自分に自信がない人は、自分らしく生きることが出来ない。
周りを見て判断し、周りと同じように行動してしまうため。

これはとても重要なことだ。

もう一度、カーネギーと6歳時のあなたに登場してもらおう。

「どんなことがあっても自分らしく生きなさい」
「自分らしく生きたいなら、みんなそうすればいいのに!」

でも、それが出来ないのは、自分の判断に自信がないからだ。

自分らしく生きるということは、自分でリスクを計算し、そのリスクをどの程度取るかを判断し、行動を起こし、そしてリターンをも得るということ。

それゆえ、自分の判断に自信が持てず、リスクある決断が出来ないうちは自分らしく生きることは難しい。

だが、それがわかっていれば対処のしようもある。

つまり、判断力を養えばいい。

誰だって致命的な失敗を犯すことは怖い。
人間だから当たり前だ。それは恥ずかしいことじゃない。

でも、「何が致命的な失敗で、何が軽い失敗で、何が実験結果で、それを踏まえて何を変えていけばいいか」が判断できるようになると、あらゆることを決断できるようになっていく。

自分らしく生きられる人は特別な人なんかじゃない。
このように足りないものを身につけたり、考え方を変えていける人だ。

どこが平野か、どこに川があるのか、どこに山や森があるのか、それがわかれば進むべきルートも見えてくる。比較的スムーズに旅をすることが出来る。
判断力とは先を見通す力だが、それはリスクを見通す力でもある。
それが身につくと、人生という旅は楽になる。

判断力とは、知識や経験によって培われていく。

人の話を聞いたり、人が書いた本を読んだり、歴史を学んだり、時代の流れを読むことで、どこにリスクが潜んでいるかがわかるようになっていく。これが知識。

また、自分の失敗や成功体験からも、先に待ち受けているものが平地なのか山なのかがわかるようになってくるし、難所を超えられるか・超えられないかもわかるようになってくる。これが経験。

迂回ルートを考えられるとさらにいい。これは視野の広さ、視座の高さが関係してくる。これは知識量×思考の柔らかさってところかな。

生きていく中で、さまざまな知識や経験を積むことで、自分らしく生きるための、自分を貫き通すための、他人に合わせずに独自の道を行くための、すぐれた判断力が得られるということだ。

「判断力は、知識や経験によって培われていく」

そして、自分らしさを貫くということは、他人と違った道を行くということで、判断力だけでなく精神力も必要とする。

他人と違った道を行くことは、孤独に打ち克つ必要がある。
同調圧力に屈せず、どう思われてもいいと開き直る必要がある。

誰もいない野をいくことは、ある種、孤独な旅である。

「そんなのうまくいきっこないよ」
「やめときなよ、あぶないよ」

そういった声を無視できるか、できないか。
他人ならまだしも、友達や家族の制止である。

俺もサラリーマンを辞める時や、競馬YOUTUBERを辞めるときにさんざん言われた。

あなたならどう反応するか。

ここで重要なことが、「自分の価値基準を定める」ということだ。

自分の人生の最重要事項を決めておけば、他人に惑わされずに済む。
人生の責任を取ってくれるのは、自分だけだからね。

後悔のない人生を送るには、自分の判断基準をしっかり持っておくに限る。

また本当に大失敗したときのリスクマネジメントはしているのか。
大事な人を説得するだけの材料や根拠や熱意はあるのか。
それら大事な人の反対を押し切ってもやりたいことか。
その理由(エンジン=動機)は何か。

この辺りをもしっかり考えておこう。
根拠のない夢はヒトを殺す。

俺は競馬YOUTUBERとして独立したときも、ヒプノセラピストに転身したときも、自分なりに色々と考えた。
また反対もされたが、自分なりにやらなければ後悔すると思ったから、それぞれ行動を起こした。

他人は自分の人生を生きてはくれない。責任を取ってもくれない。チャンスは自分から掴みに行くしかない。そしてそれは自分らしさを貫ける人にしか掴めない。

運よくチャンスが目の前にぶら下がっていて、自分からは動かずに運よくそれを掴んだとしても。それはいずれどこかの局面で破綻する。
なぜならば、「他者と違うことを恐れずに自分らしさを貫く」という基本ルールが守れていないからだ。

そういった人間は、他者の顔色を窺い、ご機嫌を取り、迎合し、振り回され、疲れて崩壊する。

他人に振り回されないメンタリティを持っておかないと、パンクする。

改めて、幸福な人生とは、自分の人生の主導権を自分が持つことである。

であるならば、他人に振り回される人生は不幸である。

だからこそ、幸福に生きるためには、「他者と違うことを恐れずに自分らしさを貫く」ことがめちゃめちゃ重要なのだ。

「他者と違うことを恐れずに自分らしさを貫くことで幸福に生きられる」

* * *

繰り返しになるが、自分らしさを貫くということは、他人と違った道を行くということで、判断力だけでなく精神力も必要とする。

他人と違った道を行くことは、孤独に打ち克つ必要がある。
同調圧力に屈せず、どう思われてもいいと開き直る必要がある。

たとえば、コロナウイルスが流行したとき。
これがどれだけの同調圧力だったか、記憶に新しいだろう。
そして情報操作や洗脳、大本営発表、集団ヒステリー、パニック状態がどういったものかも、よくわかったと思う。

俺は当初から、恐怖心を煽る過度な対応・報道には疑問の目を向けていた。
そして、冷静に判断し、恐れるほどのものではないと考えた。
また、ワクチン接種を拒否した。

これは自分の頭で判断したことで、他人にどう思われても自分の判断を曲げなかったことでもある。

元妻や小学生の息子にすら「ワクチン打ちなよ」と言われたが、かえってウイルスが変異することや、弱毒化していく性質について講義するほどであった。
まあ離れて暮らす父の言葉よりも、毎日一緒に居て怖がっている祖母やテレビの洗脳の方が強かったが笑。

余談だが、判断力を担保するためには、冷静さを保つことが重要だね。パニックになってしまったら、判断力は失われてしまう。

いったん冷静になろう。恐怖心を鎮めよう。忘れたり抑え込むのではなく、鎮める。

判断力を保つために、「何を恐れている?」「どうなると思っている?」「なぜそう思う?」「そうなる確率は?」「そもそもなぜ怖い?」「それはいつから怖い?」など、恐怖を言語化していくことが重要だ。
恐怖を理解可能なものに変換したときに、それはコントロールが可能になる。

さらに余談だが、ヒトをコントロールするには、恐怖と不安をあおるのが常套手段だ。
だからこそ、恐怖や不安をコントロール可能にすることで、パニックに陥らず、その状況を批判的に見ることが可能になる。そして冷静に判断することができる。

* * *

コロナの例で、家族にすらワクチンを打たないことを冷笑されたように、他人と違うこととは、ある種孤独になることだ。
とくに洗脳された大衆と別の行動を取ろうとするときに、それが顕著になる。

けれども、違った道を孤独に歩めるからこそ、普通の人には体験できない体験ができ、見れない景色が見られる。

大衆に埋没し、自分で考えずみんなと同じ行動をし、メディアや政府や誰かの言う通りに生きていたら、そうはならない。

地中海の夕日。

有名な格言がある。

「同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと,それを狂気という」
(アインシュタイン…は言ってないらしい笑。じゃあ誰の格言なんだよ? まあ別にそれは本筋じゃない)

これは人生単位にも言えることだ。

自由になりたいとか、幸せに生きたいとか、自分らしく生きたいとか、そう思うのであれば、他人と違う道を行くほかない。

「大衆と同じことを考え、大衆と同じ行動をしながら、自分らしい人生を望むこと。それを狂気という」

だから、まず考え方から変えていこう。
それが自分らしく生きることの出発点だ。

「自分らしく生きることとは、他人との違いを恐れずに生きること」

ただ、自分らしく生きるためには孤独に打ち克つ必要はあるが、だからといって必ずしも孤独になるわけではない。

俺は現在、男友達も女友達も数多くいる。
競馬の3万人超のファンや、スピの6000人超のファンもいる。

孤独は受け入れる必要がある。
そして荒野をひとりで行く覚悟も必要だ。
でも実際に孤独にならなくていい。

そして、孤独を超えたその先には、同じように荒野を歩いた仲間や、めちゃくちゃ面白い経験や、とんでもなく広い世界が、待ち受けている。

地底湖でコンサートを聴いたり、ボートに乗った経験は、一生忘れられない。

それはきっとあなたの魂を震わせるだろう。
この世界はマジですげえ。超やばい。
語彙力が終わってるが、俺の矮小な語彙ではこの世界は到底言い表せない。

そんな世界が、あなたを待っている。

* * *

ということで今回は「自分らしく生きることについて」書いてみたよ。

思いのほか長文になってしまって、びびってるよ。
最後まで読んでくれる人は存在するのだろうか笑🤣✨

最後まで読んだ人は、公式ラインから感想を送ってくれたらうれしいよ、ひとりくらい読んでくれたらうれしい笑。

来週はもう日本にいると思う。また来週の記事で会おうね。
読んでくれてありがとう。グラッツェ。グラシアス。サンキュー。シェエシェエ。
 

▼YOUTUBE
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私、ヒト、世界を理解するヒントを発信中。

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