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究極の正解はあなた次第 ~あなたの感想を抜け出した先に~

1.改めまして、感想(意見)と事実とはなんですか?

今や小学生までもが「それってあなたの感想ですよね」と言い合っているらしいと聞いた。ひろゆきが流行らせたこの言葉は、「個人の感想や意見」を「何らかの事実」のようにして主張しているなど、感想(意見)と事実が区分けされていないことを批判するときに用いられるようだ。

早速少々脱線してみると、意見と感想というのは厳密には違うものだ。意見は、自分の考えや主張のことであり、感想というのは心に浮かんだ思いや感覚のことだ。しかし、「それってあなたの感想ですよね」における「感想」は、「意見」を指すととらえられるだろう。わざわざそのような言葉を使う議論や論争の場面において、発言は自分の考えの正当性を示すために言葉を紡ぐのである。それは、仮に感想を含んだとしても「意見」として扱われるものだからだ。したがって本文では、感想ではなく、「意見」や「主張」といった言葉を用いる。

話を戻そう。件のフレーズは、「主観的な意見」と「客観的な事実」を切り分けるための発言である。つまり、これらを切り分けていない主張に対しての反論なのだ。実は、これ自体は悪いことではないし適切に用いれば議論を深めることにつながる。一方で悪用しようとすれば、ほぼすべてを主観的な意見に変えることができてしまう。のちに述べるが、これが問題なのである。

2.フレーズが適切に機能するとき(意見と事実の切り分け方)

まず、適切に用いられた場合の利点を考えよう。例えば、日本の人口が減少しているという統計があるとする。ある人が、「最近、周りに子供ができた人が多いから、日本の人口は増えているよ。」と発言したとする。これは、「客観的な事実」に反する誤った主張であり、「それってあなたの感想ですよね。」と返すことで、正しい議論をすることが可能になる。

次に、「インターネットのせいで犯罪が増えている。」という主張がなされたときを考えてみる。実は、この主張は証明するのがかなり難しいことだ。

またまた話はずれるが、因果関係と相関関係は検討が難しく、相関関係はあっても因果関係はない事象というのも多く存在する。例えばアイスの売り上げと扇風機の売り上げに相関関係があった時、アイスのおかげで扇風機が売れたという因果関係があるとは言えないだろう。夏という季節的要因による暑さが根本にあり、両者がともに売れているだけの話だ。

したがって、仮にインターネットの普及後の犯罪が増加しているという統計データがあったとしても、それだけで「インターネットのせいで犯罪が増えている。」という主張が真になることはない。ましてや、そのような相関関係としてのデータもなくこのような主張がなされた場合、「それってあなたの感想ですよね。」は議論に客観性を取り戻す好フレーズとなるだろう。もしもそれでも意見を主張したい場合は、適切なデータを複数個提示したうえで、「その可能性があります。」や「その仮説が立てられます。それを前提とすれば、、、」というように主張を繋げていくことが適切だろう。そのようなことなく、不正確、不明確なことを断定するのは相応しくないのである。

以上のことは、客観的な事実(多くの場合統計などのデータ)に反する意見、もしくは証明が困難なことを言い切る主張に対して、このフレーズが有効な反論をもたらすことを示す。意見は、事実に反することは言えず、また証明のしようがないことや証明できないことを客観的な事実のように言い切ることは不適切なのだ。

言い換えれば、「客観的事実」は「意見」の正当性を担保するために保障される定理のようなものなのだ。意見は、少なくともそれに矛盾してはならないし、それを担保する事実が貧弱な場合は特に、客観的事実と混同させるような言い切り方の主張としてあらわされてはならないのだ。

3.乱用防止教室

さて、ここでこのフレーズの問題点を考えてみたい。数学空間など、厳密な証明が可能な空間においては、客観的事実は公理から導かれた定理にしたがい、矛盾なく議論を積み上げていくことで得られる。このような場合、「意見」に正当性を持たせる唯一の方法は、穴のない論理を構築することそのものである。

一方で現実世界は数学空間と異なり、客観的な事実としてのデータが存在しない事象が多くあり得る。また、データがあったとしてもそのデータの確実性が議論の的となったりと、「事実」というものが合意しにくいところがある。また、因果関係を証明するのはかなり難しいといったことは先ほど述べた通りだ。

端的に言えば、我々は完全情報を保有しない不完全な存在だということだ。何人もこの世のすべてを知ることはできない。むしろ身の回りのことくらいしか確かに知っていることはない。完全情報を持つ存在がいるなら、それこそが神と呼ばれるのかもしれない。

いずれにしても究極に客観的な事実は存在しないのだ。極端な話、脳に電極が刺されていて、それによって私にこの世界が見えているだけという仮説まで否定はされないのだ。だからこそ、特にネットの情報が広まりやすい現代は、フェイクニュースという言葉がはやるポスト・トゥルースの時代といえるのかもしれない。

そんななかで、例えば「物は下に落ちる」といった時に、これもあなたの感想ですよね、といえる。「人は必ず死にますよね」といった時にこれもあなたの感想ですよね、といえることになる。

例えば、物は下に落ちるというが、ヘリウム風船は最初は落ちないといえるかもしれないし、ロケットが地球を飛び出したら下に落ちないかもしれない。なぜか、そのうち重力がなくなるかもしれない。今まで死んだ人は100%死んでいるかもしれないが(それすら客観的な"データ"は存在しない)、これから生きる人類は不老不死技術を獲得するかもしれない。

屁理屈だと思われるかもしれないが、このようにどんな主張であっても究極的には「それってあなたの感想ですよね」といわれる意見に過ぎないのだ。もちろん、現在の科学では、この地球上では正しいこととされるかもしれなくても、だ。

4.適切な議論法(トゥールミンロジック)

ディベートではこの問題点はとっくにわかっている。だからトゥールミンロジックなどを用いる。トゥールミンロジックでは、「データ」、「ワラント」、「クレーム」の3点セットを基本としている。

例えば、「暑いから窓を開けた方が良い。」という意見を述べる場合を考えよう。「窓を開けた方が良い」というのが最終的に行いたい主張である。これをクレームと呼ぶ。このクレームの正当性を主張するために必要なのが、「データ」と「ワラント」である。この場合のデータは、「室温は○○℃です。」といった前提となる事実だ。そして、「ワラント」。これは日本語では「論拠」と呼ぶものだ。今回であれば、「窓を開ければ室温が低下し、快適になる。」といったワラントが考えられる。

ワラントに含まれるのは、多くの人が暗黙の前提としてすっとばしがちなものだ。多くの人は、「暑いから窓を開けよう」という主張はすんなり理解できるし、暑いということについての事実を述べるために、室温を示せば十分だと考えてしまう。しかし、それでは甘いのだ。もし、窓を開けても室温が下がらないような条件下であればこの主張を通用しないからだ。例えば、中で頑張ってクーラーをつけているけれど、外気温が60℃で室温が高くなってしまっている場合、この主張は成立しない。それはワラントの正当性が崩れているからだ。ワラントを担保する事実はバッキングと呼ばれ、ワラントを守るためにこれを示すことになる。

ワラントの正当性を崩すことはディベートでは、「リバッタル」(日本語で反駁)といい、相手のデータやクレームの正当性を覆すことによってこれを行う。重要なことは、クレームそのものを直接リバッタルするのではないということだ。依拠したデータやワラントが崩れれば、クレームの価値は無になるからだ。逆にそこが崩れなければ、クレームは事実となるというのがディベートのルールだ。リバッタルに対し、データやクレームを強めたり守ったりすることができれば自らのクレームは強化されるといえる。

「反論」はしばしばリバッタルと混同される概念だが、ディベートにおいては大きく異なる。反論では、全く新しい独自のデータ、ワラント、クレームの3点セットを構築し、相手の3点セットよりも自らの3点セットの方が優れていることを示そうとするものだ。この場合は、相手からのリバッタルと戦うことになるだろうが、そこで強い3点セットを構築できれば相手のクレームの優位性は低下するだろう。

さていろいろ述べてきたが、大切なことは論理の飛躍を最小限に抑え、すべての主張に裏付けできる事実を用意しておかないとディベートでは勝つことができない、ということだ。逆に、トゥールミンロジックを用いてしっかりと問題を考えていけば、「あなたの感想」という批判に対して適切に反論できるのだ。「ワラント」と「データ」の正当性を揺らがせようとする、チープな手段が「それってあなたの感想ですよね。」の本質だといえる。それは適切にディベートをできれば簡単に打ち破れるのだ。

3.で述べた屁理屈のごとき主張もディベートでは行われる可能性があるが、あくまで勝敗はより説得力のある主張が述べられたかどうかだ。クオリファイアーというクレームが正当性を持つ確率を示すなどの方法を用いてジャッジに正当性をアピールできればその議論では勝ちとなるのがディベートである。この世のすべてを知ることができないからこそ、より正しい確率の高い主張を多くの裏付けのもとにしていくことが、自分の主張を真っ当な「意見」として述べることにつながるのだ。

5.正解はあなた次第

ここまで適切な議論について「それってあなたの感想ですよね」を題材にして書いてきた。最後に、究極の正解は実は論理を超越したところにあることを述べたい。

「○○をすべきだ。」と主張するとき、究極的には「その方が幸せになれるからだ。」という論理が必ず入ってくる。先ほどの部屋の温度の話でも、「涼しい方が快適だ」→「幸せだ」という論理が入っている。だから、何を幸せと感じるかという根本的な問いに至った時、それはもはや個人の価値観であり、究極的に「感想」なのだ。これは意見ではない。正確に言えば、「幸せだなあ」という感想をもたらすと想定されることを主張する意見である。これがすべての人に共通することはない。

最大限のディベートを行った先に、徹底した論理バトルの先に残るもの、それはあなたの信念レベルでの幸せの追求である。自己イメージが空であるのと同様、これもまた空の一部だ。巡り巡って正解はあなた次第なのだ。


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