性衝動と無限性~ルギアの太腿から出発して~


性的さの本質を再考する

 美少女の文化に関わっていると、「“性的である”とはどういうことか」ということを再考せずにはいられない。性表現としての側面が美少女表象の文化全体を支えていることは無視できないし、美少女という言葉の定義も「性的」という言葉の定義もどうやら時と共に拡張していくように見えるからだ。

「“性的である”とはどういうことか」という議論の例として、例えば美少女がどこまで服を脱げば性的かという話は分かりやすい。しかし、諸君、次のような例はどうだろうか。


 このような、連想によって生殖と結びつけることの難しい表現が、それでも性的絶頂に至るような快楽の呼び水として機能することができるのはなぜか。この疑問に対して私は、様々なフェティシズムに共通する要素を抽出することで答えようとしてきた。そのためにはフェティシズムを細かい構成要素に分解しなければならないが、その分解をするにあたって、人間の性別や生殖にまつわる概念はもはや用をなさない。

 キャラ造形やシチュエーションを虚心坦懐に見て、何が興奮を引き起こしているのかを自分に問い、仮説を立て、次の表現を見る際に仮説を検証する。私はそれを、美少女表現の自由な市場を守るという実益のために、そしてそれ以上に知的快楽のために、続けている。

 この記事では性的さについての私の考えの変遷を、時系列順に大きく三つに分けて述べる。結局はその説明の仕方が理解の助けになるだろうと考えるものだ。私は性的さをまず「圧迫と不連続」の点から考え、次に「不快の快」として捉え、そして現在では「無限性」として特徴付けている。

圧迫と不連続(~2018)

 ルギアの頃には、私はサイズフェチを切り口としてフェティシズムを分析していた。従ってフェティシズムを語る語彙も、自ずとサイズフェチに寄ったものになる。

 性衝動と呼ばれているものの根源が「性」だと考える限り、分析から零れ落ちるものが多くあると思う。町を踏み潰すのが美少女であるだけまだ親切だが、これが怪獣であっても墜落するラピュタであっても本質は変わらない。「圧迫」と「破砕」とはヒトの原風景だ。

 ルギアの妄想で自慰をした話において、筆者は「太腿」というありふれたオカズを、「白色性」「受容性」「暴力性」という要素へと分解・再構築し、それらの要素を満たすものとして大福やパンダも使ってみている。欲望を分析するとはこういうことであり、私はをこのような作業を万人にやってもらいたいと思っているのだ。

 世に広く知られているエロのジャンルは、皆「分解能」が低い。それらは、より根源的な欲求の組み合わせなのだ。旅行保険のプランが死亡や疾病治療の組み合わせであるようにだ。自分が何の欲求を刺激されて興奮を覚えているのか分かれば、もはやルギアか大福かは大した問題ではない。

 もちろん、「異性の身体」というジャンルも、全く同様に分解できる。男性が女性に抱く欲望なら、「受容性」は簡単に分かるが、もしかすると「暴力性」の方は男性自身によって担われているかもしれない。そうなら、これは異性の身体への欲望に見えて、実はシチュエーションへの欲望でもあるのだ。

 そのように考えれば、「ルギアの太腿に押し付けられる妄想で抜く」は、「ラティアスの陰茎を愛撫する妄想で抜く」よりも分解と再構築の進んだ状態のように私には見えるが、比較すべきものでもない。ラティアスとルギアの肌の質感は似ているが、ラティアスは背負っている文脈が特殊だからだ……。


 射精や性交は、この「根源的な欲求」の階層には属していない。射精は結果に過ぎず、性交は旅行保険プランに過ぎない。「物が圧迫される」「限界を攻める」ことの方が、性交よりも遥かに性衝動の根源に近い所に位置する。性行為への欲望は、性衝動の風船が成長と共に膨らまされ、ディテールが均され、さらに社会通念という鋳型にはめられて整形されたものに過ぎない。

 根源的な欲求の階層に含まれるのは、まさしく「受容性」や「暴力性」だ。人はそれらに刺激されて性感を得る。暴力性が含まれることに気付いたところがルギアの記事の筆者の慧眼と言えよう。性衝動にとって、相手が人間であるか人外であるか、生殖を伴うか伴わないかなどというのはどうでもよいことなのだ。全く別の機構だった性衝動と生殖が、進化の過程でたまたま協働するようになったのではないかとすら思う。

「白色性」「受容性」「暴力性」を満たすものの例としては――私は「白色性」は「球体性」のことではないかと思うのだが――漫画『うしおととら』でとらが飛行機を持ち上げる場面、あれが非常に性的だと思うのは私だけだろうか? これは、欲望の分解と再構築を経てみれば、ルギアの太腿と地続きではないか?

 また、私がかつて聞いた話に「ビデオテープがトラックに轢かれるところを想像して抜く男」というものがある。これも同じではないか? トラックの車体の白と滑らかさ、タイヤのゴムまたは可動部であることから連想される受容性、車体の重量とビデオのカセットの硬さから連想される暴力性……

 同じ要素を持つものでも、それらの配分には無限の可能性があるのだし、最初に何のフェティシズムに出会うかによっても変わる。重要なのは、「ジャンル」をもっと突き詰めて分解することができると知ること。そして自分の欲求を真に知るために、想像力を駆使し、かつ欲望のサンプルを蒐集することだ。

 欲望を分析するとは、あらゆるフェティシズムについて「それが現実の異性への欲望とどう関係しているか」に還元して理解することではない。私が人々に望むのはその先、「では、現実の異性への欲望は何でできているのか」を探るということなのだ。


不快の快(2019~)

 サイズフェチ的思考と並行して、私は快と不快・サディズムとマゾヒズムが表裏一体であることについても考えていた。何となれば、対立物の結合こそは近代西洋魔術の基本思想であり、錬金術の根本原理だからである。

 性行為がそれ自体暴力であるかどうかは当事者が決めることだとしても、性衝動は即ち暴力衝動であり、自分と自分を生かしている世界とを木端微塵にすることを究極の目的とする。現実の他者への暴力は、それが屈折して外界へ投影されたものに過ぎない。従って私はグロとエロを同根のものとみなすし、死こそが最も純粋なエロであると考える。これは論証によって導かれた結論ではなく、私自身が自分の中で起こる情動を観察した結果だ。

 性の対象という言葉を、「それを想像するとオーガズムを促すもの」と定義すれば、その広がりと深さの一端が理解される。このような性の対象を広く捉えれば、そこに共通しているのは女体や生殖などではない。自分の肉体と精神、大切なものを汚し破壊する、死のカタルシス。

 これを念頭に置けば、特殊性癖の筆頭とされるドラゴンカーセックスが、実は非常に自然で純粋な性衝動の形であることが分かる。ドラゴンもカーも、恐らくは破壊の力の大きさと人間が介入する余地のなさを追い求めた結果行き着いたものだ。むしろ何故セックスがくっついているのかの方が疑問だが、それをくっつけることでようやく人はドラゴンとカーの組み合わせが性的であることに気付ける、という一種のマーカーだろう。


無限性(2020~)

 フェティシズムを、一方では大きなものに身を委ねる快楽と見、いま一方では不快が反転して快となったものと見ていたが、2020年頃になるとそれらの見方を統一する視座を探り始める。そうして出した結論が「無限」であり、2023年7月現在でもこの考えを維持している。

 ここで言う「無限」とは、「外部」と言い換えてもよいかもしれない。ポケモンに関する別の論考では、私はそれを「知覚のオーバーフロー」と呼んだ。つまり、自分の知覚が処理できる限界を何らかの意味で超えることを予感させる刺激が、性的興奮を引き起こすのではないかということだ。

 ここまで述べたように、性行為よりも遥かに抽象的なイメージが、人間の脳の中で性衝動と結びついていることがある。例えば、丸いこと。大きいこと。すべすべしていること。重いこと。それらを一言で包括する言葉、全ての性的興奮を共通して支配している概念は、「無限」ということになるのではないか。

時間的無限

 無限を想起させるものは、全て性的対象となりうる。逆に、あるものが性的対象となる時、人はそこに何らかの意味で無限の端緒を見出している。卑近な例として、骨盤底筋や前立腺の快楽は射精の快楽より先に発達するが、そのオーガズムは規則的な刺激が長時間続くことで起こると言われる。射精の快楽は、むしろ人間の性感の中では例外的とみるべきで、その本質は無限を堰き止めることによる衝撃(あるいは落差)にある。射精の直前までどのような想像をしていたかを丁寧に思い返してみれば、やはりそこには吸い込まれるような何らかの無限の片鱗があるのではないか?

 小学校の登り棒による性感の話はよく耳にするところだ。これも、登り棒が十分に長く、十分に滑らかであることに意味がある。同じ刺激が十分長い間続くことと、「十分長い間続くかもしれない」という心理的効果が、会陰への刺激を明確な快楽へと引き上げる。一方、例えばディルドにこれ見よがしの凹凸をつけたりすることに、果たしてどれほどの効果があるか? 「意外な刺激」などというものは、深い性感の誘発にはほとんど関係がないはずだ。知れた刺激が永遠に続くのではないかという恐怖の方が、よほどオーガズムの後押しとなる。

意味空間上の無限

 例えば、たまの楽曲の歌詞のわけの分からなさ(歌詞ではなく、わけの分からなさ具合自体)はどことなく性的ではないか?


循環の無限

(伊東ライフちゃんの描いた伊東ライフちゃんのエロ漫画を見ながら伊東ライフちゃんと性行為をするという内容のエロ漫画)

https://twitter.com/AratoAsato/status/1256855668096548864

 恐らくだが、三枚目がそのまま四枚目の中で漫画の一ページとして使われているところに本質があるのだろう。描かれたものと現実の光景を完全に同一視させ、入れ子構造を作る。伊東ライフちゃん自身がそのことを認識し、同一性を保っている。記号化されたキャラクターにならなければできないことだ。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』にあるところの「GOD=GOD Over Djinn」がここに垣間見えているわけだが、性表現はこのような循環性・再帰性を最もよく示す分野だ。自分の琴線を探りながら性的な想像をするとき、人はある解像度で自分自身と交わっていると言える。全ての人間の全ての自慰がそうだ。後は現実の伊東ライフ自身がこのような漫画を描いてくれれば、事は“完成”する、あるいは新たな始まりを迎えられるはずだ。

 ちなみに、漫画『放浪息子』の最高のシーンは三巻の夢精の場面であると私は言う。性衝動の原型とはああいうものであり、人はああいうもので射精する。加齢と慣れによって忘れてしまうだけだ。


空間的無限

(本しゃぶり「最高にエッチな画像が遺伝的アルゴリズムで生み出される様子を見て反省する日々」)

 この記事のポイントは、乳房が二つの丸だけで表現できる単純な形をしている、という記述だ。私はさらに踏み込んで、単純であることこそが性的さの条件なのだとさえ言いたい。形が単純であること(=丸)、色が単純であること(=大きな面積が一色で塗られていること)。そのような性質を持つものを見て人間の中に湧き上がるある感覚を、2018年から引き続いて、私は「性的」と呼んでいる。

 想像するに、光受容器を持つ多細胞生物の進化のある過程で、単純な形や大きな面積に反応してある感覚を返す神経機能が発生した。恐らくはそれは今で言うところの、扁桃体の司る恐怖の感覚に近い。その後で、下垂体が生殖のために便乗し、さらに下って、社会が再生産のために便乗した、とさえ思う。

 しかし、形が単純でのっぺりとした大きな面があるだけでは、人はそれに対してどう反応してよいのか途方に暮れ、あるいは忌避する。乳首あるいは生殖孔という「目印」がそこに加わることで、ようやく人は応答を返すための手掛かりを得る。「性衝動」の後に続く「性的行為」というものがここに発生する。生殖機能が性衝動に合流して最初にやったことが、恐らくは乳首や生殖孔を「そこ」に配置したことなのだろう。このような、始まりも終わりもない性感を湛えた捉えどころのない「面」を、クロウリーの魔術においてはヌイトと呼び、そこに記されてあらゆる動きの可能性をもたらす「点」をハディトと呼ぶ。


有限性の否定としての無限

 自慰を「自瀆」と呼び始めた者が深く考えてその名をつけたとは思えないが、この呼び方は性衝動に関する一つの重要な示唆を含んでいる。性感を得ることは、確かに己の輪郭を揺るがすこと。そしてそのような自己破壊は、人格陶冶にとって必ずしも悪ではない。自慰は小さなスクラップ&ビルドであると言える。

 蓮コラの重要な要素をなしている「物がげたところから何かが出てくる」という予感と、性衝動の手触りとは全く同じもののように思える。故に、一定割合の男児は小動物を殺して皮膚を裂いている最中に勃起をする。残酷で邪悪な行為は、常に何らかの秩序や境界への侵犯であるために、必ず性的興奮を伴う。

 特撮ヒーローのコスチュームに対するフェティシズムもこれと通じる。人体に貼り付いて伸縮する生地は、皮膚のディテールを消して輪郭を強調した上で、中身にかかる圧力とそれを押し返す肉の力を強く意識させ、しかも中身が全く見えないというもどかしさを伴って性衝動を刺激する。

 さらに一つ例を挙げれば、悪堕ちもまた「秩序の不連続な侵犯」という原理に支えられている。この原理はSMやメスガキにも通底しているものの、ロールプレイングの皮を被せず最も直球で核心を言い表したジャンル名が悪堕ちと言えるだろう。

まとめ

 以上のことを総合すれば、性的とされるものに広く共通する性質とはどうも「無限なるものに呑まれる感覚」ではないかという気が私にはするのだ。西洋占星術においても性衝動は蠍座の司るところで、蠍座は他者と溶融すること一般を象徴する。『新世紀エヴァンゲリオン』で執拗に描かれているのもこれだ。してみれば、大きなものに溶けるイメージと興奮とが結びついたものが性衝動と言えるだろう。

 ルギアの時に析出された白色性や受容性も、結局は暴力性の一種だと2023年7月現在の私は考えている。暴力には外界に向かう側面と欲望の主体自身に向かう側面とが常にあり、片方が発現する裏には必ずもう片方がある。よってサディズムは、「他者に暴力を振るうことで自分自身の立つ世界を毀損する」とも表現できる。

 そして、ここで暴力とは「許容限界を超えた入力をすること」と定義できないだろうか。白色性と受容性は、暴力性が欲望の主体自身に向かうマゾ日スティックな側面が表れているもので、それぞれ「視覚の空間方向に対する対自的暴力性」「触覚の空間方向に対する対自的暴力性」と呼べるかもしれない。「空間方向」に対置されるのは「時間方向」で、強い光を当てたり殴ったりするのが時間方向の暴力にあたる。主に傷や後遺症を伴う暴力が属し、いわば「取り返しのつかなさの興奮」を伴う。対して空間方向の暴力性は、不可逆性の代わりに不可分性(境界がなくなること)を問題にする。

 つまり、性衝動は全て暴力性であり、暴力性とはオーバーフロー性(無限性)であり、その上で個々の表れは「対自‐対他」「不可逆性‐不可分性」「五感+社会機能のそれぞれ」の軸で分類すべき(さらに下位の分類軸もあり得る)、というのが現時点での私の整理だ。


〈以上〉

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