twitterアーカイブ+:漫画『やがて君になる』感想:感情、身体性、百合

「アバッ!?アバッ!?アババババババーーーーーッ!!」暴力的な陽光が降り注ぐ砂漠都市、ネオアタカマ郊外の埃じみたオフィスで、ソーサツ・ホーシ=サンは激しく痙攣し、嘔吐した。両耳から立ち上る白煙を見れば、この者がニューロンを焼き切られていることは明らか。もはや助からぬ。

「……サヨナラ!」ソーサツ・ホーシは爆発四散した。超自然の力で手と一体化した電子カトゥーン端末のUNIX画面には、苦悩を暗示する極細ミンチョ体で、神秘的な「や」「が」「君」の文字が映し出されていた。

◆インシスレイヤー第二部「キョージュ・ヘル・オン・アース」より 【ブルーム・イントゥ・ユリ・アビス】◆

漫画6巻まで

『やがて君になる』を、読んだ。

 私は現在南米の砂漠におり、落ち着いて考察を書ける環境にないが、以下のことだけは述べておきたい……。

『やがて君になる』を読んだ。「女は理屈が通じない」という広く流布する言説に反して、これは理詰めで構築された百合であり、理詰めで構築された矛盾である。東大生協で売れているのもさもありなん。この作品は、「女の感情」の話でありながら、理詰めで解釈ができるのだ。

 それとも、「女の関係性」を物語として成立させようと思えば、須らくこうなるのだろうか。百合とは皆こうしたものなのだろうか。私には百合の教養がない。何故? 何故今までろくに読んでこなかったのか。男の欲望のことばかり考えてきたツケだ。帰国したら百合姫だ。

 全ての記述に意味があると信じて、言葉の裏を読み、象徴を繋げ、構造の反復を見出す。やが君はそのような思考を強いる。構造の反復といえば文学少女だが、あちらが社会と運命の残酷さを描くのに対して、やが君は個人の内面の葛藤を描く。「個人の内面の葛藤」! 何たる空疎で手垢にまみれた言葉!

 やが君は理詰めで解釈可能な百合だと言った。だが、そうして「解釈」――全ての記述を要約された言葉と論理的な図式とに落とし込む営為――を重ねた結果、「そんなものでは何もわからない」という解が、論理的帰結として厳然と、得られるのだ。圧倒的な「当事者性」、そして「現実界」への讃歌として。

 激しい言葉はない。誇張した表情はない。ただわざとらしさのない、それでいて必然として配置された「描写」の積み重ねが、真綿で首を絞めるように、蛙を茹でるように、読者の内に悲しさを萌させる。だが登場人物の心情を追体験することは決してできない。彼女たちの心は彼女たちだけのものだ。

 我々は、全てをただどうしようもなく見せられているだけの観客という、第三の登場人物になるのだ。そいつの心だけが、我々に分かる唯一のものだ。侑の心が、我々には最後の一線で分からない。記号的な理解で分かった気になる我々に、その最後の一線が存在するということを、やが君は突きつける。

 物語は「当事者であること」を主軸として進行するにもかかわらず、主人公たちの恋愛に対しては「当事者たり得ない人々」もまた、そこに確かに存在する。この意味で、作中に存在するだけで物語に対する強力な楔として機能するのが、槙ではなかろうか。無論、槙もまた我々ではないが。

 百合は……単に男女の恋愛の片方を女に置き換えただけのものではない。男女の恋愛では、常に性欲や「甲斐性」をはじめとした性役割分担が前提とされる。これらを果たせないことは障害となるが、逆にこれらを果たせば好感度が上がる、関係が進展するという一種の印籠としても機能する。

「個人と個人の間の違い」を問題にする前に、まず「男と女の違い」という問題を処理せざるを得ない。それを処理すれば、個人間の違いの問題にろくに踏み込むことなく、話を進めることができてしまう。異性として好きなら、個人としても好きであるかのように錯覚される。同性同士には、それがない。

 同性同士では、「好き」を簡潔に定義する言葉がない。これは、異性愛があまりにも長い間繁殖と強く結びつけられ、同時に繁殖を伴わない異性愛が排除されてきたためであろう。本来は異性愛でもそんな定義はありはしないのだが、主に市場の要請によって、「男女として」部分が強調されがちだ。

(ここで聖職者たる私は、異性であることに特段の重きを置かず、甲斐性のような概念を介在させることもなく、ただ異なる性向を持った個人同士の関係を描いた作品として『灼眼のシャナ』を挙げることをお許しいただきたい。吉田一美の「それでも、良かれと思うことを、自ら選ぶ」もやが君と通ずる。)

 同性間の関係には、市場的に分かりやすいチェックポイントがない、クライマックスがない。それで尺を取られもしない。故に、個別の関係性を一から丁寧に積み上げなければならない。当事者自身もそのことを理解している。だがその中でも、BLと百合には差異があるのではないか。

 私はBLに描かれる男性像をよく知らないため、迂闊に「男性は射精に象徴されるカタルシス思考から逃れられず~」のようなことを言うわけにはいかないが、一読者の心境として「美少女の気持ちは、尊重し、どこまでも丁寧に描くに値するが、男の気持ちはそうではない」とは言いたいと思う。

「バ美肉おじさんの百合」という概念が、何故バ美肉おじさんの出現を待つ必要があったのか。それは、やはり美少女の姿というものが持つ特権のためなのではないか。(適当な評価者にとって)気持ちを尊重されるに値する者同士の、任意の関係性。百合概念の拡張は、まずはそのような形になるだろうか。

 人類は身体の拡張として、様々な有形無形の道具を生み出してきた。腕の拡張は銃であり、脚の拡張は車であり、脳の拡張はコンピュータであった。然れば、今日における人類の「顔の拡張」と呼べるものが、美少女である……。

操刷「ああ、全てがやが君のようには行かないのですね(やや落胆しました)。日頃から「女の関係性」「クソデカい感情」というタームを目にはしていましたが、ようやく我が事として体得し始めています。」

操刷「「百合であるためにはこれこれの条件が必要である」という(言わば男性的な)見方を脱し、個別の関係性を丁寧に見ていくという姿勢(そうするために、百合という無色のラベルを貼る)だと、私は理解します。実存は本質に先立つ、といったところでしょうか。」

操刷「矛盾を抱えている状態から、自ら「これを女と呼び、百合と呼ぶ」と宣言することによって、少なくとも個別事例での解決は果たされる気がしますが、この問題を体系的に取り扱おうとすると少女位相百合空間論[1]が必要になる、というわけですね。慧眼お見それしました。」

操刷「ああ、混乱はしていません、意図は理解しています。落胆したと言ったのは、単にやが君の作風が特に私の好みであったので、百合姫を読んでも同種の作品をオーバードーズできるわけではないのかと思ったためです。」


 なるほど、やが君は「好き」の定義論争を解体し、エゴを抱いて何らかの態度を固め「関係に参画すること」全般のレイヤーへと「好き」の意味を降下させているものと私は読むが(特に四巻の最後によって)、そのような物語を論じるには「いま・ここの共在」に着目する演劇論の言葉が有用ということか。

舞台

 ゼロスペース・シアター。ネギトロめいて赤い大劇場の椅子に浅く腰掛け、ソーサツ・ホーシは深呼吸を繰り返す。前方には深海めいた舞台。ソーサツが座すのはその中央正面……特等席だ。

「グググ……自ら敵中に飛び込むとは愚かなりソーサツ……あれはシナガ・ニンジャクランのヤガキミ・ジツ……ヤガキミ界にアクセスしヤガキミを具現化、自我を焼く厄介なジツよ……」ニューロンの同居者がざわめく。

 ソーサツ・ホーシは呼吸を整え舞台を眺める。長い戦いとなろう。巨大感情で敗北。さりとて寝落ちもまた敗北。許されるのは直視のみだ。それによってこの一公演で128分を耐えきり、ニューロンに極度負荷を与えてオーバーフロー・リセットさせ、以て鑑賞体験とするしかない。

 インシスレイヤー第二部「キョージュ殺伐ラボ」より【ブルーム・イントゥ・ユリ・アビス】#3


「舞台 やがて君になる」を観てきた。5/11(土)、14:00-の公演である。事前の告知で見た写真から、キャストが三次元だから楽しめないという事態にはならないと思っていたが、その通りだった。三次元の人物が二次元を演じている、という感覚さえなかった。客席で、私は確かに堂島卓を見ていたのだ。

 キャストの容姿について言えば、全員かなりの高水準だが佐伯沙弥香が一番ヤバい、あれはもう原作そのものだよ。私はアニメと舞台の沙弥香の声にやや違和感があったが(沙弥香は実務家であるから、過剰にふわふわした印象を与える必要はない)、容姿の暴力で全てどうでもよくなった。

 演技については、堂島の怪演が印象に残る。一見何ということのないムードメーカーキャラをやっているように見えるのだが、その奥に隠れた真意、その態度を支える何かが垣間見えるような気になるのだ。原作でも見えない部分だが、あれは……何なのだろうな。上手く言語化できない。

 槙くんは、原作ではいかにも人畜無害な顔に設定されているが、侑に物を言う時の表情を見れば彼が食えない奴であることは一目瞭然であって、その食えなさの表現としてあのキャストはまさに適役だったと思う。結果、「人の恋って本当におもしろい」は、同じ口調だがアニメより舞台の方が説得力がある。

 都店長、これも演技の素晴らしかったキャラの一人。姉御肌の雰囲気が完璧に再現されており、箱崎先生の頬を突っついたりするちょっとした仕草も眼福よな。多くを語らずとも存在感がある。これは脚本の妙でもあるのだろう。箱崎先生がこよみを呼び出すシーンも同様に、キャラにリアリティを与えている。

 侑だが……所々で口調が激し過ぎるように思う。やが君に描かれている感情の発露とは、まさに一滴ずつ静かに積み重ねていった末の「零れる」であり、派手な鉄砲水ではない。だが短い尺の中で、「素っ気ない言葉だが内心はこれだけ乱れている」ということに焦点を絞って伝えるための演出なのかもしれん。

(侑は、中学の男子には本当に穏やかに満ち足りた顔と声で「ありがとう」と言い、例の河原では本当に他の感情を全て押し殺して静かな決意だけが伝わるように「先輩のこと好きにならないよ」と言うのだ。後者は、この時七海先輩は背を向けているので、声だけで先輩を安心させなければならないからだ。)

 七海先輩は……侑といる時、嬉しい気持ちが過剰に出過ぎており、何かウェットな印象を与える。だが、これも演出上の取捨選択の結果として、あまり悠長に「仮面」を見せているわけにはいかないという判断によるのかもしれん。その分侑にからかわれて照れるところは可愛い。やや猫背なのが気になった。

 やが君で侑が経験する苦悩には三つの段階がある。①好きになりたいからこそ好きになるわけにいかない苦悩(1~3巻)、②好きになったがそれを認める/伝えるわけにいかない苦悩(4巻)、③好きだと認める/伝えることに付随する苦悩(5巻~)。舞台の脚本は②に絞って書かれているように見える。

 正確には、作品全体を②の視点に沿うように編集した、と言うべきだが、その編集は上手いと思う。沙弥香エピソードは一箇所に固め、雨宿りのシーンも少し意味合いを変えてある。体育祭のシーンが丸々削られているのも、侑が七海先輩を好きになった瞬間が舞台ではもっと前倒しにされているからだろう。

 開幕直前に変えたというラストシーンは、原作も大枠では同じ結論に落ち着くはずとはいえ、「変わってもいいと教えてもらったから、侑も変わっていい」という論法には飛躍がある。「束縛する言葉」を肯定するための「変わる自由」というのは矛盾であり、それを解決するためには沙弥香の言葉が必要だ。

(「矛盾……しててもいいんじゃないですか?」というのは実存の姿勢として正しいが、ラストシーンには似つかわしくないし、もし矛盾を残す場合でも「ある観点から見ればこれは統一的に理解でき、矛盾でなくなる」という鍵を提示しておくのが普通だ。)

 もう一つ述べたいのは、舞台演劇というメディアそのものについての印象だ。私は小説と漫画とアニメの媒体ごとの特質については考えてきたが、舞台に特有の表現とはどのようなものかということは考えてこなかった。演技のことならまだしも、舞台という空間の使い方には想像が及ばなかったとも言える。

「舞台の左端と右端で違う人々が違うことをしている」という状況は漫画では珍しくないが、私は最初は戸惑った。どちらを見ればよいのか? 舞台は立ち止まって読み返すことができない!だが、答えは「何をどのくらいの時間を割いて見るか、観客は選ばねばならない」ということなのだろう。

「場面転換でいちいち背景を描く必要がない」ということも驚きだった。登場人物が歩き、椅子を並べ直して、少し環境音を入れるだけで場面転換が完了する。ここでは視覚的な背景は必要とされていないのだ。そんなものがなくても観客は「場面」を認識できる、もしくは認識するように演出で仕向ける。

 与えられない背景を観客が想像で補完する、とも違う。余計な視覚情報に割かれていたはずの脳容量を、役者の演技へと集中的に振り向けるのだ。そうして、共感や理解がブーストされる。「五感の全てが揃っていることが、完全なリアリティの条件である」というテーゼがいかに幻想であるか!

 確かにいくつかの解釈違いがあった。しかし、そうであっても、確かにやが君を目撃したのだという充実感がある。キャストの姿でも声でも仕草でもない、何か説得力そのもの、「小糸侑が生きてそこにいることの熱」のようなものが、私の中に残っている。舞台でなければこれは得られなかっただろう。

 舞台を観た後に原作を読み返すと、以前よりも自分の心がよく動き、「彼女たちは私と同じ世界のどこかに生きていて、これは実際に今起きている出来事なのだ」という気になってくる。そして、私がこれ以上近くで物語を目撃することも、当事者になることもできないということへの寂しさを覚える。

 もちろん二次元が三次元に出てきたわけではなく、出てくるのが偉いというわけでもない。漫画の世界とは、吹き出しさえもが物理法則の一部であるような、我々の三次元の現実と対等な一個の世界である。その「対等さ」こそが今私の前に露呈されているものなのだろうか。

 シーンがどう展開したキャラが何と言ったという次元を超えて、「とにかく“いる”気がする」ということ、「心の位置が分かる」ということ、彼女たちは私にとって他人ですらなく、それぞれが私自身の心のある要素の象徴ではないかと思うこと、それがつまり――「やが君界」にアクセスすること――なのか――――。

 以上、現時点での #舞台やが君 感想だった。また追記するかもしれない。この不思議な充足感を言語化するのに時間がかかる。


 かつて『ぼくがぼくであること』(山中恒)を読んだ時、私は当時にしてはかなり無茶な遠出をして、古い民家が雑然と密集した地区を当てもなくうろうろしたことがある。そうすれば谷村夏代に会える気がしたのだ。それと同じ魔術的想像力が、舞台やが君によって再び呼び覚まされている。

 これも述べておかねばなるまい。公演後のカーテンコールで、観劇マナーを守りきった観客による無言の拍手鳴り止まぬ中、私が考えていたのは「お願いだから頭を下げないでくれ」という一事だった。私が何をした。チケットと物販に金を払い、そして舞台を見届けただけだ。到底釣り合うものではない。

 仮にチケット代が一億円で、それが全額キャストのギャラになるとしても私は同じように思うだろう。金とは、本来計測不能な「価値」というものを有限の数字で近似的に表すシステムであるから。我々は金で購えるはずのないものを、それでも有限の金で買って「手切れ」とするしかない。

 また、私は「お願いだからこちらを見ないでくれ」とも思った。これは、「中の人」を感じたくないという理由によるものではない。「こうすれば全てが好転するという処方箋がない、ただ時間が解決するのを見届け続けるしかない」という、傍観者としての無力感がやが君体験の中核にあるからなのだ。

 だが、舞台という形式を取る以上、役者と観客の共在は避けられないのだろうな。それに、舞台とは須らく魔術的な場であり(魔術が舞台的であると言ってもよい)、アストラル界の痕跡を身に残さないことが魔術儀式の終わり方の鉄則であるから、一度やが君性を切断するのは望ましいことなのかもしれない。

アニメ

 アニメ版やが君を、まずは一話だけ観たが、何か違和感がある。燈子・こよみ・槙以外の声が想定と違うというのもあるがそれは些細な問題で、恐らくは私が原作のコマ割りから感じるテンポがアニメのそれと合っていない(アニメが少し遅い)。

 アニメ版やが君4話の「侑 えろい」、どう発声するべきだったのだろうな。原作者が監修しているからこれでよいのではあろうが、「公式が解釈違い」とはよくあるオタク・カルマなのだし、この言い方だと我々視聴者の「異性愛男性が同性愛女性に向ける好色のまなざし」が喚び起こされて居心地が悪い。

 とは言え、そんなものに配慮して「少女が少女に囁きかける言葉」のトーンが左右されるべきでもない。燈子は我々視聴者の存在を知らないことになっているのだから、配慮は台詞の読み方ではなく、視聴者のみに向けて表現される部分、即ち演出において為されるべきだ……

 アニメ版やが君、第五話にして作画が乱れ始めた……「言葉は閉じ込めて」までは保ってほしかったが……

 アニメ版やが君を観終えた。原作から最低限の変更で、区切りの良いところで一クールを終わらせており、好感が持てる。BGMや挿入歌の使い方はややベタに感じることもあったが、シーンの編集に不満はない。「あの人を変えよう」に続くシーンなどは(BGMはベタだが)まさにあれでよい。こよみの可愛さ。

「キラキラしてて眩しくて」の象徴として、星に加えて水面を使う点にはやや首を傾げる。「好き」の明るい面を星、苦しい面を水面として使い分けているのだろうか。そうでもない気がする。星の印象もやや弱い。「あの人を変えよう」のシーンでも、もう少し明るく映してよかったと思う。

「ばか」のシーン、そりゃあメディアミックスでは悩むわな。アニメでも舞台でもああするしかなかったのは分かる(舞台はややうるさい)。視覚は視覚で、聴覚は聴覚でしか塗り潰せないのが普通だ。視覚情報を隠さずに、聴覚を通じて脳をハックして視覚情報を認知させないというのはかなり高度な魔術よ。

 体育祭のシーンは、あれはあれで音のつくメディアならではの味わいがあってよい(作画がやや崩れていたのは残念だ)。原作者は人物が走る絵は苦労したと言っているが、アニメでそれを原作に忠実に作る必要は必ずしもなかったと思う。

 私は植物に詳しいタイプの魔術師ではないが(中医学とアロマテラピーを学んだことはある)、OPに出てくる花とその花言葉は幸いamazon primeのコメント欄に書かれている。だが、それらの花言葉が人物の本質を表しているとは限らない。侑と燈子は花で顔を隠しているのだ。

 やが君四巻の「ばか」のシーンについて。あれは「先輩のばーか」であると同時に、「わたしのばか」でもあるのだという読み方を提示しておく。これは、以前から先輩の在り方に疑問を抱いていた侑がこのタイミングで踏み込んだことと、あのシーンの侑の奇妙に非対称な表情の、一つの解釈となるだろう。

 原作漫画、舞台、アニメと見てきて、改めて舞台やが君で観劇マナーが強調されていたことの重大な意味を思う。これは、一つにはゆう氏が述べていたように「観客と役者の相互作用」をコントロールするためだったが、もう一つの意義として、表現を観客にしっかり受け止めさせるために必要だったのだ。

 我々は自分の部屋で漫画を読んだりアニメを見たりする際に、すぐに感極まって「アアアアアアーーーーーーッ!!」と叫ぶ。だが、これをやると「圧」が自分の精神から抜けて逃げてしまうのだ。あるいは積極的に逃がして精神を守るために喚くのかもしれんが、舞台は厳しいレギュレーションでこれを禁じた。

 客が「侑、声デカくないか?」と呟けば、あるいはその感想を身振りに表しでもすれば、その瞬間に「解釈」が生じてしまう。彼にとってのそのシーンの鑑賞体験に、区切りが、ケリが、意味付けが、生じてしまう。舞台やが君はこれを禁じ、つべこべ言わずに全編をただ直視することを観客に強いた。

 これは原作の姿勢とも重なっている。「好き」とは、意味によって駆動されるものではない。言い換えれば、何か「この一手を打てば問題が解決する」という処方箋があって、それを処方すると話が終わってしまうから山ほど妨害を入れて連載を続ける、という作り方をやが君はしていない。

 さらに言い換えれば、侑と燈子の関係は侑と燈子だけで解きほぐせるものではない、ということだ。少なくとも槙と沙弥香が必要だったし、時間も必要だった。「好き」とはパズルではない。本質的にどうしようもないものであり、“そこ”にある全てのものと相互作用しているのだ。実存は本質に先立つ。

 感想をすぐにアウトプットできないということは、(特に我々のように言語化を重んじて生きている者には)精神に非常な負荷をかける。その負荷によって、表現を心に浸透させようとしているのだ。演劇は皆そうなのかもしれないが、私が舞台やが君に覚えた異様な侵襲感はこれによるのかもしれない。

漫画7巻以降

『やがて君になる』最終巻を読んだ。この物語の核心は四巻で既に提示されているから、最終巻にもなると答え合わせをして綺麗に幕を引くだけ、読んでいて爆発四散しかけるようなことはない。ただ素晴らしい物語と卓抜の腕に感謝し、祝福するのみ。

「わたしの彼女はすごい」のシーンと「べちん」のシーンの、行動と描写の何と鮮やかなことか。しかし、全編通してやが君の描写で最も恐ろしいのは吹き出しの配置だ。ページをめくった瞬間、最も自然に視線が向くところに力ある言葉が飛び込んでくるよう、計算し尽くされている。

 愛は、「どうしようもない気持ち」と「自ら選ぶ意思」の両輪として理解される。これは他力と自力であり、これ以外のものは(無力と総力を除いて)存在しない。愛には無数の形があるが、結局は全てここに回収される。あるいは他力と自力の相互循環こそが愛を定義付ける性質と言ってもよい。

 突然与えられる巨大な愛と、それを理解するまでの苦しみ、そして最後に行う積極的な応答、というテーマは、例えばキリスト教で数百年にわたり議論された歴史がある。十戒も「わたしの他に神はなし」という選択の要請から始まる。他力と自力の合致は、人類永遠の夢だ。

 愛に関するこの見方は、根本三大聖典の一『灼眼のシャナ』の記述からも支持されるということは述べておかねばなるまい。


 やが君の最終巻を読んだことで、昨年観覧した舞台やが君の「印象だけ」が意識ではなく身体の方に木霊しており、さらにその状態で不用意に笹塚の裏路地を歩いてしまった。今の私は「身体が物語であるということ」への想像力を持て余している。危険な状態だ。

 私は舞台やが君を観て、脚本や演技のことよりも、ひたすらに「人間の身体と声が生きて動くということには巨大な力があり、それを同じ人間の身体が受け止めれば巨大な意味が生じる」ということを印象に刻んだ。極論すれば、ここで原作がやが君であることは、私を舞台へ傾注させる役割しか持っていない。

 若い時代に、同じ問題意識を持った仲間と共に身体表現を探求できることの価値はいかばかりかと思う。もし取材の機会に恵まれれば、私は笹塚を舞台にした舞台俳優志望の男女の話を書きたいと思っている。違う人生を歩むなら私自身が演劇をやりたいとさえ思う。

 いずれサニー(舞台俳優をやっている知己)に話を聞かねばならんが、しばらく叶いそうにもない。まずは笹塚の迷宮にもう少し分け入ってみるか……。

 断っておくが、私はフィクションのポルノを用いて自己理解を深めることを繰り返し推奨してはいるものの、それだけで生の何もかもが網羅できるとも思っていない。人は結局のところ、生身の身体、何らかの生身の身体を持ちそこを魂の座と定めることからは逃れられん。


 我々(誰?)は本を読んだり舞台を観たりする時、即ちそれと意識して「物語」を受容する時には必ず、後でその感想を誰かに向けて発信することを意識し、その発信の文章を考えながら鑑賞している。これのあるがために、鑑賞体験は長く記憶に残り、また鑑賞を通じた学びも豊かになる。

 しかしこれは、全ての入力を即座にロゴスで解体・整理してしまうことでもある。精神の防御力を意図的に下げ、送り手の意欲の熱と技巧の妙に翻弄されて酔うという体験は弱まる。酔えたとしてもその感想を「ヤバかった」としか表現できなくなるのは耐え難いが……やはり、ある種の勿体なさは感じるのだ。

 舞台やが君(2019年のもの)は、上演中の私語への注意を徹底することによってこの「即座の意味付け」を抑えようとしたようだが、声に出さずとも思考を巡らせられる者(というより、発声が思考に追いつかぬ者)にとってはまだ十分でない。

 ここにあるのは、「体感する」ことへの憧れと「記録する」ことへの欲望の相克だ。相克であるなら、そこにはかならず統合と止揚の道があるはずなのだが、未だ見えぬ。「意識に残らなくとも無意識には刻まれている」という考え方を拠り所にすることはできるが……

 実験科学の教育を受けた者なら誰でも知っていることだが、ある現象を記録するためには、その現象に対する応答性が分かっているセンサー、センサーの電圧か電流(そのどちらかしかない)をデジタイズして読み取るためのメータ、デジタル信号を処理するコンピュータが要る。例えば、網膜と視細胞と脳。

 脳がコンピュータに接続された水槽の中にあろうと、五感にまつわる神経に接続された頭蓋骨の中にあろうと違いはない(166号)[2]。感想を言葉にせぬまま翻弄されて酔ったとしても、なお「現象そのもの」には触れられない。だが、言葉を介すればさらに一段遠ざかることは確かだ。

 言葉をそのようなジレンマから救い出す試みについては、今しばらく盟友“来暁の閃”(舞台俳優をやっている知己)の成果を待とう。私が物書きとしてできるのは、語り得るものを語ることによって語り得ぬものの輪郭を象ること、例えば「言葉にできぬ体験をしている人物を、外から言葉で描写する」というエヴェレット解釈的なやり方か。

小説「佐伯沙弥香について」

 私は今ちょうど「佐伯沙弥香について」を読んでいる。実は入間人間は読んだことがなく、西尾維新(私の好みではない)めいて癖の強い小説を書く人だろうと勝手に思っていたが、読んでみると予想外に素直な文体だった。

 私は入間人間の文体があまり好きではなく、やが君の水準の心理描写を小説で見ることができるかという期待は外れた(沙弥香が経験した出来事自体はまああんなものだろうと思う)。官能小説の文体の参考にするなら、むしろエロゲーに学ぶべきかと思っている。

舞台encore

 舞台演出と役者、技量と当日のコンディション、そしてまた客の顔ぶれ、自分自身の状態。たとえバーチャル存在のライブでも、全て同じということはあり得ない。さらに、録画の配信でもよさそうなものを敢えて一回性の企画として立てたということ自体の重みもある。

 舞台やが君は私にとって実質的に初めてと言えるそのような体験だったし、後にはストリップ観劇も同じ性質を持っていることが分かった。舞台やが君encoreには何とか完遂してほしい。またサニーとも話さなければならん。

 一回性は時間の中にのみ宿るのではない。例えばいつも集まる友人が自分を入れて三人いる時、たまたまある日にはそのうちの二人で集まるとすれば、その会は決して三人の時の下位互換ではないのだ。私はそれらを「○人の場」と呼ぶ。それぞれの状況に固有の、電子軌道のようなものが生じている。

 私が友人らと会う時、途中で自分から新しく誰かを呼ぶことをしないのは主にそのような理由による。人数が多ければ多いほどよいとは考えない。ただし、二人の場から三人の場に移り替わること自体が他の場合に対して持つ固有性もまた認めるところではある。


 ドーモ、ヤガキミアンコール=サン、ソーサツ・ホーシです…!


(舞台「やがて君になる」encoreの感想は投稿していない。最初の舞台ほどの人物の存在感を感じることができず、台詞に動作が追いついていない印象を受けたからだ。)


操刷法師の書いた百合作品


[1] 赤草産業『少女位相百合空間』、「恒河沙」172号、時代錯誤社、2013
[2] 覚醒支援課『人類の終わり ~核兵器と二次元性愛~』、「恒河沙」166号、時代錯誤社、2012


〈以上〉

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