【機能不全家族】外国人母との歴史について語ろう
わたしの家庭は、おそらく「機能不全家族」と定義されてしまうのでしょう。
外国人だった母は、異国の地でたったひとりでわたしを育て上げました。
言葉の壁。文化の壁。そしてわたしが中学生に上がる頃までは、数年ごとにビザ更新の壁にもぶち当たっていました。
また、母はわたしの父親の存在をおそれ、わたしに物心がついた頃から「もしママになにかあったら、あなたは絶対に『ママの国に帰りたい。パパのところには行きません』って裁判官の人に言うのよ。わかった?」と言われ続けていました。
小学校低学年ごろ、お留守番をしていて、母が帰るといった時間より数分、時間が過ぎてしまったことがありました。わたしの心臓は、早鐘のように打ち始めました。
今こうやって書いてみると、そのヤバさを改めて痛感します。6歳とか7歳の子どもが、こんなことを常日頃から考えているって、とんでもないストレスと恐怖だっただろうなぁって。
自分のことですが、どこか他人事な感じで観察してしまうわたしがいます。
わたしの家庭は、わたしと母の2人だけでした。
親戚は、いませんでした。
物理的にいちばん近い距離にいる親戚は、飛行機の直便で10時間以上かかる、ヨーロッパの国にいました。
日本という国のなかで、わたしが「家族」と呼べるひとは、母ひとりでした。
母になにかあったら、わたしは天涯孤独の身だ。
この真実は、おそらく幼児の頃からわたしのなかにしっかりと根付いていました。ママがいなくなってしまったら、わたしはひとり。ひとりでは生きていけない。ママだけが、わたしがこの世界で生き抜くための命綱。
母が健康で、元気で、いつまでも一緒にいてくれるであろう、どっしりとした安心感をわたしは心の底から必要としていました。
でも、母には身体的な障害があったのです。日常生活に大きな支障はありませんでしたが、母はいつもその障害の影響で体調が悪く、苦しんでいました。
そのため、わたしは「ママがいなくなったら、わたしはこの世界でひとりぼっちになってしまう」という恐怖と、現実的に「いつママが死んじゃうかわからない」という不安を抱えて日々を過ごしていたのです。
小学校の6年間のあいだに2回、救急車を呼んだことがあります。
「寒い、さむい」とガクガクと震える母の手を、救急車のなかでにぎり続けていたときの恐怖を、今も覚えています。
母がいないと、わたしはひとりぼっちになってしまう。でも、そのたったひとりの頼みの綱の母は、体調が不安定。いついなくなってしまうかわからない。
そんな恐怖や不安を抱えつづけた幼少期から青年期でした。
そんな風に、「不安」は常にわたしの隣にいました。まるで、「不安」という海の中に1人ぷかぷかと浮いているように。「不安」は常にそこにあり、もはや「不安がそこにある」ことを感じることすらできなくなっていました。
それはまさに、わたしたちが「酸素」を認識することができないのと同じように。
そりゃあ、大人になって「不安症ですね」と言われても「????」ってなるよなって思いました。この話は、いつかまたどこかで。
我が家にはたくさんの「他の人には言ってはいけないタブー」がありました。
なにを言ってもよくて、なにを言ったらいけないのか。よくわからないまま、ただ「間違った人に間違ったことを言ってしまったら、なにかわかるないけど、大変なことになってしまう」という漠然とした不安は感じていました。そのプレッシャーは、とんでもなく大きいものでした。
ビザや仕事のこと、お金のことなどに関して、20年以上も前の日本は、まだまだ外国人のシングルマザーに対するサポート体制がありませんでした。
すべて漢字の公的文章。誰も、英語を話すことができない。母は、行政からの手紙や、小学校からの手紙を、深夜まで日英辞書と英語→母の母語の辞書を片手に読み解くのに苦労していました。
小学校の高学年に上がったくらいから、小学校のプリントは全部わたしが読んで、母に「ここにサインして」とか、「これは読まなくていいやつだよ」と伝えていました。銀行や行政の書類も、わたしが読むのを手伝っていました。
「わたしには、あなただけ。あなたには、わたしだけ。わたしたちが頼れるのはお互いだけ。だから一緒に頑張ろう」が母の口癖でした。
母も必死だったのです。
知らない国で、身体的な障害を抱えながら、たったひとりで子どもを育てていかないといけない。その負担やストレス、不安はいかほどのものだったのだろうと思います。
だからこそ、わたしは母のことを簡単に責めることはできません。当時、母にできる全力と精一杯で頑張っていたことを知っていますから。
高校生にあがったとき、なんらかの理由で戸籍謄本をとりにいったことがあります。わたしの戸籍謄本の筆頭者の欄には、まだ未成年の、わたしの名前が載っていました。そして、その横の欄に、カタカナで書かれた母の名前があり、カッコ書きで「仮筆頭者」と書かれていました。
まだ未成年のわたしは、正式な戸籍の筆頭者となることができないため、母が仮の筆頭者となっていたのです。外国人国籍の人は、令和の時代の今に至るまで、個人で戸籍を持つことはできないのが現状です。
その戸籍謄本を見たときの、なんとも言えない虚無感というか。あの感覚を忘れることはできません。なにに対してだったのでしょうか。日本という国に対してだったのか、自分の生い立ちに対してだったのか。今も、わかりません。
「あなたが大人になって結婚したら、あなたのお家の庭に、小さくてもいいから、ママのお家も建ててね。ママをそこに住ませてね」
これも、幼少期の頃から繰り返し、母に言われていた言葉です。当時のわたしは、その言葉になんの違和感も抱きませんでした。でも、中学から高校に上がり、母にそうやって言われるたびに、耐えがたい圧迫感と強迫観念のようなものを感じはじめるようになりました。
高校生の頃のわたしの悩みは、「母の老後をどうやってひとりで支えていけばいいのか」でした。外国人の母は、年金ももらうことができないのです。
彼氏ができても、「この人は母も含めてわたしのことを愛してくれるだろうか?母との相性はどうだろうか?母のことも含めて、将来的にサポートしてくれる意思や理解はあるだろうか?」と考えていました。
繰り返しますが、10代の子どもが、です。
「大人になったら、母の人生も背負わないといけない」
そのプレッシャーは耐えがたく、成人が近づけば近づくほど、わたしは大人になることを拒否しました。大人になることでの義務や責任。働いて自分でお金を稼ぐということ。そのプレッシャーから、逃げ出すように。就活もせず、20代前半は海外を旅してまわりました。
母の老後の責任を負うことに対する責任感と義務感を自分の肩からやっと降ろすことができたのは、去年のことです。
わたしが大きくなればなるほど、わたしと母の間には越えることのできない言語と文化の壁が立ちはだかりました。
家庭内では、母の母語を話すことを強制されていました。母の母国とのつながりを断ち切らないための、母の愛情であったのだと思います。
そのため、わたしは今も、母の母語の言葉を日常会話程度には話すことができます。しかし、やはり限界というものはあるのです。
そのことを、わたしは大学に入って言語人類学を学んだときに理論をもって理解しました。漠然と感じつづけていた「母と意思疎通をとること」に対して感じる困難。その理由が、実際にあったことをしることができたのです。
ケンカをするときに、わたしが、わたしにとってのネイティブである関西弁で「なんやねん!」とか「〜ちゃうんけ?!」と怒鳴ると、母は「そんなヤクザみたいな言葉で話さないで!ちゃんと〇〇語で話しなさい!」と怒鳴り返しました。
自分の気持ちの繊細な機微を伝えるには、わたしの母の母語の能力は足りていなかったのです。
いつも、伝えたいことを伝えることができないもどかしさに、さらにフラストレーションがたまっていました。行き場のない怒りは、殴られてボロボロになってしまったわたしの部屋の襖に向かいました。もしくは夜遅く、自転車に飛び乗って、京都の川沿いをひたすらに北上して、山奥まで行くことで発散されていました。
母の国の言葉で “stupid” と言われたことが何度もあります。そのたび、わたしはその言葉のインパクトに、とても深く傷ついていました。
そのことを、ケンカが落ち着いたあとに母に伝えても、母は「わたしの国の言葉で “stupid” は、そんなけなすような酷い意味はない。軽いノリで使える言葉なの。なんであなたはなんでもかんでも、そんなに悲観的にとらえて、わたしをモンスターのように仕立て上げるの?」と。
もしかしすると、関西人が仲の良い友達同士で使う「あんた、アホやな〜」くらいのノリの言葉なのかもしれません。でも、そんなこと、わたしにはわかりません。だって、わたしの母語は日本語で、わたしはどこまでいっても日本人なのだから。
日本と西欧では、コミュニケーションスタイルもまったく異なります。
お国柄といえばいいのでしょうか。
母の母国では、「100%自分が悪い」という場合でしか、謝罪するということをしない傾向にあるようです。
自分にその意思がなかったとしても、意図せず自分の言動で相手の気持ちを傷つけてしまったのなら、そのことに対して謝る。それが普通だと認識する傾向にある日本という文化の中で育ったわたしにとって、母のその「めったなことでは謝罪をしない」という姿勢は理解できないものでした。
母に言われていた “stupid” という言葉についても同様です。
「その言葉を言われると、わたしはとても否定されている気持ちになって、悲しくなる。だから、怒ってしまったの。でも、その言葉はイヤだから、そこは謝ってほしい」と言うと母は、
「あなたを貶す目的で言ったわけじゃないし、わたしの国では、その言葉は別にそんな悪口的な意味はない。それを勝手にねじれた解釈をして傷ついたのは、あなたの問題でしょう?私はそんな意味で言ったわけじゃないんだから」と。
わたしには理解できないのです。
「そっか。そういう意図で言ったわけじゃなかったし、そんなに傷つくとは思ってなかった。でも、傷つけてしまったのなら、ごめんね?この言葉にはそういう傷つけるような意味はないの。でも、あなたがこの言葉を言われてイヤなんだったら、ママはもう使わないようにするね?イヤな気持ちにしてごめんね。ちゃんと伝えてくれてありがとう」
もし、わたしの子どもが当時のわたしと同じことを言ってきたら。わたしはきっと、こんな風に返事をするでしょう。そこに別になんの躊躇もありません。負けたとも思いません。だって、「気持ち」は、別に勝ち負けではありませんもの。
母とのあいだに、文化や言語の壁があるということ。わたしたちのケンカや衝突の多くは、まさに異文化コミュニケーションで起こる衝突であるということを、18歳くらいからはっきりと自覚しはじめました。
「わたしは日本人の価値観をもっている。だから、ママの価値観のすべてを理解して受け入れることはできないよ。だって、わたしは日本の社会で生きているんだから」
何度もそうやって母に伝えました。
それは、母にとっては裏切り行為でした。
どこで育てようと、「わたしが育てているんだから、わたしと同じ価値観や文化を共有できて当然だろう」という思いがあったのでしょうか。
もしかしたら、多くの人はそのように無意識で思うのかもしれません。しかし、わたしは自分の体験、そして文化人類学を深く学んできたからこそ、個人における文化やアイデンティティの確立は、そんな簡単でシンプルなものではないことを知っています。
日本という社会の中に育ちながら、日本人にはなりきれない。日本人であることは、母を裏切る行為となる。しかし、外国人であるということは、日本という社会に受け入れてもらえないということになる。
どちらに転んでも、わたしの居場所はありませんでした。10代の頃、わたしは深刻なアイデンティティの揺らぎに悩んでいました。
自分がどこに所属しているのか、どこに分類されるのか、どこを足場として立てばいいのかわからなかったのです。
「まるで、宇宙の真ん中で、ぽっかりと浮いてる植物のような感じなの。どこにも根っこを張る場所がなくて、ただぷかぷかとなにもない空間の中に浮かんでいる。その浮遊感が、とても怖いの」
そんな風に、高校生のころ、親友たちに話していました。「理解してあげられなくてごめん。でも、ここにいるからね。ちゃんとあなたの居場所はココにあるから」と、何度でも手を握ってくれた親友たち。
その頃から、母はわたしの唯一の心の拠り所ではなくなりました。わたしには「外」の世界にも、信頼できる心の拠り所ができたのです。
しかし、母にとってそれは、彼女自身の唯一の心の拠り所を失ってしまうかもしれないことを意味していました。
「あなたがいるから、わたしは生きていける。あなたがいるから、わたしは頑張れる。あなたが、わたしの生きる希望で、わたしの生きるたったひたつの理由よ」
そんな風に、いつもわたしに愛を伝えていた母。
高校生になって、自立しはじめる年頃で、わたしら「わたしがいなくなったら、母は自殺してしまうんじゃないだろうか?」と思いはじめるようになりました。
身体的な不調の苦しさから、「生きてるのがつらい」「もういっそ、死んでしまって楽になりたい」「もう頑張るのもつかれた」と、何度も言っていた母でしたから。
時系列が少し前後しますが、わたしが小学校中学年くらいの頃に、母に「一緒に死のうか」と言われたことがあります。
母は、玄関のところにある段差に座っていました。
わたしは、家の目の前にある小さなお庭に立っていました。
玄関の中は、影になっていて薄暗くて。
庭には、春のあたたかな陽射しがやわらぐ降り注いでしました。
母は、わたしの言葉を待ちました。
わたしはゆっくりと、まわりを見渡しました。
世界はキラキラと輝いていました。やさしくて、あたたかな光に満ちていました。
つらいことしかない、怖い場所が、この社会というところ。どうして、こんな苦しい思いやつらい思い、怖い思いをしながらも生きていかないといけないの?生きながらえる努力をしないといけないの?
そんな風に、何度も思っていました。
でも、その日。その瞬間、「社会」ではなく「世界」はとても美しく、やさしく、やわらかかったのです。
目の前を、ひらりと蝶が飛んでいきました。その羽の羽ばたきもスローモーションに見えました。羽からも、キラキラと光の粒子が飛び散るのが見えました。
美しかったのです。
あまりにも。どこまでも。
「わたしは、死にたくない」
そう、声に出して母に伝えました。
この美しい世界の中に、いたいと思ったのです。光の中に。母が座っている冷たくてかたい、影の世界の中ではなく。
母は、なんと返事をしたでしょうか?もしかしたら、少し泣いたのかもしれません。
数年後、この話をしたら、母はそんなことは起こっていないと言いました。「それはあなたの妄想に過ぎない。わたしが、そんなことを言うわけがない」と。
とにもかくにも。
母にあまり強く言ってしまったら、この人の心は耐えきれなくなって死んでしまうかもしれない。そうしたら、わたしは唯一の肉親を亡くしてしまう。まだ未成年で生きる術もないのに、そんなことになったら、人生が詰む。そうなったら困る。
そんな風に考えるようになりました。もう子どもではないけれど、大人でもない、高校生くらいのころの話です。
だから、母の弱さを許せなかった。フラフラと、いつまでも弱く、もろい母を、信頼できなかった。責任をもつなら、最後まで責任を貫けよ、と思った。不安にさせるなよ。心配させるなよ。弱みや苦しみを、吐き出して、さらけ出す相手は、子どもじゃないだろう?
「バイトをしたい」と言いました。
「そんなのする必要ないよ。お金が必要なら言ってくれたらあげるから。あなたは勉強に集中して。そしていい大学に入って」
「でも、ママいつも『しんどい』『もう無理』って言ってるじゃん」
「大丈夫よ。倒れちゃったら、そのとき考えたらいい。そうなったら、そのときはあなたに頼らせてもらうわ。でも、それまではママ、まだ頑張るから。だから、あなたは心配しなくていい。勉強に集中しなさい」
と思っていました。でも、そういうときだけ母親になる母は、「あなたは子どもだから、そんなことを考えなくてもいい」と繰り返すだけです。
当時は親の許可がなければ、アルバイトをすることはできなかったので、諦めるしかありませんでした。
大学入学前、ひとり暮らしをしたいと言いました。シェアハウスに住んでいた先輩が県外に引っ越すことになり、あいたその部屋を私が使っていいということになったのです。
シェアハウスの人たちとも既に仲良かったし、家賃もとても安くすむものでした。
母は、一度は許可しました。
しかし、それから数週間後、シェアハウスへの引越し手続きなどについて話だしたわたしに、烈火の如く怒りだしました。
「あなたに一人暮らしなんて無理に決まってるでしょう!自分のことができるようになってから言いなさい!家のこともなにもできないくせに!」
いつまでも実家にいたら、それこそ自立ができない。だから一人暮らしがしたいの。家賃も自分で稼ぐから。
そういうわたしに、母は首を縦には振りませんでした。「あなたには無理」「大学では勉強に集中して」の一点張りでした。
それでも食い下がるわたしに母は、「そんなに言うなら今までにあなたにかけてきたお金を全部返して。話はそれか」と言い放った。
そして「わたしはどうなるの?」と。
・・・
自分の思考整理のために書き綴ってみました。あまりにも長くなりました。
まだまだ書ききれていませんが、さすがにこれ以上長くなるとしんどいので、また別のタイミングで続編として記事にしたいと思います。
一旦、今日はここまで。
わたしの思考整理と棚卸し目的の長文を、最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
今日も今日とて、笑顔で。
笑えない日があったとしたら、空だって泣いちゃう日もあるからと、そんな自分も抱きしめて。
たくさんの愛をこめて。
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