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生きていることが、奇跡であり、祝福である世界で

『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』という本を読み終わりました。
涙なくしては読めない本でした。

今日は、この本を読んで思ったことを、つらつらと文章にしたためていきたいと思います。

初めて会ったはずの君に
僕はどうしようもなく惹かれた
中2の涼は転校先の学校で、どこか大人びた同級生・百合と出会う。初めて会うのになぜか懐かしく、ずっと前から知っていたような不思議な感覚。まっすぐで凛とした百合に涼はどんどん惹かれていく。しかし告白を決意した矢先、百合から聞かされたのは、75年前の戦時中にまつわる驚くべき話で――百合の悲しすぎる過去の恋物語だった。好きな人に、忘れられない過去の恋があったら、それでも思いを貫けますか?愛することの意味を教えてくれる感動作。

Amazonのあらすじから引用


この本は、主人公の男の子、涼が「恋した人には、愛する人がいました」というキャッチコピーに惹かれて、映画館に映画を観にいくんだけれど、つらすぎて最後まで観ることができずに映画館を出てしまう…という場面からはじまります。

この時点で、わたしはもう、胸が苦しくてたまりませんでした。


「恋した人には、愛する人がいました」

この体験をしたことがある人は、どれくらいいるのでしょうか?
もしかすると、歳を重ねていけばいくほど、ありきたりな経験なのかもしれません。

わたしは、「恋をした人には、愛する人がいました」というキャッチコピーの「恋をした人」側であったこともあるし、「愛する人がいました」と語っている側のこともありました。

高校生のころに出会い、大学生に至るまでの5年間のなかで何度もつきあっては別れてをくり返した人がいました。自分たち自身も、そしてまわりも「この二人は絶対に結婚する。そういう運命だって、見ていてわかる」と確信をもっていました。

それでも、なんどもくり返してしまった別れ。
ただただ、出会った時期がはやすぎたのだと思います。お互いに、あまりにも若く、幼すぎた。今では、お互いに、あのころのこと、そしてお互いのことを、そう思っています。

「きっと俺たちは、前世からのとても深い縁だったけれど、今世では親友としての距離感でいることを、選んできたんだね」って。


「もうこれ以上、くり返すことはやめよう」と、言葉にして交わすことはなくとも、ふたりで決意をしてから数年間、その人はわたしが誰かと付き合うたびに、わたしの夢のなかに必ずあらわれるようになりました。

「もう、この人以上に好きになる人なんて、あらわれないんじゃないだろうか?」
「もういっそ、他の誰かを好きになることは諦めて、この人だけを胸に、一生を生きると決めた方が楽になるんじゃないだろうか?」

10年以上もの歳月。
16歳の春に出会ってからの、長い、ながい年月。


その当時のわたしは、「恋をした人には、愛する人がいました」の「恋をした人」側でした。当時、わたしとお付き合いをしてくれた人たちには、つらい思いややるせない思いをさせてしまったんだろうな…。

主人公の涼の心境を読みながら、そんなことを思いました。

同時にわたしは、「好きになった人には、ほかに大切でかけがえのない、忘れられない人がいる」という経験も、何度もしてきたことがあります。

だから、まあ、おあいこなのかな?なんて都合のいいことを思ってみたり…


人の気持ちとは、どうしてこんなにも、ままならないのでしょう?

「好き」や「愛」という気持ちには、優劣も順位もなくて。どちらが上とか下とかも、本来は存在していなくて。

でも、恋愛になってしまうと、途端に優劣や順位を求めたくなってしまう。そのなかで「わたしが一番」という確信がほしくなってしまう。
そんなわたしは、まだまだ、恋愛というものを前にすると、こころが幼くなってしまうのかもしれません。


人生の半分以上を連れそった奥さんが亡くなってしまった後、また好きな人ができて、お付き合いをはじめた、おじいちゃん。相手の女性も、何十年も連れそった旦那様を亡くされた後のことでした。

「お互いにね、一番は、やっぱり亡くなった妻であり、旦那さんなんだよ。そこは、揺らがない。でも、お互いにそうだから、お互いに理解しあえるし、寄り添うあうことができる。素敵なご縁をもらって、しあわせだよ」

そう言って、嬉しそうに笑っていた顔を、今でも思い出します。
その境地にわたしがたどり着くには、後どれくらいの時間がかかるんだろう…

なんだかんだ、まだまだ若いんだなぁ、わたしも。
なんてことを思いました。

愛されてくて。
愛されている確信がほしくて。
誰かにとっての唯一不動の一番でありたくて。
すこしでもそれが揺るがされると、途端に不安になって。
つなぎとめようと頑張ってしまったり。
そもそも「好き」ってなんなんだろう?なんてことに、年甲斐もなく頭を悩まされてしまったり。

そういうのも全部、この時代に生まれてきて、平和と、当たり前にある祝福を享受しているからこそ、感じられることなんだよなぁ。


そんなことを深く気づかせてくれて、そして考えさせてくれるのが、『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』のお話でした。

物語が進むうちに、涼は、彼が好きになった女の子がこころから愛していた人の生まれ変わりであるということに気づきます。

「恋した人には、愛する人がいました。それは前世の俺でした」ということです。カオスです。プチパニックです。

主人公もプチパニックに陥ります。
彼女が好きなのは、前世の記憶のないまま、こうして今この現代に生きている涼としての「俺」なのか?それとも、俺のなかに、前世で愛した「俺の生まれ変わり」を見ていて、俺をとおして「彼」のことを愛しているだけなんじゃないのか?

読んでいる側としても、カオスな展開です。プチパニックです。
でも不思議と、とてもとても、この気持ちがわかってしまうのは、なぜなのでしょうか?


物語は、「戦争」と「特攻隊」、そして「いのち」という裏テーマを色濃くうつしだしながら、進んでいきます。

「わたし」という存在も、もしかしたら前世、戦争を経験し、志半ばで生命を燃やしつくした誰かの生まれ変わりなのかもしれない。
自分の中にある思慕の念を伝えることすら、ゆるされなかった時代。それどころではなかった時代。
夢をみて、夢を叶えることなんて、考える余裕すらなかった時代。
愛する人が、明日には自ら帰ってくることのない飛行機に乗って、あの空と海の向こうへと消えていってしまうかもしれなかった時代。それが、当たり前のように、日常のとなりにあった時代。

それは、ほんの、たった、75年前の出来事。
わたしのおじいちゃんと、おばあちゃんの年代の話なのです。

そして、この時代に生きているわたしたちは、全員が、当時、未来のわたしたちのしあわせと平和を心から願い、散っていった、たくさんの生命たちの流れの一番先頭を、走らせてもらっている・・・・・・


今の時代に、縁があって一緒にいることができている、自分にとっての大切な人たち。そのすべてが、前世では報われることなく、思いや願いや夢を、伝えあい、叶えることができないままに、生命を落としていった人たちの生まれ変わりなのかもしれない。

そんな壮大なドラマに思いを馳せていくと、わたしたちが、ただこうして生きているだけで、それはとんでもない奇跡で、そして祝福なのかもしれないと思います。

この「人生」という名の生命のつらなりの中で、迷うことや悩むこと。それすら、きっと、わたしたちに「幸せと平和」を願って散っていった人たちにとっては、願うことすらできない、とても大きな「しあわせ」であったのかもしれません。

今、平和な日常を送れているということ。
今日、死んでしまうかもしれない。いつ大切な人の命が消えてしまうのかわからない。
そんな恐怖や不安を抱えることなく、「今日」がこの先もずっと変わることなく何年もつづいていくんだろう。そんなふうに、自然と思えてしまう時代に生きていること。その中で、将来のことを考えて思い悩むこと。

そのすべてが、とても愛おしく、貴重で、そして恵まれた、ゆたかな祝福であり、奇跡なのかもしれません。


今日も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

愛を込めて
ねう


うつや不安症・パニック障害で一番苦しかったときに実践し、うつやパニック障害を克服した具体的な方法をまとめた記事を執筆しました。生きづらさを抱えている方は、ぜひ読んでみてください。

過去、特に反響の大きかった記事たちはこちらです👇


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