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我が家の5歳児のウンチ事情から、毒親の境界線を考える

「もう20時だから、ウンチに行きなさい」

母が、わたしの娘に言いました。

「昨日もウンチしてないでしょう?今日は絶対にウンチしなさい。毎日ウンチしないとダメなのよ。ほら、早くトイレに行きなさい」

娘は、「でも、○ちゃん、今ウンチ出ないもん!」と答えました。

「ウンチは毎日しないとダメ!じゃないと、またウンチが固くなって、出てこなくなっちゃうよ。いいから、早くトイレに行きなさい!」


毎晩、我が家でくりひろげられている会話です。

この会話を聞くたびに、わたしはとても複雑な気持ちになってしまいます。





本題に入る前に、5歳になった我が子のウンチ事情についてお話をすると… (ここまでで何回「ウンチ」って言葉を書いたんだろう。苦笑)

わたしの娘は、赤ちゃんのころから便秘気味でした。オムツがとれてからも、4歳くらいまではトイレでウンチができず、毎回そのときだけオムツを履いて、四つん這いで苦労しながら排泄をしていました。

その後、4歳くらいでトイレでのウンチデビューをしましたが、やはり便秘気味で4日以上ウンチをしてくれないことも多かったので、小児科にいって、下剤をもらったりもしていました。


そんなわけで、我が子のウンチ事情は、なかなかに家族にとってシビアかつ真剣な話なのです。


とはいえ、5歳になる前くらいには、娘も自分から「ウンチ出る!」と言って、トイレに行き、排泄できるようになっていました。3日連続で出る日もあれば、2日ほど感覚があく日もあったけれど、便秘で痛くて苦しんでいる様子はありませんでした。


娘が4歳のとき、わたしは体調に関する理由から、母に子育ての主導権をバトンタッチさせてもらっていた時期がありました。

その頃に、母は毎日決まった時間にわたしの娘をトイレに座らせる習慣をつけたようです。それが、「晩御飯を食べおわったあと、お風呂に入る前」の時間でした。


母曰く、「トイレに座る習慣をつけてからは、本人が『ウンチ出ない』と言っていても、しばらく座っていたら、ちゃんと出るようになっていた。子ども自身からも『ウンチに行きたい』と言うようになったし、毎日連続で排泄できるようになっていた」とのことです。

実際、母は娘が毎日連続で排泄できるよう、「7日連続でウンチができたら、ケーキを買ってあげる」と言って、毎晩「ほら、あと○日ウンチをしたらケーキだよ!」と言って、子どものモチベーションを高めようとしていました。

でも、娘がどれだけ頑張っても、7日連続で排便することはできず、娘の中に「ウンチをしなければいけない・・・・・・・・・」という義務感に対するフラストレーションが溜まっていっていることに、わたしは気づいていました。

7日連続ウンチをしたら、ご褒美がもらえる...というモチベーションの高め方自体、なんとなくわたしは違和感を感じていました。

そのため、かなり早い段階から、わたしは娘に「ウンチをすること」を強要することをやめました。

その代わり、「出ても出なくてもいいから、とりあえずちょっとだけトイレに座ってみようか」と、トイレに座る習慣だけは維持できるように、声かけをするようにしていました。




こうして、冒頭の母とわたしの娘との会話にもどるわけです。

母が家にいるときは毎晩、母に「行きなさい」と言われて、いやいやトイレに座る娘。そのまま、絵本などを読みながら10分とか、長いときは30分くらい座っています。それだけでも、すごいことだと思うのです。十分がんばっているし、偉いと思うのです。

でも、結局ウンチが出ないと、母は「ウンチ出なかったの?」と、すこし責めるような口調で声をかけます。「もっとがんばったら出ていたでしょう。やる気あるの?」と言外に責めているような、そんな口調です。


そんなこと言われても、出ないものは出ないだろうよ…

隣で見ているわたしは思います。


そもそも、大人だって、「今からウンチしてこい」と言われても、トイレに座ったら自動的に出るものじゃないよなぁ…。すくなくとも、わたしは無理です。

それに、大人だって、毎日絶対に排便があるのかと言われたら、そんなこともないんじゃないだろうかと思っています。毎日の人もいれば、2〜3日に1回の人もいる。逆に、食後に毎回という人もいると思います。

どんなリズムや間隔であったとしても、大切なのは「行きたい」と思ったときに行って、ストレスや痛みや苦しみなく、スッキリと出てくれることなんじゃないでしょうか?


そんなわけで、娘の排泄時間を母が決めて、毎日排便をすることを強要することに、わたしは強い違和感を感じていました。

とはいえ、娘の長きにわたる便秘との戦いの歴史の記憶も、まだ鮮明なのも事実です。

娘の気持ちは大切にしたい。かといって、また便秘をこじらせて、下剤を飲まないといけなくなったり、浣腸などに頼らなくなるのもつらい(親も、子どもも)

その狭間で、わたしの気持ちも揺れ動きます。


そうして揺れ動いた結果、わたしはとりあえずの妥協点として、出ても出なくてもいいから、「毎日決まった時間にトイレに座ってみる習慣をつける」ということが一番なんじゃないかな?というスタンスに落ち着きました。

出てもいいし、出なくてもいいから、毎日5分だけでも座ってみる。それができたらハナマル。ウンチも出たら、さらにハッピーだしスッキリ!みたいな感じでいいんじゃないのかな?って。


ということで、今日も、娘がトイレに行ってから10分くらいして「やっぱり出ない」と声をかけてきたとき、わたしは「そっか、よくがんばったね。今日はここまでにしようか」と返事をしたのです。


そんなわたしに対して、母は険しい顔をして「わたしはもうすこし長い時間座らせている。そうしたら、ちゃんと毎日出ていたのに」と言いました。「そんな風にあなたがすぐに『もういいよ』っていうから、あの子もウンチしなくなるんでしょう」って。

わたしは、「あの子はロボットじゃないんだから、『出せ』と言われて出るものじゃないでしょう。大人だって、『今からウンチしてこい』って言われて、すぐに出そうと思っても出せないでしょ?ママだってそうでしょ?子どもだって一緒だよ」と答えました。

「でも、わたしと2人だったときは、あの子は毎日ウンチできていたわよ。自分からウンチに行きたいとも言っていたし。」

母は、なんとなく自慢げというか、誇りというか、そんなニュアンスを含ませて答えました。わたしは、その母の言い方に強い違和感と嫌悪感を感じました。


「ねえ、その言い方ってちょっとよくないんじゃない?子育てはコントロールじゃないんだよ?

大人が子どもの排泄時間やタイミングをコントロールして、大人に言われた時間に排泄をするように躾けるんじゃなくて、子どもが自分から、自分のタイミングで『排泄をしたい』という感覚に気づくことができて、それを伝えることができて、そしてそのタイミングでトイレに行けることの方を目指して、そのためのサポートをしてあげるべきじゃないの?」

わたしは、そんな風に答えました。
でも、母にはわたしが伝えたいことは、伝わらなかったようでした。

「わたしといたときは、あの子は毎日、決まった時間にちゃんとウンチをしていたわ。自分からウンチしたいとも言っていたし。

あなたがそんな風に適当だから、せっかく今まで苦労して築いてきたルーティーンが崩れてしまってるのよ。これでまた便秘になったら、もったいないことね」と答えました。

わたしの脳裏には、絵本を読んだりしてもらいながら、ウンチが出るまで30分でもトイレに座らされていた娘の姿が脳裏に浮かびました。

わたしは耐えられなくなって、「あのね。娘がなんでママのときは毎日トイレに行ってたか分かる?行かないと怒られるってわかってるからだよ?」と言いました。

「そんなことない。ちゃんとルールと時間を決めて、それどおりに動いていたら、娘ちゃんはちゃんとウンチできていたわ」と母は食い下がりました。

「娘ちゃんが、言ってたよ。ママといるときはできるのに、わたしといるときはできなくなることがたくさんあって。それはなんで?ってたずねると、『おばあちゃんといるとき、やらないと怒られるから。それがイヤだから』って言ってたんだよ?ウンチだって、そんな風に強制してさせたとしても、それはあの子のためにならないと思うよ」と、わたしは伝えました。

母は、「そうやっていつもわたしを悪者にしないで!あなただって、いつもあの子に怒ってるじゃない!とにかく、わたしが家にずっといたときは、あの子は毎日ウンチできてたのよ。あなたが子どもを見るようになってから、毎日でなくなってるの。わたしのときは、問題なかったわ」と言い放ちました。


わたしは、これ以上話をしても無駄だと思い、あきらめて子どもと二人、寝室に行くことにしたのでした。

子どもの前で平静を装ってはいましたが、わたしは心の中で、悔しくて悲しくて、なんだか泣きそうになっていました。




こういった話を母とするたびに、自分自身がどんなふうに育てられてきたのかを痛感します。そこではじめて、「自分の育てられ方は、たぶん、間違っていたんだ」と感じるようになったのです。


わたしは、いまだに自分の母のことを毒親と呼んでいいのかわかりません。毒親という言葉に、もやもやした気持ちも抱えています。

けれども、「わたしは機能不全家族の中で育ったんだな」ということは、痛感します。

あたり前のようにある、コントロール。
親の支配。

そこには、「子どもの自立をサポートする」という姿勢と、「子どもは日々自立に向かって成長している」という "信頼" がなかったのだなぁ、と痛感するのです。


たとえば、わたしの子どもウンチの場合。
確かに、毎晩同じ時間にうんちをしてくれるわけではありません。
数日してくれなくて、「また出なくなったらどうしよう」と内心ヒヤヒヤすることもあります。

けれども、外出時に「まま、ウンチ行きたい」と娘の方から声をかけてきてくれて、出先で排泄できたことも、ちゃんとあるのです。


「このまま数日ウンチが出なかったら、また便秘になるかもしれない。便秘になってしまったらどうしよう?」

これは、どの親も同じ状況下にあれば感じる不安だと思います。

でも、そこで「きっと、この子はちゃんと自分で『トイレに行きたい』と言えるだろう。信じて、数日様子を見守ろう」と、子どもの力を信頼して見守る勇気をもてるのかどうか。

それこそが、いわゆる支配方の毒親と、健全な親の間に横たわっている違いであり、毒親の境界線なのかもしれない。

そんなことを、感じました。


それに、仮に本当に大変な便秘になったとして。
そうなったら、お医者さんに連れていって、助けてもらえばいい。そこで子どもが泣き叫んでイヤがったとしても、そこは自己責任というか。それも含めて練習・経験というか。

もちろん、そうならないでいられるのであれば、それがベストではあるけれど。

必要であれば、そういったバックアップ的なサポートも準備しておく。その上で、基本姿勢は「子どもが持っている力を信頼して、見守る」。

それこそが、親の役割であり、また親の責任なのではないかと思うのです。


機能不全家族の中で育ったわたしには、「子育ての普通」というものが、まったくと言っていいほど、わかりません。

どこからが「過保護」であり、どこからが「支配」であり、どこからが「ネグレクト」なのか、その基準値を自分の中に持っていないのです。

そんな条件の中で子育てをするのは、とても怖いし、苦しいです。

「これでいいのかな?子どものことを、傷つけてない?ちゃんと尊重できている?遠ざけすぎていない?怒りすぎた?この怒り方はNGだった?それとも "普通"?」

日々、そんな風に自問自答し続けています。
答えは、わかりません。
正解も、きっとないんだろうなと思います。

完璧な子育てなんて、きっと不可能で。
完璧な親なんて、きっとどこにもいなくて。

それでも。
自分の過去の傷や経験と、真正面から向き合いながら、「わたしの代でこの負の連鎖を終わらせていく」
その覚悟を、何度もつよく自分の中に打ち立てて。


そうして今日も、わたしは子育てという、答えも正解もない、未知の領域の中を泳いでいくのです。

自分の心と、感覚と、対話をし続けながら。
そうやって築き上げていった娘との関係性が、誠実で、対等で、尊重と愛に満ちたものでありますようにと、祈りを込めて…。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この記事が、すこしでも誰かの気づきのきっかけやインスピレーションになってくれれば、とても嬉しいです。

愛を込めて
ねう

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