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一週遅れの映画評:『リンダはチキンがたべたい!』死の意味を読み替えて。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『リンダはチキンがたべたい!』です。

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 主人公の母親が絶妙に嫌なヤツで「いくらなんでもオイ!」って思うところもあるんですがw そこが「シングルマザーってこんぐらい自分勝手でないとやってらんないだろうな……」という納得感もあるんですよね。
というのも主人公が幼いとき(たぶん3歳ぐらい?)に父親が急死していて、母親は定職に就いてはいるんだけど住んでるのが巨大な団地。しかも「また配管が壊れて床が水浸し!」っていうトラブルが頻繁に起きているから、オンボロとは言わないまでも結構な老朽化した建物だってことが如実に伝わってくる。

 それで主人公が母親の指輪(亡くなった夫からプレゼントされたもの)で遊んでいて、それが見当たらなくなる。母親は主人公に「あんたがどこかにやったんでしょ!」とか、友達から借りた帽子を見て「その帽子と交換したんでしょ!」とか激詰めするんです。それでお仕置きとして主人公を独身の姉の家に預けるっていう。姉は「急に姪っ子を連れて来られて預かれとか言われても迷惑!」つってるのに無理やり押し付けて。
それで家に帰ると、飼ってる猫が吐いた毛玉の中からその指輪が見つかるっていう。それで主人公に「あなたじゃなかったのね、ごめんなさい」って謝り「お詫びになんでもしてあげる」って言うんですね。
 主人公は死んだ父親との唯一の思い出である「パプリカチキンを作って」というんだけど、母親は「それは無理。私、料理できないし」って30秒で前言を撤回するという……それでも折れない主人公に根負けして鶏肉を買いに行くんだけど、タイミング悪く大規模デモの実施日であらゆるお店が休業している(ここらへんパリを舞台にした作品らしさが出ていてすごく良い)。
困った母親はついに飼育されているニワトリを窃盗する。

 なんかあらすじだけ書くと『万引き家族』感がでちゃうなぁw これ基本的にはコメディ作品で、しかも「コメディなことに意味がある」んですよね

 前に『悪魔がはらわたでいけにえで私』って作品の映画評でも書いたんですが

笑いって「エロスとタナトス」にざっくりと分けることができると思ってまして。つまりは生の笑いと死の笑いなんですが、その違いがどうやって発生するかっていうと「文脈を継承する/切断する」の差
 わかりやすい例だと『ボボボーボ・ボーボボ』とかって前のコマからかなり連続性が切断されたギャグが繰り広げられる。ここで行われているのは、そこに至るまで存在していた文脈を強引に切り離して、いまここで発生した世界に鞍替えしてるってことで。それはいままであったものを殺して埋葬するっていう「死」の笑いなんですよね。シュールギャグ作品、古いものだと吉田戦車の『伝染するんです。』なんかが妙に死の匂いを放っていることの理由もこれで。
 一方、ストーリー的な笑い。つまり状況やシチュエーションによって否応なく引き起こされる笑いは、文脈の継承によって起きる「生」の笑いになる。生とはりっしんべんの性でもあって、それはつまり愛の話だから「ラブコメ」ってものが成立するわけですよね。
ここでこの映画評内だけの定義として、いったんその死の笑いを「ギャグ」、生の笑いを「コメディ」とします。

 でね、この作品の父親は主人公が幼いときに亡くなっている。だから主人公にはほとんど父親の記憶がないわけですよ。唯一覚えているのが「パプリカチキンを作ってくれた」ことだけで。
だから主人公はパプリカチキンに固執する、父親に関する唯一の記憶ですらどこかに消えていってしまいそうで。そのおぼろげになりつつある思い出を繋ぎ止めるたったひとつの手段がパプリカチキンなわけですから。
 だからこの作品はコメディの体裁を取ることが絶対に必要なんです。父親が確かにいた、そしてパプリカチキンを作ってくれた。その文脈を手放さずに継承したい主人公にとって「コメディ」であることが重要なんです。死の「ギャグ」になってしまう笑いではなく、生の「コメディ」として笑うためには。

 その上で主人公の母親はかなり自分勝手で、その後始末を押し付けられる姉はもうウンザリしている。だけどどうしても最後は妹のお願いを聞いてしまうんです。
そこで出てくるのが、子供の頃まだ小さな妹と楽しく遊んだ記憶で。その思い出があるから、どうしても主人公の母親を見限ることができないし、文句を言いながらも最後にはお願いを聞いてしまう。

 ここで主人公と父親の関係、そして母親とその姉との関係が相互に補完しあっているわけですね。つまりどちらも遠い過去にある思い出が発端となっていて、主人公はその過去を忘れてしまわないように繋ぎ止めていたいからパプリカチキンにこだわる。かたや姉はどれだけ現状に不満があっても、その記憶があるかぎり関係が維持されていってしまう。
それって翻って考えてみれば「どれだけ忘れそうでも、残り続けるものがある」っていう主人公への希望になりえるし、姉にとっても現在進行系で迷惑をかけられることがそのまま「家族が生きている証」として立ち上がってくる

 でねこの作品がすごいのって、盗んだニワトリが逃げ出してそれを追っかけるドタバタ喜劇が本編の8割くらいを占めてるんです。だから映像的にはかなりニワトリが描かれている、そうなると「パプリカチキンの材料である鶏肉」ではなく「生きているニワトリ」って側面がめちゃくちゃ強調されるわけです。
だけどラストにそのニワトリをきっちりシメてパプリカチキンが作られるっていう。なんかお父さんがいたことを忘れたくない! って話だからニワトリを最後には生かす話になりそうなものを、ちゃんと殺して食べるんですよね
 それと一緒に主人公の母親と道中で助けてくれたおじさんが、なんかちょっとイイ感じになるんですよw 亡くなった夫の話を中心にしていて、娘がその父親の思い出を忘れたくないって言ってるのに!? って私はちょっと驚いてしまって。
だけどこれって同じことなんですよね。人間というか生き物は何かを食わずには生きていけなくて、そこには絶対に他の生き物の「死」が発生している。それと同様に人間はいつか絶対に死ぬわけで(なんか先週も似たこと言ってたな)、だからこそ人類は子供を作る必要があったりするわけですよ。
 文脈の継承による笑いが「コメディ」です。ってさっき定義したけど、ここではそこから一歩踏み込んで「なぜ継承するのか?」という問題に応えている。生きていく上で何かを殺す必要があるし、人間は絶対いつか死ぬのでその先へ繋いでいく方法が必要になる。「死」というものが文脈の切断だけではなく、継承する上で必要な/あるいは継承の必要性を生み出すものとしての「死」もあるんだよ、とこの作品は語っていて。だから絶対に「コメディ」である必要が生まれるんですよね。死を扱いながらエロスの笑いにするため、「死」というものの意味を読み替えていく。そういうアクロバットさがちゃんと面白さに繋がってる良い作品でした。

 あとねぇ、この映画の入場者特典でちっちゃい名刺大のポストカードが付いてくるんですけど、その裏にパプリカチキンのレシピが書いてあるんですよ!
そしてこのレシピにも仕掛けがあって……それは週末の「映画に出てきたモンを食べる」更新でお話したいと思います

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 次回は『陰陽師0』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。


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