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Vol.006 「自分」との渉り合い(3)〜ひよこクラブの基本精神《4 ベテランにはできないことをやれ 》 について〜

《教員にとって大切な仕事って何だ?》

 数年前「泥仕事、汚れ仕事こそ、ちゃんとやんなきゃだよ」と、ある中年中期先生が後輩の中年前期先生に話していたことも、最近よく想い出します。

 みなさんの学校には、生徒とすれ違うとき、バカみたいにとにかく自分から生徒に挨拶しながら歩いている先生がいらっしゃいませんか? 毎朝「労働時間外」に2階や4階フロアに立って挨拶しまくっている先生方がいらっしゃいませんか? ちょっと周りを見回すと、いろんな先生が人知れず「仏さまの指」をしているのではないでしょうか。

 教壇を自己顕示の場にしない、指導を恩着せの場にしない。
 承認欲求の強い人や、自分に自信を持てない人が教員になると、囲い込みや功名心に駆られたスタンドプレーに走ったり、生徒の前だけで先生然としようとしたり、ただの親切なお兄さんお姉さんになったり、目立つ生徒にだけ力を注ぎがちになったりします。
 要するにおそらくはメサイアコンプレクスの顕われなんだろうと思いますが、自己顕示や自己の存在証明を仕事に求めるようになるわけです。いっそのこと一度心の底から「身を要なきものに思ひなして」しまえばいいのにね、と思います。

 生徒の前で先生然とすることはもちろん大切ですが、そうじゃないところでの、「巡り巡って生徒に生きる(かもしれないかもしれないかもしれない)指導の実践」も大切ですよね。教員の資質って、本当は、そういうところにこそあると思います。

 過渡期の教育業界では、変化の部分だけが話題になるので、そういう地味なところやオールドなんだけど普遍的なこと、そして不変的なことを教員間で伝えあう機会はほぼなくなったように思います。
 高大接続や新テストなどの一連の教育改革、働き方改革、部活動縮小、ICT教育やPBL型授業をはじめとした21世紀型教育へのシフトチェンジ、そしてコロナ禍における教育活動、、、どの教員も、変化への対応と既得権益を守ることで手一杯、朝から晩まで必死です。
 正解も、明確でわかりやすい解説も示されないなか、あるいは、かけたハシゴをはずされるかもしれない不安のなか、権利を主張する人や、ヒステリックに自分の正当性を叫ぶ人、ひたすら文科省や「学校側」(という名の亡霊か、又はスーパーデラックスベリースペシャル婉曲表現か)に憤る人、生徒の出来なさを嘆く人、全て既読スルーしていく人、新しいものに妄信的に飛びつく人、古いものにしがみつく人など、さまざまです。けれどそういう中でもブレずに「泥仕事、汚れ仕事」あるいは「特に評価が得られない仕事」の部分を当たり前のようにしている先生方も大勢いらっしゃって、そういう姿を見かけるとなんだかホッとします。

 つまり、授業のスキルだとか、ハウツーだとか、これらはとても大切なことなんですけれども、そこに、精神性、スピリットみたいなものがないと教育ではない、と思います。お勉強して得られた知識があっても、「状況に対して恐れない気持ち」がなければ、教育にはならないのではないのではないのでは、、、ということです。精神論なんて大嫌いだったしいらないと思っていましたが、最近はあまりにも置き去りになっているようにも思われ、このままだと本当にAI教員が登場してきそうな気がして、とても恐いので書きました。

 精神性なき教育は教育に非ず、です。

 ちなみに、窓開け、早速翌朝から私も真似しました。それだけじゃ悔しかったので黒板もピカピカにすることを続けました。それは担任している間は欠かさず毎日続けました。生徒にさせるべきだったかな、と今は反省しています。アオキ先生を、追い越したかったんです。
 アオキ先生とは、私の書いた文章絡みでもとてもささやかな、しかし大切な想い出があります。

 それから十年ほど後、アオキ先生は40歳に届かぬうちに白血病で亡くなられました。

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