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今日、わたしの本当の人生がはじまった

親のせいにするのを、やめようと思いました。
人生の失敗も、成功も、今までの後悔も、苦悩も、不安も、生きづらさも、苦しみや恐れや葛藤も。




今まで、母の顔色をうかがいながら、生きてきました。そうしていないつもりであっても、やっぱりそうしてしまっていたのだなと、最近、自分の過去と徹底的に向き合っていることで、感じています。


でも、もうそれもやめようと思いました。

なぜなら、「毒親には、自覚がない」という言葉が、本当なのだということを、今までにないくらいに痛感したから…。


わたしは母とたった二人で、物心ついた頃から生きてきました。母には「わたしにはあなた、あなたにはわたししかいない」「頼れるのはお互いだけ」と言われて育ちました。そして、世界は怖いところで、わたしたちは隠れるようにして、身をひそめて生きていかないといけない。

はっきりと言われたことはないのかもしれませんが、それが、わたしが母の言動から理解した「世界の姿」でした。




わたしは20代の頃、「どうしてみんな、そんな簡単に実家を出られるの?」と疑問に感じていました。むしろ、「どうやってみんな、実家を出ることを、そんなにいとも簡単に達成できているの?」と、不思議でたまらなかったのです。

なぜなら、わたしが成長しはじめて、「自立したい」「一人で暮らしたい」というたびに、母は「あなたに一人で生活できるわけがないでしょう」「どうせ結局また家に泣きついてくるに決まってる」と言い続けてきていたからです。

それでも食い下がって「一人で暮らしたい」と言うと、母は今度は「今までどれだけわたしの人生をあなたのために犠牲にしてきたと思ってるの?そんなにわたしが邪魔なら、勝手に出ていってくれていいわよ。でも、今まであなたにかけてきたお金を返して」と言ってきました。


それでも「このままじゃいけない」と、共依存の関係を断ち切ろうと、力技で実家を出たこともありました。大学を卒業してすぐのことです。数年間、一人で海外にワーホリに行ったりしながら、暮らしていました。

そこで出会った人と国際結婚をしましたが、結婚生活は破綻。トラウマを抱えた状態で、1歳になったばかりの子どもを抱えて、ほとんど着の身着のままで関西空港に降り立ったのは、日本ではじめての非常事態宣言が発令される10日前のことでした。

世界全体が「これからどうなってしまうんだろう」という恐怖に包まれている中、母はわたしに「一緒に住もう」と言いました。「海外のように、日本もロックダウンになってしまったら、お互いの家を行き来することもできなくなる。わたしも歳を重ねているから、不安。あなたも子どもがまだ小さいんだから、そうなったら少しでも人手があった方がいいでしょう?それに、それぞれに別の家に住んで家賃や水道光熱費を払うくらいなら、一緒に少し広い家に住んで、生活費を抑えることもできる。そうしたら、わたしも助かる」と説得されました。

それでも、今までのことがあって、一緒に住むことに懐疑的だったわたしは、最初は断り続けていました。しかし、保育園もすべて無期限で休園。行政もストップ。仕事を見つけようにも、ほとんとの会社が業務停止となってしまっているような先の見えない状況の中、貯金もほとんどないような状態で、一人でまだ乳飲児の子どもを抱えて暮らしをゼロからはじめることは、あまりにもリスクが大きいことも事実でした。

「子どものためにベストな選択を」と思い、わたしはこのコロナの状況が落ち着くまでという条件付きで、期間限定で一緒に住むことを受け入れました。


そこから数年経ち、母との同居は金銭的にも子育て的にも、負担はあまり変わらないという事実が浮き彫りになってきました。むしろ、精神的な部分では、負荷の方が大きかったのです。

わたしは何度も母に、「市外のもっと生活費の安いところに娘と一緒に引っ越しをしようと思う」と母に言いました。しかし、そのたびに母は、「そんなのリスクが高すぎる」「あなたに一人で子どもを育てるなんて、できるわけがない」「あなたと子どもを二人にして、あなたの子どもの将来が心配」と言い続けました。

さらに母は、わたしが実家を出たいという話を持ち出すたびに、「あなたが出ていくってなったら、わたしはどうなるの?わたしのことは考えてるの?」と続けました。

「あなたは若いから、地方に行っても仕事が見つかるかもしれない。でも、わたしは?わたしは一体なんの仕事をして、どうやって生きていけばいいの?」と。わたしは母に、「着いてきたいなら、きたらいいし、着いてきたくないなら、このまま慣れ親しんだこの街に住めばいい。そうすれば今の仕事を変えなくてもすむでしょう?」と伝え続けました。

しかし母は、「今の家に一人で住み続けられるだけの収入はない」と言いました。そして「ここ数年間、どれだけあなたを助けて支えてきたと思っているの?なのにそんな簡単にわたしのことを切り捨てるの?」と。

そこから、過去にわたしが母と縁を切る形で実家を出たことや、10代の頃の反抗期の時期のことなどを弾弓し、「わたしはあなたを許さない」「わたしの人生を返して」と怒鳴り散らすか、泣きはじめるか。いつも、終着地点はそのどちらかでした。

結局、わたしは家を出る踏ん切りをつけられないまま、ずるずると年数だけが経っていました。




そんな経緯で母との同居を続けていたある日、母と口論になりました。その中で母は、「そんなに文句があるなら、家を出ていけ」と言いました。

わたしは思わず、鼻で笑ってしまいました。

「本当に出ていくって言ったら、あなた止めるでしょう?今までだって、散々そうやっていってきたやん」と。

すると母は、「わたしはあなたを引き留めたことなんてないし、(比喩的な表現で)あなたに鎖をつけて鍵をかけた部屋に閉じ込めたこともないわ。檻は、あなたの頭の中にあるのよ。いい加減に、わたしのせいにして、わたしを悪者にするのはやめて」と言い放ちました。


わたしは唖然としました。

え?
自覚が、ない、の…?

いや、そりゃあ…
え?

彼女の言動が意識的なものではなく、無意識のものだということは、ずっと前からわかっていました。それでも、あまりにも母が、わたしが実家を出られていないという事実に、自分は一切関与していないという態度と言動だったので、わたしは混乱しました。


え?
待って?
じゃあ、なに?
今までわたしが母に言われ続けてきた言葉たちは、なに?

わたしが30にもなって、こうやって「実家を出ること=この世で一番の親不孝、親を捨てるということ、最大級の親への裏切り行為」という呪いでがんじがらめになって、生きづらさや恐怖や不安や苦しさを抱えてきているのは、一体なんだったの?

え?実家を出てもよかったの?
むしろ、強行突破して出なかったわたしが悪いの?
「本気で家を出たかったのなら、なんとしてでも出ていたでしょう。それをしなかったということは、あなたが自ら選択して実家を出ないと決めたということでしょう」っていうこと?(いや、まあ、それはそう… なの?え?)


え?
でも、大学卒業してから実家を強行突破して出たときは、犯罪者かのように断罪されて、「わたしはあなたを絶対に許さない」と、その後数年間、呪いの言葉を吐かれ続けたよね?「あなたはわたしを捨てた」と言って、わたしを責め立てて、親子の縁を切ろうとしたよね?

え?
わたしは一体、今まで、なににこんなに苦しめられて、つらい思いをひとり抱えて、こうやって30代にもなって、こんなに自立や生活力というところでのハンデを背負って、苦悩しているの?

え?
すべて、わたしが悪いの?
え?今までのわたしの人生と、苦しみと、悩みと、涙たちは、なに?


気持ちの置き場所がわからず、子どもを保育園に送り届ける道中も、ずっと涙が止まりませんでした。




「毒親は、自覚がない」とは、今までにも何度も目にしてきたはずの言葉でした。でも、その言葉の真意を、こんなに深く、そして強く実感したのは、今回がはじめてでした。

わたしは、一体、なんのために。
わたしの今までの人生の苦しみや、罪の意識や、拭いされない恥の気持ちは、一体…。


そして、ようやく、母のことが少し理解できるようになりました。

自覚がないのです。
一切の悪気もなければ、自分がわたしを引き留めたという意識もなく、そして親が子どもに与える影響力の大きさも、口では「わかっている」と言ったり、わたしに「あなたのその言動は、あなたの子どもの人生に影響を与えるのよ」と弾弓していたとしても、それを自分に当てはめて、自身を省みることはできないのです。

なぜなら、母は自覚がないから。

彼女がどれほど、幼少期からわたしの人生に強く、深い影響力を与えたのかということを。どれだけ、わたしにとって、母が世界のすべてであったのかという事実を。


だからこそ、わたしが母に自分の気持ちを泣きながら伝えるたび、母は「わたしのせいにしないで。わたしを悪者にしないで。あなたがそうなっているのは、あなたの責任でしょう?わたしは関係ないわ」と言っていたのです。

だって、母には、自覚がないから。
自分の言った言動の責任すら、とれない人だから。

「わたしはどうなるの?」や「わたしを捨てるの?」「わたしの人生を返して」という言葉が相手に与えうる影響力を、理解できないのです。

だから母からしたら、「そう思ったから言っただけ」「売り言葉に買い言葉」「どうして、あなたはいつもそうやって言葉尻をとらえて揚げ足をとって、悪い方にばかり解釈してわたしを悪者にするの?」となるわけなのです。

そりゃあ…、そう、なるわ…。


わたしは突然、すべてが馬鹿らしくなりました。
だからわたしは、母のせいにするのをやめようと思ったのです。

その代わり、「母のために」と思うこともやめようと思いました。
母が泣こうが叫ぼうが、わたしのことを「血も涙もない冷たいロボットのような人間」と呼ぼうが。

わたしは、わたしの人生を歩んでいかないといけないのだと。
そうしていいのだと。

はっきりと、気づかせてもらうことができたのです。

だって、わたしの人生の責任は、誰もとってはくれないから。
これだけわたしをコントロールし、支配しようとした、母でさえも。




この出来事は、とても感情を動かされるものでした。たくさんたくさん泣いて、いろんな感情が出てきて、両目はパンパンに腫れました。

それでも、この出来事があってよかったな、と思いました。
この出来事があったから、母とのこの口論があったから、わたしは「本当の意味で、自分の人生を生きてもいいんだ」という踏ん切りがつきました。

2年後に実家を出ようと決めて、コツコツと水面下で準備を進めていました。母をどうやって説得し、理解してもらい、穏便に、平和に、実家を出ることができるだろうかと、この数ヶ月、自分の彼氏も巻き込んで、頭を悩ませ続けていました。

でも、そんなことも、しなくてよかった。
もう、しなくてもいい。


だから、わたしは、もう母に責任の所在を求めることはしません。母のせいにもしません。母を責めることも、もうしません。
だって、その必要が、もうないから。わたしは、わたしの人生を生きるから。

それでも、わたしの心についた傷たちは、やはり今もそこにあります。たくさんの呪いの言葉は、わたしの一部になって、わたしの潜在意識の奥底に張りついてしまっています。その傷の責任すら、誰もとってはくれないのです。

まるで、車に当て逃げをされてしまったような感覚です。突然、事故に巻き込まれて、骨折して、生活にも困るようになって。でも、その責任を、誰もとってはくれなくて、ただ自分一人で、その傷の痛みと、その後遺症を一生、抱えていかないといけないような…。


その悔しさや、悲しさのようなものはあります。
すこし悲観的過ぎるかもしれませんが、わたしの気持ちは、やはりこれが今の正直な形です。

でも、この傷も、「わたしのもの」。

わたしがこれからの人生で、ゆっくりと向き合い、癒していき、そうして乗り越えて、強くなっていくための、必要な階段となってくれるのでしょう。そうして「乗り越える」経験を重ねて、わたしはきっと、もっと強く、聡くなれる。

これらの傷が、数年先なのか、数十年先なのかはわからないけれど、必ず「あってよかった」と思えるようになる。「あの傷たちが、あの経験たちがあったから、今のわたしはココにいる」と言えるようになる。
そんな風に、強く、思うのです。

これもきっと、祝福。
今はまだ、わからないけれど。


もう、30歳。
けれども、人生100年時代の現代では、まだ1/3の地点にすら来ていない。
まだ、30歳。

わたしの人生は、まだまだ、これからです。



今日も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
自分自身の思考整理のために書いた文章ですが、少しでも誰かの気づきや考えるきっかけ、癒しや一歩を踏み出すための後押しとなってくれれば幸いです。

愛を込めて
ねう

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