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♡7 未来を切り開いていく

未来について考える最適な時期は存在するのだろうか、とよく考える。

学生時代は目の前にある型にとりあえず好きな物や要素を当てはめて「こんなものかしら」とそれらしい形に整え、時の流れと共に好きな要素を入れ替えるの繰り返しで、大学以降は自ら触れて感じて考えて……と開拓して「こんな風になれたらいいな」と少し具体的になった。

それは自分自身で見つけたものもあれば、立ち読みした雑誌の中、ショッピングモールですれ違った人、ネットサーフィンをして偶然辿り着いたブログ記事からだったり、様々なシチュエーションから好きの要素を拾っては眺め、お試しとして短期間共に過ごし、大半が消えた。

今回のテーマである「未来を切り開く」という言葉は、「明るい未来へ向かって道を拓く」とポジティブな意味を所有している。
しかし何事に対しても斜に構えてしまう私は「切り開きすぎた場合はどうなるのかしら」と考えてしまう。
自分で切り開いていた場合は後からいくらでも塩梅を変えられるけど、もしこの未来を他人に委ねていたとしたら修復どころか未来の所有権を奪われてしまうのではないかとネガティブな考えが浮かんでしまうのだ。

未来を委ねるって何やねんと思われるかと思いますが、私が指しているのは『未来の五輪アスリート原石』『両親が高学歴のエリート一家』といった方々…ダイレクトな表現で『期待される子達』だ。親や周囲の評価が全ての環境で育った人は自分で何かを選んだり決断するのが苦手で周囲の目を気にするという特徴を持つ人が多いと聞いたことがある。
先日ネットカフェで読んだタコピーの原罪に出てくるメインキャラの1人、東くんも親のプレッシャーに呪縛され孤独を感じていた。幼い頃からこんな扱いをされていたなら大きくなって、親元から離れて急に「はい、あなたは自由ですよ。何してもいいですよ。好きに生きなさい」と言われても結局新たな依存先を求める。

自分のための未来なんて考える事もなく"誰かのため"に生きなきゃという思考が脳にへばりついて負のループから抜け出せなくなるという残酷な結果に陥ってしまう。
それを考えると、雑でもまだ見ぬ未来を想像できるだけでも幸せなことなのだと気付かされる。よく考えれば1分後も『未来』なんだよな。これを書いてるときは今でも投稿する時間は未来になるし、来週観る映画も来月の漫画の発売日も未来。

一寸先の未来はボンヤリ考えて「ま、なんとかなるやろ」と楽観的に考えるけど5年、10年後の壮大な未来は具体的に想像して「上手くいくかしら……」と悲観的になるのは日本人特有の感性なのかしら。

そんな未知の言葉を名前に持つ俳優のインタビューが頭から離れない。

ーーー人より”未來”にはせていると思うし、抽象的な言葉を与えられているからこそ、今のことを考えるようになったのかなと思います。(中略)目的を持たずに何かするのは”未來”っていう名前をつけてもらったからなんじゃないかなと思います。
日刊スポーツ2022/6/8版

大きな目的を持たず『やりたい』だけで生きる人間を目指そう。

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