積み重ねの効果と熟思or思案の観察①

注意

 これはデータではなく私個人の感覚と体験、仮説や過程からなるもの。つまりは主観です。また、頭の整理というよりは記憶からの忘却を目的とし、同時に「人は理解し得なくても感覚として刻まれる」という個人的思想の体現と観察、追及をするための記録、実験。

道可道、非常道 名可名、非常名

 道と書いて「TAO」と読むが、老子と呼ばれる中国の哲学者の言葉。この「道可道、非常道」をさまざまな訳(捉え方)がある中、「道(TAO)の語られ得るものは絶対の道ではない」と表現した方がいる。この表現が私にはしっくりきて、今(2024/2/19)時点では私の思想の礎となっている。

1万時間の法則

 その真偽ばかりが問われているが重要なのはそこではなく、着目すべきは少なくとも一流(卓越した技術の修得をした人)と呼ばれている人たちや国際的に活躍する力があるとされる人たちの累計練習時間が20歳時点で「1万時間」に達しているということ。

ここが勘違いをしやすいところであり、「A=B」だから「B=A」と発想してしまうとおかしなことになる。あくまでも卓越した技術の修得をした人たち(またはその力を持っている人たち)の累計練習時間が1万時間だったに過ぎない。

※1
・Aの調査結果がBであっても「A⇒B(○)」
・Bの調査結果がAになるとは限らない「B⇒A(×)」

※2
A=卓越した技術の修得をした人
B=累計練習時間が1万時間

日本の義務教育

 そもそもこのようなことは日本にとって身近なこと。1日1時間、何かをして1カ月で30時間。1年で365時間。1万時間は気の遠くなるように思えるが実際はそうではない。小学校を例に1コマ(時限)45分と仮定。仮に1日5コマなら週5日として25コマあることになる。それだけで18時間45分。また休み等をふまえ年間200日の登校としたら1年で750時間となる。

これを6年間続け、プラス授業数が増えることを前提とすると「4500時間+α」。これに中学校(1コマ50分)を追加。1日6コマと仮定して1日5時間。週で25時間。年間200日で1000時間となり、中学校も学年ごとに授業数が増えることを前提とすればさらに+α。

義務教育9年間の累計時間は「約7500時間+α」となる。これは上記1万時間の法則にて聴き取り調査時、18歳時点までの累計練習時間が「約7400時間」とされているため、同等且つ年齢が15歳時点という意味ではこれを上回っている。

また、仮に1万時間の法則を当てはめるなら、高等学校の教育を含めればよい。18歳の時点で日本国民のほとんどが「学校での学習」ということにおいて卓越した技術の修得をした人と言っても過言ではない。

情報(科学)と実態と意味

 実際は科目分けがあるため、1週間のうち触れられる教科は限られる。週1なら45分(50分)。およそ30時間(33時間)。それでも義務教育期間に当てはめれば、小学校6年間で約180時間。中学校3年間で約99時間。合わせれば約279時間。これはあくまでも週1なので週2なら2倍、週3なら3倍、ともすればおおよその時間は求められる。

では何故、同じ時間を費やしているのに差があるのか?

 1万時間の法則とはよく言ったもので、日本からすれば分かりきったこと。同じ学校、同じ教育、同じ内容を得ているはずなのに、時間だけなら同等なはずなのに、差がある。もしくは差が生まれることは研究や科学でなくても身近な体験。

もっと言えば仕事も分かりやすい。1日8時間労働で考えれば週で40時間。年120日が休みの場合1960時間。年100日休みなら2120時間。5年間努めればおよそ1万時間。それなのに自身やまわりを見れば実際はどうなのか、感じるものがあるだろう。

訓練と練習

 日本語は面白いものでちゃんと区別している。

訓練:技術などを身につけさせること
練習:技術などを身につけること

些細であっても大きな違い。これこそが「質」と呼ばれるものを表すのではないかと私は考えている。もちろんどちらが優れているなどの話ではなく、どっちも状況に応じて適宜変化する。

 私個人の考えだが、訓練は「反射」、練習は「意識」によるところが大きいように思う。学校などは主に訓練の割合が高く、「学ばせる」「通わせる」「守らせる(従わせる)」など頭(知)というよりは身体に教え込ませるものが多いように感じる。それは無意識に叩き込ませるものであり、別の言い方をすれば習慣ともとれる。

これは個人差はあれどある意味、平等とも捉えることができる。

練習の場合、本人(個)による意識の割合が高く、させられるではなく「する」ということ。仮に訓練であっても本人にとっては練習であり、反射だけでなく意識も同時に身につきやすくなるため、無意識ではなく意識的に何かを行う自発に結びつきやすい。

これは本人による感覚が大きく、資質とも捉えることができる。

本題

 上記をふまえ、技術の習得や日常における生活時間の割合など幼少から大人まで含めたとき、この時間の使い方(触れ方)が今(現状)の自分を構築しているのだとしたら、それは表だけでなく裏にも作用する(している)のではないかというのが発端であり本題である。

それらについての主観実験(現継続2024/2/19)とその過程、仮説等々を予定していたが、前置きが長くなったので後日に。