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映画「タレンタイム」講評

こちらは「元町映画館」映画レビュー入門講座の課題で出したものになります。


「血がみたい」
「タレンタイム」を鑑賞している間、私はずっと韓国映画「アシュラ」が見たかった。屑しかいない映画。墜ちていく汚職刑事ドギョンをチョン・ウソンが熱演している。どいつもこいつも、どこに出しても恥ずかしい倫理観のない奴らだ。利権をめぐって人を殺すなんて、へっちゃら。だからこそ、そこには純粋な悪がある。純化された悪はピュアな子供と似ている。繰り広げられるバイオレンス、素敵でしゃれた劇伴、斬新な拷問、男と男の嫉妬。とことん墜ちていき、ガラスコップをにやにやと笑いながらバリバリ食うドギョン。血まみれのエンディングは最高だ。
「タレンタイム」はとても優しい人、そして人の悪意に鈍感で、悪意に触れてこなかった人には響くだろう。この映画をおすすめしてくれた元町映画館のスタッフさんはとてもいい人なんだろうな、と世間の毒に触れまくった悪人の私は恥ずかしくなった。しかたない。悪人は悪人なりに「タレンタイム」を講評していきたい。

 この監督の描く世界は雑で幼稚で、分断を描こうとして、その雑さと「弱さ」故に映画として失敗していた。

 幾人か、視点キャラがいる。その人々について語りたい。
 聾者でヒンドゥー教徒のマヘシュ。まず、マヘシュが聾だからとムルーに石を投げるのが分からない。しつけがなっていないのか? さりげなくここから、週刊少年ジャンプで連載中の国民的ヒット作、町の本屋さんが「この作品で出版業界は生き延びました」と言った「鬼滅の刃」も参照しながら個人的趣味で入れていく。
「鬼滅の刃」の主人公、竈門炭治郎は敵の鬼であったとしても、彼らが大事にしていたものを踏みつけにするなと怒っているぞ。
 なによりマヘシュは設定が盛りすぎている。週刊少年ジャンプの編集者なら「これはダメです」と文句を言うところ。週刊少年ジャンプの編集者でなくてもキャラクター造形としてアウトだ。
 

 そして、マヘシュと両思いになるムルー。彼女の家も複雑な事情を抱えて、それを父と母は乗りこえたらしい背景が見える。しかし、ムルーはあまり優しさのない娘で、ありがちだが、末の妹を可愛がり、すぐ下の妹をのけ者にする。どこの「ダウントンアビー」だ。しかし、この三姉妹の描き方によって、ムルーの魅力のなさと思春期の少女の残酷さはリアルに引き立った。
 ムルーに片想いするキャラクターもいるが、彼女のどこに美しさや訴求力があるのか分からない。
 彼女はマヘシュと引き裂かれたとしても、泣きながらでも、タレンタイムで歌いきらねばいけなかった。そこでムルーのマヘシュへの愛と芸術の力が浮かびあがったはずだ。ところが彼女は舞台から逃げる。
 ここでも「弱さ」がでてくる。この人間の弱さをアフマドは描きたかったのかもしれない。しかし、ムルーはただの弱い女、みんなに失恋を慰めて貰うつまらない魅力のない女になりさがっている。
「鬼滅の刃」竈門炭治郎は弱くて、鬼狩りの才能がない見た目だけは強そうな少年に語る。「弱い人間こそ、一番力がある。その人間が頑張るからこそ強い」と言う。その言葉を受けて、弱くて見た目だけは強そうな弱い少年は兄に謝るためだけに、命を賭けるのだ。
 ところがムルーは弱いままで、マヘシュが追いかけてくれるのを待っている。どれだけ前時代少女漫画的な描き方だ。作品が作られた時代として仕方がないのか。

 ハフィズと母親のシーンのみ、妙なリアルさで浮かび上がってくる。
 人間はどうしても愛するものの意志を受け継ぐ、そして繋いでいきたいところに心が動かされるのだろう。母親が苦労を語るシーンはぐっと心に突き刺さる。そして、ハフィズに対する母親の愛にさすがの悪人の私でも落涙した。「鬼滅の刃」でも同様である。しかし逆に言えば、「血のつながり」を描けば、ある程度、観客を感動させられる「穴」もでてくる。そこに逃げては良い作品にならない。どうしてか。もう、そういった「血縁」「母の愛」「母性」「絆」に焦点をあてる時代ではないからだ。ノーモア「絆」。ノーモア「母なる愛」。
 更に言えば、ここでも「イスマイル」と言うキャラクターの設定が雑であった。アフマドは「ミッドサマー」のアリ・アスターと同じくらい、雑監督である。

 wikiで調べたところ、「イスマイル」は、元は聖書のアブラハムの息子「イシュマエル」である。詳しくは検索してもらいたいのだが、このイシュマエルと母親ハガルのエピソードはハフィズと母の関係性にもよく似ている。以下wikiより引用。「イスラームでは、イシュマエル(イスマーイール)に対しての非常に肯定的な見方で、神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されていて、イシュマエルを聖書内の比較でより大きな役割、預言者や犠牲の子として見る(考えがのちに普及したある初期の神学者によると)。例えば大巡礼(ハッジ)におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシュマエル母子を追体験するものとされている。」

 恐らく彼は「神の使い」なのであろう。
 イスマイルは、ハフィズの母にしか見えない。ハフィズが母といるシーンで、イスマイルはそっと後ろに「存在」している。しかし、ある瞬間、ハフィズはイスマイルと遭遇する。イスマイルはずっとハフィズの母以外、見えないままで良かったんじゃないのか? 見えたら話の筋が通らない。いや、もしかしたら、イスマイルが「そこにいる」ことで、リアルになってしまったことで、アフマドは母の死が近いといいたかったのかもしれない。が、説得力に欠けた。イスマイルに象徴されるようにどのキャラクターの描き方にも、深さと整合性がないのだ。
 

 そして、どうしてムルーがマヘシュに惹かれたのかさっぱりわからない。 聾者で伯父がなくなってかわいそうだからじゃないのか。設定もりもりだからじゃないのか。手話で通じない人間同士を描きたかったのかもしれないが、それはあまりにも陳腐な感動ポルノだよね。障害を入れることで、「通じない」「手話で愛することを伝える」と表現するのは浅い。障害をそんなふうに使って欲しくない。
 そして聾者が、バイクを運転していいのか? マレーシアってそういう国なの?
 ムルーの家で、寝てしまったムルーとマヘシュ。何故、ムルーの母親はマヘシュの家に連絡をいれておかない……? 恐らくマヘシュの母親のこともムルーから聞いているのではないか? マヘシュの母親が不安定でなくても、普通は連絡を入れる。雑だ。明らかに母親がマヘシュを求めて泣き叫ぶシーンへのフックのために作られたシーンだ。
 マヘシュの伯父が殺されるところでも横で葬式やっているのに、婚礼あげるんですか。トンチキ過ぎた。そもそも気遣いがなさすぎる。もともと仲が悪かったのか? 根回しするやろ?(あとで聞いたのですが、マレーシアで実際に起こった話だそうです。でも、そういうの外国人の観客である私が知るわけないですよね。そういうところも不親切)

 雑と言えば、ハフィズとカーホウの扱いも同様である。カーホウがハフィズに意地悪をするのはよく分かる。よく分かるよ。つらいよね、父親に殴られるの。でも、イジメ、ダメ、ゼッタイ。ここでもカーホウはとても弱い。弱いから、ハフィズに意地悪をして、先生を巻き込んだ陰謀を仕掛ける。
 いじめられた人間がいじめた人間を許すことは、あり得ないのだ。断言してもいい。私だって、小学生の時に受けたいじめを一生許さないし、そいつらの名前だけは自分でもびっくりするほど明確に覚えている。お前ら、いつか殺してやる、お前らの子供も私と同じ仕打ちが天罰として降ればいいね! ざまあみろ! という原動力で生きている部分があるのだ。
 しかもハフィズは母が亡くなって、その母への思いをタレンタイムで歌っているのに、なでいきなり、カーホウ、入ってくるんだ。ぽかーんとした。
 ハフィズをいじめ、卑劣な真似をしていたカーホウにいきなり飛び込みされて、ハフィズはうれしいか? うっとうしいぞ、カーホウ。邪魔だ。お前の自己満足だ。私がハフィズだったら蹴る。ハフィズはそうしない。大人だな。
 その挙げ句、抱き合って大団円? 観客を舐めるのもいい加減にしろ、アフマド。と、このあたりで私は胸が悪くなってきた。
 竈門炭治郎だって、鬼になった妹の禰󠄀豆子を何度も刺した上司にもあたる不死川実弥を「認めてないんで!」と言っている。

 マヘシュの伯父も馬鹿です。好きな女が死んだから、じゃあ結婚しよ、て言うのと同じ。腰抜け。ほかの女と結婚するけど、その女が好きじゃない表現はその女にとても失礼。婚礼の衣装を選んでいる女には目もくれず、恐らく過去の女を思っているマヘシュの伯父。あのシーン酷すぎる。このあたりで吐き気がした。過去に好きだった女を忘れられないなら、姉へのあてつけでもなんでもいいから、一生独身でいたまえ。お前の道具にされる女がかわいそうだよ。
 マヘシュの伯父もいらいらと自分の姉に思うところがあるなら直接言えばいいのに、甥にメールをするか。伯父が死んだから、あのメールは姉(マヘシュの母)に響くのであって、伯父が生きていたら、マヘシュの負担になるだけだ。ここでも「弱さ」が見える。
 そんなのだから、愛する女が戻ってこないかな、と思っている間に愛する女はお前のせいで、お前が家族を振り切ることができなかったせいで、アパートでひとり死んだんだ。
 この段階で、悲しみ以上に怒りがわいてきた。
 私は沸点がとても低い人間で、好きじゃないと思ったら、目の前に宝石みたいに美しい松坂桃李がいても劇場からでてくる人間だ。(舞台「ヘンリー五世」)
 閑話休題。
「タレンタイム」は拷問にも近い映画で、何度も何度も、足もとの照明の光で、時計を見た。つらい、と感じながらも見る映画。さっき時計を見た時から15分しか経っていない苦しみ。早く家に帰って「アシュラ」を見たかった。
「鬼滅の刃」でもマヘシュの伯父と同じようなことは、起こる。自分より生きていて欲しかった人間が死んだら、ああ、自分が死ねば良かったな、と思ってしまう。そんな寂しいキャラクターたちがそばにいる。まるで息をするかのように。
 死んだ人は戻ってこない、失っても生きていかなければいけない。そして、誰かのために尽くそうとする。
 しかし伯父は恐らく、愛する女と結婚するわけではなく、彼にとってどうでもいい女と結婚しようとしている。生涯を好きだった女に捧げるわけでもない。妻になる女が恐らく婚礼用の衣装を選んでいる時に、どうでもいい、と言う顔をしている。そんなことをされたら、妻となる人間は嬉しいわけはない。傷つく。しかし、妻となる女の気持ちをアフマドは思慮していない。ただの記号なのだ。
「鬼滅の刃」では、誰も記号にはならない。みんな必死で生きている。そして、登場人物(敵の鬼であっても)が死んだら愛して思っていた人が迎えに来てくれ、時に一緒に地獄へ墜ちる。
「鬼滅の刃」も決して、欠点がない作品ではない。いきなり主人公が「長男だからやれる、次男だったら無理」って「おい、それは違う」「そもそも長男はダメなのが多い」「長男とは?」とつっこみを入れたくなる。おっぱいが丸出ししそうなキャラクターもいて「ジェンダー的にどうなんですか」と言いたくもなる。すぐに「殺す」と言うワードがでるのも好ましくない。始まりの鬼、無惨のせいで、一家の跡継ぎが夭折する。しかし、これは「悪人」を「血」で繋がらせてしまう「連座制」しいては「血筋の悪さ」そんな思考を植え付けかねない。

 ただ「鬼滅の刃」は実はセーフティネットの必要性と、強い人間が弱い人間を淘汰すべきだと言う、現在ありがちな自己責任論に対して、真っ向から「違う」と言っている。(単行本未収録部分)
 そして弱い人間も強くなるべきだと励まし、叱責もしている。「弱者」は時として「弱いことを盾にして」言葉や態度での暴力を振るう。「タレンタイム」でも何度も弱さで暴力を振るってくる人がいた。カーホウ、マヘシュの伯父、マヘシュの母。不安定だからってあんなふうにキレ散らかしていいもんではない。メイドも弱者のふりをして、ムルーに「はしたない」といいがかりをつける。気味悪い女だ。

「鬼滅の刃」も宗教観はブレが多い。天国と地獄と言う概念、幽霊、思念と言う点で揺らぎがある上、そこに頼っている。NHKの大河ドラマ、朝ドラでも「幽霊」がバンバンでてくる。作り手が「幽霊」に何かを語らせることで、ストーリーを進めさせる雑さがある。
 そこが「タレンタイム」とも通じる「宗教」「イスマイル」(幽霊)のブレの問題にも通じる。
 恐らく、マレーシアは多民族国家で、たくさんの宗教があり、そこで分断が生まれている。アフマド監督はその分断を描こうとして、より一層亀裂を深めているのだ。「弱さ」で。
 アフマド監督は人間の弱さ、醜さを表現したかったのかもしれない。「タレンタイム」を軸にして、弱い人間たちの生き様が描きたかったのかもしれない。芸術、音楽の力でその分断を少しでも埋めたかったのかもしれない。
しかし、音楽、芸術にはそこまでの力は、ない。それほど、「宗教」の力と言うのは恐ろしいのだ。幼少期にエホバの証人、青年期に新興宗教に入れられていた私が言うんだから間違いない。彼女は逆説的に、芸術、音楽を舐めている。音楽や芸術で宗教観の違いは融合されてはいかないのだ。そこが表現方法として雑でつたない。あまりのつたなさに、めまいがしてきた。体調も悪くなった。吐きそうになった。

 結論として、アフマドの作家性をまとめる。彼女はふわっとした幽霊や音楽など、確固たるものではないものに頼り、創作するところがある。そして誰も積極的に人生を切り開こうとはしない。マヘシュも母親に失恋で痛む心を埋める方法なんて聞くな。不安定で自分に頼ってくる母親を「金色夜叉」の間貫一のように蹴飛ばして生きていけ。そうしないと一生、母親はお前にしがみつくぞ。
 個人的にはマヘシュの姉もつらかった。母はマヘシュを溺愛していて、姉は母のケアをしているのに、母の愚痴を聞くばかり。彼女も記号化されている存在だった。
 恐らく、マヘシュの伯父も愛する女と結婚していたとしても、なんだかんだと問題になって「宗教の違いでした」と言うところに落ち着いただろう。あれはああいう奴だ。

 アフマドは気味の悪い監督だ。あちこちに悪意=弱さが見える。ハフィズへのカーホウのいじめ、ムルーの妹への意地悪、マヘシュと一緒にいるムルーをはしたないと叱責するメイド、メイリン、妻の婚礼の服を選んでいる時にも別の女のことを考えているだろう、マヘシュの伯父。
 どいつもこいつも「弱い」ままだ。もしかしたら、アフマドは弱くてもいいんだよ、それが人間なんだよと描きたかったのかもしれないが、映画「アシュラ」で血を欲し、ゲラゲラ「この拷問、新しくて最高だな!」と笑ってしまう私としては「弱者として生きていくな!」「弱いことを言い訳にするな!」と叱り飛ばしたい。

 個人的な経験を語るが、私は三回くらい死にかけている。ICUにも三回入った。脳動脈瘤の手術もしている。直近では2017年に甲状腺癌の手術をして、一年半寝たきりだった。寝たきりになった理由は分からない。だから、弱い、つらい、苦しいことは分かる。理解したい。しかし、そこで立ち止まって、「私は弱いんだ」と言うことは、私のプライドが許さない。
「タレンタイム」のキャラクターたちに対しては、「鬼滅の刃」の富岡義勇に叱ってもらいたい。「生殺与奪の権を他人に握らせるな」「笑止千万!」と。


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