見出し画像

ピアフ最後のMon Homme~テオ・サラポという男の愛し方

ランボウカス夫人

 ペール・ラシェーズの墓地にエディット・ピアフの墓を訪ねたときのことだ。先客といういい方もへんだけど、僕が来たとき、すでに二人の上品そうなおばあさんが花を手向けている最中だった。パリのおばさんたちは総じて厚化粧である。近くで見ると、化粧というよりまるで左官屋の仕事のようだと思うこともしばしばで、おまけに、香水もキツい。ある程度親しくなると、西洋流の頬をつける挨拶をしてくれるマダムもいるが、その後半日は移り香に悩まされることになる。そこから差し引いて見ると、おばあさんたちはパリの人ではなさそうだった。娘時代に何度かそのステージを見て憧れたピアフに再会したくて、連れ立って地方からやってきた、そんな感じである。姉妹かもしれない。
 さて、僕としては、立派な墓石の横に刻まれた、Madame Lamboukasの文字が気になった。乱暴カス夫人? 僕が怪訝そうに指で文字を追っていると、「ああ、これはね、エディットの夫の苗字よ」と片方のおばあさんが教えてくれた。ランボウカスとは、ピアフの二番目の夫、歌手のテオ・サラポの姓と合点した。よく見ると、その横にThéophánis Lamboukasと刻まれている。これが、サラポの本名なのである。ピアフ本人がそう望んだのかは知らないが、偉大な歌手エディット・ピアフとしてだけでなく、「テオ・サラポの女房」として葬られていることに、なにかほっこりとしたものを感じてしまった。日本ではシャンソン好きでなくてもエディット・ピアフの名前ぐらいは知っているだろうが、テオ・サラポは今も当時もまったく無名といっていいだろう。墓石に刻まれたもう一つの名前、Luis Alphonse Gassionはピアフの親父とのことだ。

ペール・ラシェーズのピアフの墓。かつてはジム・モリソンの墓も同所にあった。

 ピアフを彩る男たち~バラ色の人生

 恋多き女として知られるピアフだが、彼女が心底愛したのは、飛行機事故で亡くなった悲劇のボクサー、マルセル・セルダン一人だったと言われている(1949年没)。有名なHymne à l'amour (『愛の賛歌』)はセルダンの死を悼んで書かれたというのは、実は伝説で、その死の直前に書き上がってていた(だし、死後、歌詞の一部を書き直している)。この曲が聴衆に最初にお披露目されたのは、「セルダン死す」の報を受けた、まさにその晩のニューヨークでのコンサートであったという。セルダンも試合のためアメリカ入りが決まっていて再会を約していたが、ピアフの「早く会いにきて」の言葉に、予定していた航路を取りやめ急遽、空路での渡米を選んだ。その飛行機での事故だった。

セルダンは妻子持ちだった。彼の息子、セルダン・ジュニアもボクサーになり、ピアフと交友を続けた。セルダンのKOシーンばかりあつめた動画がYouTubeにある。


 ピアフは、セルダンの死後も多くの浮名を流すが、それらは喪失した愛の埋め合わせのための、あるいは歌に艶を失わせないための、かりそめの恋だったと多くの彼女の評伝が記している。マルセル以外での大恋愛の相手では、イヴ・モンタンがよく知られているものの(出会いはセルダンより先だった)、ピアフは自伝で「あれ(モンタン)は、ただの弟子。妙な噂を立てられて迷惑したわ」とつれない。一方のモンタンは、生涯忘れえぬ3人の女性として、妻で女優のシモーヌ・シニョレ、一時期不倫関係にあったマリリン・モンロー、そしてピアフの名を挙げているのに…。まあ、それでもピアフのmon homme(情人)と噂が立つだけでも芸能人としては大いに箔がついたのも確かだったようだ。シャルル・アズナヴールなど運転手代わりにこき使われていたらしい。

イヴ・モンタンと。こんな熱々の時期があったのに…。彼もまた、ピアフにとっては芸の肥しの一人?
シャルル・アズナヴールと。そういえば、彼の歌の主人公は、マゾヒスティックなまでに女性に献身する男という印象がある。

テオ・サラボとの出会い、そして結婚
 
 さて、ここでテオ・サラポが登場する。この、ギリシャ移民の倅で、長身、端正な顔立ちの美容師上がりの若者とピアフが出会ったのは、1960年あたりと推測される。秘書から紹介され、最初は彼女の付き人のようなことをしていたらしい。すぐにピアフはランボウカス青年の歌の才能に気づき、彼のために歌手としての道を開いてやる。芸名のサラポは、ギリシャ語の「愛する」のフランス読みをもじってピアフがつけた。彼女が知る唯一のギリシャ語だった。そういえば、イタリア移民の子であるモンタンも美容師上がりというところを見ると、移民の子にとって美容師という職業は、出世の近道なのかもしれない。もっとも、マダムたちの覚えめでたくなければならないから、イケメンに限るが。アズナヴールにはちょっと無理そうだ。
 歌手テオ・サラポのデビューと彼の求婚はほぼ同時期だった。このときサラポは26歳、ピアフは46歳。いくらアムールには寛容なお国柄とはいえ、20歳上の姉さん女房、しかも妻がダントツに格上のカップルというのは、それだけで大きな話題だったに違いない。若いジゴロの財産目当ての結婚、という口さがない声もあったようだ。しかし、後述するが、それはまったく下衆の勘繰りというものである。

テオ・サラボ。二人の間には20歳の年の差があった。美しい写真だ。

 1962年秋、二人は結婚式を挙げる。そのときの映像を見ると、フランス全土からファンが押し寄せ二人を祝福しているのがわかる。この群衆の中に、僕がペール・ラシェーズで遇ったおばあさんたちがいるかもしれない。介添い人はピアフの親友のマレーネ・デートリッヒが務めた。

 もうひとつ面白い映像がある。1962年12月14日、オランダ・ネイメーヘンのコンサートで、ピアフは新郎のテオを紹介し、A Quoi Ça Sert L'amour(恋は何のため)をデュエットするのだが、ピアフが「テオ!」とアゴで呼びつけるあたり、二人の力関係を象徴しているようだ。観客にもそれは折り込み済みなのか、むしろやんやの歓声である。
 それにしても、二人並ぶとその身長差は、まるで大木に止まるセミ、いや雀(piaf)で、それがまた、なんとも微笑ましく見える。それはともかく、ピアフは46歳とは思えないほどに老けているのが気にかかる。当時すでにかなり体調を崩していたようだ。

 歌詞も、どこか二人の関係を当て書きしたような軽いコミックソングに仕上がっている(作詞作曲はミシェル・エメール)。
男「恋って何なのさ。何でみんな恋をありがたがるんだい」
女「恋は説明するものじゃないわ。ある日突然やってきて、人の心を捕えてしまうもの」
男「でもつらい思いもしなくちゃいけない。そんなのいやだよ」
女「失くした恋も時がたてば、蜜の味よ。あなたを大人にしてくれる」

 男はちょっとスネた感じで甘え、女は優しく諭す。
  テオに語り掛けるように歌うピアフもどこかお母さんのようだ。でも、ときどきはっとさせる表情を見せる。「そう、その目よ。恋人を見つめる目はそれだわ。忘れないで、あなたはこれからずっと恋の歌を歌っていくのよ」と訴えかけているかのようである。
 そして、歌詞のこのフレーズ。Mais toi, t'es le dernier! (だって、あんた、私の最後の人じゃない!)。自信をお持ちなさいって💛

忘れちゃいけないわ、あんたはmon hnomme(私のいい人)だって。

歌わなくなった家

 二人の結婚は一年も経たず終わりを迎えてしまう。1963年10月10日にエディット・ピアフは療養中のイタリア・リヴィエラの病院で死去するのである。癌だった。テオは甘いはずの新婚生活の半分を母のような妻の介護についやした。
 財産目当ての結婚どころの話ではない、テオ・サラポのもとにはピアフが残した莫大な借金だけが残ることになったのだ。衣装代飲食代に加え、気まぐれで癇癪もち、一人では何もできないピアフだったから、多くの側近を抱えていており、その給与もバカにならなかった。若いころ自動車事故を起こし、痛み止めに打ったモルヒネが常習化し、晩年は中毒に近かったという(老けて見えたのはそのためかもしれない)。薬代はかさんだ。さらに交霊術に凝っており、マルセル・セルダンの霊を呼んでもらうために、霊媒師の”いい値”を払っていた。それだけでは満足できず、稼ぎ手を失ったセルダンの正妻に仕送りまでしていたというから律儀というかなんというか。死後もセルダンとの”縁”を断ち切りたくなかったのだろう。
 その、700万フランともいわれる借金をテオは自力で完済したという。
 ピアフのmon hommeは、モンタンやムスタキのように大成功し名を残すか、あるいはセルダンのように非業の最期をとげるか、のどちらかだといわれているが、歌手テオ・サラポは妻亡きあとも順調にヒットを飛ばし、俳優としてもキャリアを積んでいた。女優ジャクリーヌ・ユエとの逢瀬も伝えられ、公私ともに「ピアフの亭主」という評価からようやく抜け出そうとしていた矢先の1970年、彼は自動車事故を起こし34歳という若さで、この世を去ってしまうのである。やはり、寂しがり屋のピアフが呼んだのだろうか。
 Théo Sarapoの歌の多くは、YouTubeで視聴可能である。僕的にはあまり面白味のある曲はないが、La maison qui ne chante plus(『歌わなくなった家』)は、借金のカタに手放さなくてはならなかった、16区にある二人の愛の巣を歌った曲ということで、ちょっと切ない。

歌わなくなった家/私にはもう地平は見えない/地上を覆うのは永遠のあなたの沈黙/私は家を出る/重い扉に鍵をかけて彼女を閉じ込める/思い出が多過ぎた

 ピアフが若い夫と外出を楽しむ写真がいくつか残っている。手をつなぎ、幸せそうに笑う童女のような彼女を見る限り、テオ・サラポが決して「心の埋め合わせ」だけの男ではなかったと信じたい。そして、ピアフの人生にテオ・サラポがいて本当によかったと思う。

彼女のバラ色の人生の最後を飾るバラ。
幸せは背中に現れる。

 僕がペール・ラシェーズを訪れたのは30年も前になる。あのときの二人のおばあさんは多分、もう天に召されているだろう。ひょっとして天国でピアフの歌にうっとりしているかもしれない。
 もし、またペール・ラシェーズのピアフの墓を訪れることがあったら、ピアフと、そしてテオ・サラポのために祈りを捧げるだろう。

▼エディット・ピアフの葬儀。彼女の死は一日伏せられ、その日のうちに遺体はパリに運ばれた。「ピアフ死す」の報を受け、心臓発作を起こして4時間後にあとを追ったのはジャン・コクトー。葬儀当日は、民衆がペール・ラシェーズ墓地を取り囲み、パリの交通は麻痺したという。テラ・サラポ、それにデートリッヒの姿が確認できる。

Non, je ne regrette rien (『水に流して』/いいえ、私は後悔しない)
ノン!私は何も後悔しない/人が私にした良いことも悪いことも私には同じことだから/過去なんてどうでもいい/古い恋もすべて火にくべるわ/だってこれからの私の人生は、あなたと始まるのだから

よろしければご支援お願いいたします!今後の創作活動の励みになります。どうかよろしくお願い申し上げます。