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荀子 巻第二十哀公篇第三十一 2 #5

前回まで、孔子が哀公に、人には庸人・士・君子・賢人・大聖の五等級があると言い、哀公がそれぞれについて質問を重ねてきました。賢人までの説明が終わり、残るは大聖のみです。
続きです。

哀公曰わく、善し。敢えて問う、何如いかなればすなわちこれを大聖と謂うべきかと。孔子対えて曰わく、所謂いわゆる賢人なる者は、知は大道に通じ変に応じて窮まらず、万物の情性を辨ずる者なり。大道なる者は、万物変化遂成する所以にして、情性なる者は、然不(否)取舎をおさむる所以なり。是の故に其の事の大なること天地にもあまね(徧)く、明なること日月よりもあきらかに、万物を総要すること風雨のごと(如)し。繆繆肫肫ぼくぼくじゅんじゅんとしてその事循がうべからず、天の嗣(司)のごとくして其の事るべからず、百姓は浅然として其の隣(近)をも識らず。くのごとくなれば則ち大聖と謂うべしと。哀公曰く善しと。

(金谷治訳注「荀子」岩波書店、1962年)

辨→わける。区別する。見分ける。違いをあきらかにする。
遂成→成しとげる。
然不→=然否。然否→しかるか、いなか。そうか、そうでないか。
取舎→取ることと捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと。
辨→🈪①あまねし。⇒徧。徧→あまねし。広く行き渡る。
明→①あきらか。あかるい。(キ)頭脳がはっきりしている。さとい。かしこい。
察→あきらか。みる。しる。あきらかにする。
総要→①すべくくる。まとめる。総括。
繆繆→①やわらいで美しいさま。穆穆。
肫肫→ねんごろなさま。
循→したがう。うしろについて行く。決まりの通りにする。
べからず→③不可能を表す。…できない。
嗣→あとつぎ。よつぎ。
浅→あさい。あさはか。知識や思慮が乏しい。
隣→となり。接している。最も近い。
隣近→あたり。近辺。近隣。
拙訳です。
『哀公は、「(賢人については)分かった。わざわざ尋ねるが、どのようであれば大聖と言うべきかな。」と質問を重ねた。孔子が答えて言う。「世間一般に言われる大聖という人は、その知力は大道にまで達して変化に対応ができて困窮することが無く、すべての物の情性を見分ける人です。大道というのはすべての変化を起こし完成させる大本であって、情性というのは、よいものを取って用いるか悪いものを捨てて用いないかを定める大本です。このようですから、大聖の仕事の大きなことは天にも地にも広く行き渡るほどであり、頭脳明晰であることは太陽よりも月よりも明らかで、すべての物を取りまとめ(成長させ)ることは風や雨のようです。大聖の仕事は和らいで美しく親身であり追従することは出来ず、天子の後継ぎのようでその仕事を知ることは出来ず、民衆は浅はかで大聖本人はもとより隣のことも分かりません。このような人が大聖と言われる人です。」と。哀公は「分かった。」と言われた。』

前回、賢人は世界が相手になると驚いていましたが、大聖になると表面的な人間関係にとどまらず大道とか情性とか人の内面・自然界の道理的なこと、天・神の領域にまで届いています。紀元前にこんなことまで考えていた人、孔子も荀子もすごいですね~。

哀公は毎回「敢えて問う」と、「敢えて」と言っています。『わざわざ尋ねるが』と訳してきましたが、ちょっとした違和感を持ち続けていました。『わざわざ尋ねるが』の前に、『本当は僕は知っているのだけれど』を補うと違和感が取れます。哀公は君主ですから何でも知っていることが前提で、知らないことなどないのだけれど、せっかく勉強を重ねたという孔子が来たから「わざわざ尋ねてあげる」んだと想像しました。すると説明を聞いた後の「哀公曰く善し」というのも、『よし、私の理解と同じである。』と訳せて繋がります。つまらないことですが、僕的には面白い想像でした(^^

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