小説を書くということ
2022年02月24日の午後から開始されたあれについて、思うところをまとめます。
そもそも私は戦争なんてしては駄目だと思うのだけれど、それを声としてあげたり行動として現すことも苦手で。その理由がどこにあるかと言われれば、学生のころの経験があります。
といえばかっこいいけど、そんなに大層なものではなく。
当時からヲタクだった私は、はまっていたアニメ(機動戦士のアレです)の展開にあまりにも触発されて、「戦争ってやっぱり駄目ですよね。あなたはどう思いますか」という発言を古の個人サイトのブログに書いたんですね。
もちろん、見ている人なんていなかったのだけれど、当時の親友(今でも親友です)だけがそれを見てくれていて、「なんであんなこと書いたの」とちょっとからかい気味に言われたのがすごくショックで、あの時から表立って何かを言うのは怖いな、と感じるようになりました(その親友のこと、今でもソウルメイトなみの親友と思ってるので、その点は誤解なきよう)。
一方で、同じようなことを小説のキャラクターが発言すれば、それはエンタメとして楽しんでもらえる。
だからこそ、今でも続けている趣味の小説では、「自分が言いたいけど言えないこと」を少しずついれて書くようにしています。
人によっては説教臭いと思われるかもだし、そもそも力量不足でそこまで伝わっていないかもしれないけど、これが私なりの処世術なのです。
たとえば、国を真に富ませるのは勉学であるということも。
たとえば、誰かを愛するというのはどうしようもなく身勝手であるということも。
たとえば、世間からは否定されたとしても、当人にとっては幸せな選択というものがあることも。
その時その時の、現実世界の空気のなかで感じたことを、ちょっとずつ入れ込んで書いてきました。
さて、そんな中での、本日午後のあれです。
正直、「なんかもう、無力だなあ」とずっと感じています。
戦いが始まってしまえば止めようがないし、流れてくる情報の正しさなんて分かるはずがないし、さりとて行動を起こすほどの勇気もないし、そんな自分を見せつけられるのが嫌だから、あまりニュースも見たくない。
でもやっぱり、何もしないのもすごく嫌だな、と思う。
それで、やっぱり沢山考えたんですけど、小説を書き続けたいな、と思いました。
それはなにも、「私が出来るのはそれしかない」とか「現実から逃げたい」とかいうネガティブな理由ではないです。
戦うための道具として、小説を書き続けたいなと思う。
私には行動する勇気がないけれど、私の小説をいつかの誰かが読んで、「戦争ってやっぱり駄目だ」と感じてくれるかもしれない。そうして行動を起こしてくれるかもしれない。
民主主義も芸術も、暴力には本当に弱いけれど、「私」の頼りない願いを細く続く糸のように繋いでいける(そうして、どこかの誰かの背中を押してくれる)という強さだけは、なにものにも負けないんじゃないかな、と思います。
日本人は日和見主義というか、優しすぎるというか、他人事というか、まぁそういうところがあると思うし、実際私も、自分が例に漏れずそうである自覚があるのです。
でも一方で、ヲタクの私から言わせれば、実はアニメとか漫画とか小説とか、とにかくそういう娯楽やエンタメを通じて、「やっぱり戦うのは駄目だよな」と感じられる素地がある点は、日本のいいところだと思う。
きっかけはなんでもいいんですよ。きっとね。でも、高尚な学術誌や堅苦しいおえらいさんの話では心が動かなくても、エンタメではキャラクターの行動の追体験として、何かを感じることができる。
なにも戦争物のアニメを見ろということではなくて、たとえば青春アニメを見て、「こんな青春がなくなっちゃうのは嫌だなあ」と感じるのが出発点でもいいと思います。
むしろ高尚さからはどんどん遠ざかって、見た目はもう本当に面白いだけのファンタジーで面白いストーリーで。
でも肝心な、たった一つの大切なメッセージだけは忘れないで込めた作品に触れたいし、素人ではあるけれど、そういう作品を書いて、意思を繋げていきたいな、と思う。
だからこれは、弱い私の静かな宣戦布告なのです。
間接的にでも、婉曲的にでも、なにかを書くということが。
もしかすると恥ずかしくなってこの記事を消してしまうかもしれないし、ここ以外ではもう普段どおりの私でいると思うのですけれど、こう感じたという事実だけは確かにあるということだけ、最後の締めの言葉として残しておきます。
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