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一週遅れの映画評:『マイ・スイート・ハニー』誠実であることは、「正しく」ない。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『マイ・スイート・ハニー』です。

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 誠実さ、というか「真面目にやってるんだから報われたい」みたいな願望って誰しも持ってると思うんですよね。これって公正世界仮説の一環ではあるんですけど、私の感覚として「正しい」と「誠実」って近いんですけどちょっと違う部分もある。つまり「正しい」って相対評価なんですよ、世界の規定として間違ったことをやっていないという正解みたいなものがあってそれに従っている感覚。一方で「誠実」って絶対評価で、本人のできる範囲や思いつく範囲で「これが最善である」という行動をする、そこには世間とか他人の評価が関与していない
 そうね、例えば「作品と誠実に向き合う」みたいのをこうやって批評とかしてると求められるわけですけど。そこで示されてる誠実な態度って、ただ作品と自分との間にあるもの一旦シンプルに受け止めた上で、その自分の中に生まれた回答を適切に表現することで。だからそこには「他人がどう見ているか?」とか「社会的配慮」とかをとりあえず棚上げして考慮しない……そういった意味だと思ってるんです。

 で、こと恋愛においてその「誠実」の価値って乱高下するw こちらが誠実に相手と向き合っている、つまり世間とかの持ってる価値観を無視して「自分ができる最善」をやろうとするわけです。ここで相手が同じ態度で向き合ってくれれば超ウルトラベリーハッピーなわけじゃない? O・ヘンリーの短編的な美しいラブがそこに発生するから。
そして相手の誠実さを利用しはじめるとホストだったり「いただき女子」だったりになっていくわけですよ。まぁ個人的には時間単位いくらの性愛コミュニケーション自体それほど嫌いではないので「用法用量を守って適切にご利用ください」の範囲でそういったお仕事が世界にあることは大賛成なのですが。さっきも言ったように誠実さは社会的規範の外側にあるものだから、自分がそこに幾ら注ぎ込んだか? という貨幣的/資本主義的価値って判断基準になってくれないんですよね。それって「推し活」も同じ面を持っている、好きなアイドルとかへ誠実に向き合えば向き合うほど消費するお金の価値ってゼロに向かっていく。そして人間はバカなので「むしろお金の価値を無視すればするほど、自分の誠実さレベルが上がっていく」気がしちゃうんです。だけどそれは「誠実は絶対評価」という根本から実は離れていってしまってるから、そうなればなるほど「自分の誠実を示せない」から「じゃあもっと注ぎ込まないと!」という悪循環にはまっていくわけです。
 まぁこれは搾取する方もされる方も、それぞれに問題があるので一概に「だからこっちが悪い」とも言えないのが難しいところなんですが。

 で、この作品。基本的には超ウルトラベリーハッピーなラブストーリーで、なんかねすごく良かったんですよ。主人公はかなり朴訥な恋愛経験ゼロの45歳、お菓子会社で新商品開発の研究員をやっている。ヒロインは41歳のシングルマザー、勢いで行動しがちなところがあってかなり生活が厳しい状態にある。
最近たまにある「ちょっとアバンギャルドな女性と純真な男性の組み合わせで、年齢的には中年の域」という作品、私が映画評に取り上げたものだと『マリー・ミー』とかなんですけど

私、たぶんこの設定が好きっぽいんですよね。『マリー・ミー』もこの作品も正直お話としては、言っちゃあ悪いけど大したことないんですよ。だけど見ててすごく「イイ」の。主人公の素朴さ朴訥さがストーリーが進むごとにどんどんハマってきて、なんか「いやぁ、コイツが幸せになんないのはダメだよ。ダメだよなぁ」って気分になってくる。そういった印象の変化とヒロインが主人公に惹かれていく過程、最初は優しい人なんだなぁってところから、「あれ? ちょっと変な人?」になり、それが彼の純真さからくるもので。その純真さを失わないままこの年まで生きてきたのがわかったことで、最初に見つけた優しさが本物だって気づいていくんですけど。
その惹かれていく過程と、主人公に対する視聴者の好感が深まっていく段階が同期していて、それがついつい私を画面に前のめりにさせていくんですよ。

 それで主人公には兄がいるんだけど、これが最近刑務所から出所してきたばかり、しかもギャンブル狂いの無職で弟に金の無心を繰り返している。一方でヒロインの娘も、自分の母親がこれまで付き合った男からひどい目にあわされてきたのを知ってるから、主人公といい感じになりつつあることに不満を持っている。
で、主人公もヒロインも40過ぎのいい年だから、そういった周りの人間によって「仲の良い友達」から先に進むことをためらうし、「もう会わないようにしましょ」みたいな話になってしまう。
 ここでぶつけられているのが、最初に話した「誠実」ってことで。つまり周囲の人間を慮ることって、まぁ基本的に「正しい」ことじゃあないですか。だからここで娘のためを思って「ここまでにしよう」って引くヒロインは「正しい」わけですよ。ここに社会的目線とかが存在しているから、そういった判断が「正しい」ものになる。だけど「私とあなた」っていう関係においてだけ言うなら、そこに外部の視線や価値判断を引っ張ってくることって「誠実じゃない」態度になってくる
 この作品はそうやって「正しいことと誠実なことは違う」そして「誠実なことが社会的に肯定されるとは限らない」って話をしていて、じつはこの構造って新海誠の『天気の子』と同じだったりするんですよね。あれをグッとリアリティに寄せつつ、年齢を3倍ぐらいにするとこうなるっていうw

 それで、この映画で一番ヘンなところなんですけど。ヒロインの娘、その父親が数年ごとぐらいにヒロインへ会いにくる。それは子どもの様子を見に来るみたいなポジティブな行動じゃなくて、こっちも金の無心だったり、別れた女への独占欲だったりするのね。
その男が主人公とヒロインの乗ってる車を後ろから追いかけるシーンになるんですよ。主人公たちはそれに気づいていない、普通なら「そこで元夫と主人公がカチ合い、トラブル発生」みたいな展開になるじゃん? だけどこの男、追走してる途中で事故にあい死んじゃうの。それも主人公たちが気が付かないままで。
 すっごくヘンな展開なんだけど、見かたによっては「この作品では公正世界仮説を真としますよ」って宣言にも思える。つまり「誠実」であろうとする主人公に「悪いもの」は訪れない、それどころかその「悪いもの」が迫っていることに気づくことすらない……そういった世界でやっていきますよ。という作品内のでルール設定がされたシーンになるわけですよ。
 それがもう完全に主人公を応援するモードに入ったタイミングで繰り出されるから、その奇妙な展開に対して「ナイス世界! やってくれるじゃん!」みたいにこっちもおかしなテンションになるっていう。
たぶんそれが作品全体の方針というか、この「誠実」な男がちょっと右往左往しながらも、最終的には幸せになっていくのを見届けようね。という感じでしたね。たぶん見る方のコンディションとか体調とかでだいぶ良い/悪いが分かれる作品だと思うんだけど、いまの自分には妙にハマりました。いやぁ満足満足、面白かった!

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 次回は『トラペジウム』評を予定しております(なんか妙な話題になっててちょっと困っていますがw)。

 この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。


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