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【機能不全家族】他人軸で生きていた自分への気づきと、自分軸をとりもどすための方法

知らないうちに、わたしはこんなにも日常の中で、他人軸で生きていたのか。

そのことに、ふと気づくきっかけがあり、愕然としました。
手放せていると思っていたけれど、まだまだ、手放せていなかったのです。



その「他人軸」は、日常のささいな所作のほとんどすべてに宿っていました。


子どもを園に送迎する前の、朝のいそがしい時間。まだ、洗えていない朝食のお皿たちがシンクに詰んであります
「洗っておかないと、仕事から帰ってきたお母さんに、文句を言われてしまうだろうな。めんどうだから、出かける前に大急ぎで、洗っておこう」

園からの帰り道。「アイスクリームが食べたい」と駄々をこねる我が子。ちいさな選択に迫られる瞬間です。「いいよ」と言ってあげるのか、言ってあげないのか。
そんなとき、わたしの脳裏に浮かぶのです。「この子には、昨日もアイスを買ってあげていた。また今日もアイスを買って食べさせたのをお母さんに見つかったら、また文句を言われて怒られるだろうな。でも、ここで断ったら、子どもがグズってしまうだろうな。どっちをとる方が、ダメージが少ないだろうか?」

もともと便秘気味だった子どもは、毎晩同じくらいの時間にトイレに座ることが習慣となっています。出る日もあれば、出ない日もあります。それでも、とりあえず座ってもらう。そうすると「出ない」という日も、案外出てくれたりします。この習慣を作り、子どもの便秘問題を解消してくれたのは、母でした。

そうは言っても、子どもだって「今日はいやだ」という日だってあります。また、用事がかさなって家に帰るのが遅くなってまった日。グズって癇癪を起こす子どもをなんとか説得して、トイレに座ってもらうよう誘導するだけの忍耐とエネルギー、そして時間が、親側にない日だってあったりするのです。

そこでも、またわたしの脳裏に浮かぶ言葉たち。

「これでウンチをしてもらえないと、わたしがお母さんに『どうしてトイレに座らせなかったの』と怒られて、その理由を納得してもらうよう釈明しないといけない。その気力が、今のわたしにあるだろうか?」


一事が万事、そんな感じにすすんでいるのが、わたしの子育ての日常であることに、ふと気づいたのです。


いえ、以前から薄々、わたしの判断基準や子どもにせまられる選択に、母親の存在や言動が、少なからず影響していることは、知っていました。

そうした「母から怒られるんだろうな」という考えを頭の隅に押しのけて、そうして自分が思う、そのときの子どもとわたし自身にとってのベストな選択を選んでいたつもりでした。


それでも。

押し入れのふすまが、ちゃんと閉じきっていないこと。
時間がなくて、お布団がたためていないこと。
子供部屋に、おもちゃが散らばってしまっていること。
洗面台に落ちている髪の毛から、キッチンについているお皿を洗ったときに飛んだ水滴の拭き忘れまで。

そうした小さなことに対して「やらなければ」と思う理由が、自分自身がそれをやった方が気持ちがいいという自分軸よりも、先にやってくるのが「やっておかないと、お母さんに文句を言われてしまって、後がめんどくさいから」だったのです。


もちろん、こうした小さなことを、ちゃんとするのは、わたし自身、好きな方です。整頓も苦ではないし、夜寝る前にキッチンや子供部屋をリセットすると、気持ちがすっきりとします。

そうは言っても、つかれはてていたり、気力や集中力がない日だって、あるのです。そうした日に、「今日はいいや、仕方ない」と自分を甘やかしてあげたいと思うことは、甘えなのでしょうか?

生理痛で、メンタルも体調もズタボロのときに、子どもが数時間に及ぶ癇癪をおこして、やっと落ち着いてくれたあと。自分もグッタリしながら寝かしつけを完了させる日だってあります。そんな日は、お部屋だって、荒れるでしょう。洗い物だって、溜まっているでしょう。だって、それどころじゃありませんでしたもの。

でも、母親と顔を合わせると「キッチンのここ、水滴を拭いておいてっていつも言ってるでしょう?」「洗面所に髪の毛が落ちてたわよ。あえてあなたに見せるために、そのままにしておきました。それくらい、ちゃんとやってよ」と言われたら、もう、泣きそうになります。

だったら、なにか文句を言われる前に、完璧にやっておこう。そう思って、頑張ってしまうのは、他人軸なのでしょうか?それとも、自己防衛本能なのでしょうか?



そりゃあ、日常的にストレスも溜まるよなあ。
そりゃあ、「あなたのことが、キライです」って、言ってしまうよなあ。

そんな風に、思ったりもしました。
心がせまいのでしょうか?
大人として、生活力がなく、怠惰なのでしょうか?


もし、世間一般の意見が、そうだとしても。
わたしは無理して、しんどい思いや我慢をたくさんして、自分の背中に鞭打ってまで、完璧に家事をこなしたいとは思いません。

それで自分のこころの余裕がなくなって、子どもに当たったり、イライラしてしまうくらいなら、そんな完璧さやすばらしさは、いりません。

だったら、わたしは少しくらいお皿が溜まっていたり、洗濯物が畳めていなかったり、お布団がしきっぱなしになっていたって、自分がご機嫌で子どもと過ごせる方を選択したい。

ただ、それだけのことなのです。
それが、間違っていることだとは、どうしても思えません。

しかし、母には、その理屈や考え方は、どうも通じないようです。

わたしは全部、たった一人でこなしてきた。全部ちゃんとできました。あなたを育てながらでも。なのに、どうしてあなたにはできないの?わたしは、どうやってこれだけのことをこなしてきた、やってきたと思うの?

これが、母の口癖です。

すごいねー。
ママは、それができるんだねー。
素晴らしいと思う。
でもさ、わたしはママと同じ人間ではないから、わたしには全部ができないときもあるんだ?
ママはそれができてすごいと思うし、頑張ってたんだと思うし、それはとてもすばらしことだと思う。
でも、ママにできたからといって、全人類がそれをできて当然っていうのは、ちょっと違うんじゃないかな〜?

なんてことを、こころの中で思ったりします。
何度か、言葉にして伝えたこともあるけれど(もちろん、ちゃんと相手への敬意をもって)。やっぱり、わたしの言っていることは、母には通じませんでした。

「頑張ればできるでしょう。言い訳ばかりしないで。なんであなたはできないの」が、母の見解です。


はあ。しんどーい(笑)
会話が、本当に、通じないよおおおおおおおお(笑)

そして、母ができていないことを指摘しようものなら、「わたしは疲れてるんだから」「仕方ないでしょ」「ど忘れしてたのよ」と、母のときには母の都合や言い分、背景は、許容され、考慮されるのです。

少し前なんて、母が出勤後のキッチンに入ったら、ガスの火がつけっぱなしになってました。気づかないまま出勤していたら、家が火事になるところでした。笑えません。

(それなのに、実家を出たいと言ったら、「わたし無しで、あなたはどうやって生きていくつもりなの?」と言われます。え?笑)

でも、わたしのときは、わたしの言い分も、背景も、考慮には入れられません。それはすべて、ただの「言い訳」として処理されます。

わあー、アンフェアーーーーー♡笑
そういうところが、好きじゃないな♡人として♡笑

と、博愛主義の水瓶座のわたしは思ってしまいます。
まあ、いろんな人がいるからね。仕方ないよね。知らんけど。


やっぱり、和解や仲直り、歩み寄りというのは、双方に「歩み寄りたい」「理解し合いたい」という意思があり、そして双方が相手を理解しようとする姿勢がないとムリだということを、改めて痛感しました。


さて、ここまで長文で、ただの愚痴のような文章を綴ってしまいました。
ここまで読んでいただいた方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。

このまま終わらせるのは、申しわけが立たないので。



ここからは、この「自分はいまだに他人軸だった」という気づきから派生した、あらたな自己理解について、蛇足ではありますが、書いていきたいと思います。



わたしは昔から、「先を見て動く」ということをすることが好きなタイプでした。

段取りをちゃんと組むとか。
次の、次の、そのまた次くらいの周囲の言動を考慮して、そこから逆算して、どの選択肢や行動がベストなのかを考えてしまう、クセのようなものがあるのです。

それは、わたしが水瓶座の性質が強いからだと思っていました。

実際、星読みをお仕事としてされているお友達に「水瓶座さんは、先を見越して効率的に動くことを好むので、段取りどおりに物事をすすめられない子育てに、フラストレーションがたまりがち」と言われて、とても納得して目から鱗が落ちたのでした。

しかし、今回のわたしの「他人軸」な思考のクセに気づいたことで、わたしがこうやって先の先の先を見据えて、行動や言動、選択肢を決めているのは、幼少期からの母親とのこうしたやり取りの積み重ねの影響も大いにあったのだなあ、と気づくことができたのでした。

自分自身の性格であったり、好みの部分も、きっと少なからずあるのだと思います。でも、「そうやって先回りをして、ベストな、ダメージが少なく、かつ当たり障りのない選択をしつづけないといけない環境下にあった」という事実に気づけたことは、わたしにとって、とても大きな発見であり、またヒーリングへの一歩でもありました。


他人軸で生きてしまうことは、簡単には変えられないのかもしれません。だって、「怒られることが怖い」とか、「怒られたくない」という気持ちが、とても強く、まだ自分の中にありますから。

でも、そうした自分の中にある気持ちたちとも、時間をかけてゆっくりと向き合っていって、抱きしめていってあげて。そうして少しずつでも、昇華して、手放していってあげることができたら。

そして、「今、この瞬間の自分」が、本当に望んでいる、心地のよい選択がなんなのかを、選ぶことを大切にしていってあげたいなって思います。


わたしにとっての「心地のよい選択」は、意識していないと、「どっちの方が、自分のよろこびが大きいだろうか」という足し算ベースの選択ではなくて、「どっちの方がダメージやマイナスがすくないだろうか」という引き算ベースの選択になってしまうので…。


本当の意味で、自分が望むこと。心地いいこと。
足し算ベースの選択を、していける強さや勇気。
そして、そうした選択をすることを、やさしく許可してもらえるような環境を、選んでいくこと。


そのすべてが、大切だなあと、しみじみと感じたのでした。


ほんの少しずつでいいのです。ちいさな一歩を、重ねていくことで、きっと明日は今日よりもさらに、自分のことを大切にしてあげることが、できるから。

そう信じて、ゆっくりでいいから、前にすすみ続けていきたいと思います。


今日も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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