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人生に向き合う冒険ー放送大学「現代社会と宗教」感想レポ

何度も聞かされている方には重複になってしまい申し訳ないが、
著者は新興宗教二世である。

ここのところほぼマインドコントロールが解けつつある。
とはいえ、生涯信じてきた教えの客観視、とは
実際に取り組むととても難しい。
しかも思うところあって例の宗教の集会にはまだ顔を出している。
とはいえ思考の上ではこれまで信じてきた常識がひっくり返っており、
天地がさかさまになるみたいな無重力感を体験した。
異世界転生した直後の主人公みたいな絶望感、途方に暮れ感。
異世界転生ではお馴染みの「オレ、なんかやっちゃいました?」ムーブをかますことすら新興宗教二世はできない。
中年で放り出された現実世界からひたすらに無能・孤独・無知を突きつけられるだけだ。
そんな状態でいるともう何もかもが嫌になる。
「もう死んでやる!」とも当然思った。
生きているだけで表彰してほしいくらいだが、
ライフ・ゴーズ・オン、人生は続く。これからも。
仕方ないので、この苦痛がどこから漂ってきているのか?そのありかを探すために冒険に出かけるしかなかった。

※この記事は1万字あります

※授業の履修をしている方向けに、こちらに授業の様子をまとめています

※提出したレポートはこちら(まだ評価は出ていません)

この授業を見つけたいきさつ


当然、
自分の心に重たくのしかかっている感情として、自身の心の故郷である新興宗教に対して「畜生、嘘ついてやがったのか」という怒りがある。

あなたも、親や知り合いの多くが信じている宗教を40年信じた後に「心底裏切られた」と感じた経験をしたことがあるだろうか?
普通の人はそんな経験しないらしい。(それも孤独感を増幅させる)
とはいえ、クォータークライシスという言葉ならきいたことがあるかもしれない。
30代に前後して人生の行き止まりを感じたり、価値観が大転換したりするということはよくあることらしい。
私もそのハンバーガー(クォーターパウンダー)みたいな名前の心理状態なのであれば孤独感も和らぐと思ったが、実際のところ果たしてどうなのだろう。確かめる勇気もないのだった。

とにかくこの強烈な怒りは、睡眠時間をたっぷりとっても、有酸素運動をしても、栄養豊かな食事をしても、生理周期を何周しても、数年たっても、しっかりそこにあって、何をしても消えなかった。
毎日新鮮にキレていた。
だからこそ「私の育ったあの宗教とは、一体なんだったのだろうか?」と知りたい、というおもいは食欲と同じくらい当たり前にあった。

制限の多い宗教だったため、世の中のことを何も知らない「無知」な自分が恥ずかしくて、コロナ前は社会科見学のためソロ活に飛び込みまくっていた。

そうして社会科見学をしていく中で、
やはりあるところから「ここからはお金を払って情報にアクセスしないと手詰まりかも」もしくは「専門家による体系的な説明で情報を整理したい」と思うようになった。
その時に見つけたのが放送大学だった。

ちょうど自粛期間と放送大学に編入した時期とが重なり、自粛期間には民法や刑法を履修し、家にある最もヘンな本が六法全書になったりして、まぁ有意義に過ごすことができた。

いつしかコロナ禍も下火となったころ、ふと思い立って初めて「面接授業」なるものに申し込んでみた。

「面接授業」ときくと聞き慣れないが、
ようは「放送大学」という「通信制」を通常とする学校においての特例的な「面接」形式の授業ということで、
つまりは私たちが小学生の頃、もしくは中学生のころ体験した教室での講義と同じ授業のことだ。

これがあまりに面白かった。
「社会科学から観る原子力」という授業だ。
この体験は衝撃だった。
この時ここからしばらくは人生の舵を「放送大学」に切るべきだと感じた。
しかし当然、いきなり大学生生活を始められるような経済的な基盤がなかった。

また言い訳かよと思われるかもしれないが、
新興宗教に「富を追い求めるよりも奉仕を優先するべき」と教えられてきたこともあり、収入の良い仕事も、資産らしい資産も築いてこなかった。おまけにメンタルもヘラ気味であり、あまりたくさん仕事もできない。

何か副業でも……と思ってブログやハンドメイドなど色んなものに手を出してみたが、どれも今ひとつ収入らしい収入には繋がらならなかった。

それでもどうしても衝動を抑えることができず、
放送大学の興味ある面接授業を、有給が取れるだけでもとにかく履修し始めることにしたのだった。

その記念すべき第一回目は、当然、この話題だったというわけである。

胃に穴があいたかも


授業は幕張にある千葉学習センターで開講された。
放送大学千葉学習センターは海浜幕張の駅からも幕張の駅からもどっちからも遠くて(徒歩15分)辛かったが、どちらも途中に早くからやっているスーパーがあるので昼ご飯の調達には便利だ。

受講生は32名、老若男女といった顔ぶれで、男女比もちょうど半々くらいだった。

不思議なもので、この日は朝からここ数年ないくらいの胃痛に悩まされていた。
それがこの授業が終わったとたんすぐに治ったのだから、自分では自覚していなかったもののよっぽど不安だったようだ。
確かに頭の中では、自分が40年間信じてきた宗教のことを「悪質なカルト宗教だ!」と大学の先生から実名でののしられ、その宗教の出身であるとして私も吊し上げられる状況をぼんやりと想像していたので無理もなかった。
しかし「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。
リスクを負わなければ自分の欲しい情報は手に入らないと考えた。

講師を務められる弓山達也先生は、東工大学の教授であり日本宗教学会の常任理事も務められている先生だ。
なんとなく白髪の気難しそうなおじいさんを想像していたのだが、登場した弓山先生はなんだかエレファントカシマシの宮本浩次に似ていて虚をつかれた。
実際授業の方も「さぁ頑張ろうぜ!」と言わんばかりのアツさがあり、面白いのだった。
さて、いよいよ授業の開始時間となった。

胃に穴があいた状態で見ず知らずの人とグループディスカッションをすることになった


先生が授業の進行のやり方を説明してくださったが、
全8回、2日間の授業で
合計4回のグループディスカッションをしながら進めていくとのことだった。いや、ウッソやろ

先生曰く、
本当に価値ある授業とは、
教授が説教垂れるのを生徒が黙って聴く授業ではなく、
得た情報をもとに生徒がおのずから考え結論を出し知識を自分のものにして帰る、
そういう授業であるとのことだった。
アツい先生らしい考えだ。

これを読んでいるあなたはいきなり見ず知らずの人とグループディスカッションをせよ、と言われたらどう思うだろうか。

私はというと普通に先生の講義を聞きに来ただけでも胃に穴をあけるほどド緊張していたのにさらに知らない人と「グループディスカッション」をやれ、と言われて死刑判決のように感じた。

ていうか、そしたらこれから生徒達で「現代社会の宗教」についてディスカッションをする状況において、
その中の一人である私が「エホバの証人」二世の出身で、出す意見には宗教的な背景が反映されている可能性がある、ということは事前にみんなに開示しておくべきではないのか?
いや、そんなこと聞かれてないんだから黙っておくべきなのか……?
数分のうちに考えて今ここで結論を出さなければならなかった。
胃の傷みが大きくなるのを感じた。

悩んだが、
哲学科のご出身で精神領域にもお詳しい弓山先生の前では、自身を偽ったり取り繕って本心を語らないでいると、すぐに見抜かれそうだなと思った。
それに私はここに何しに来たのか?
自分の生い立ちと向き合うために来たのに、
今さらここで自分の生い立ちを隠してどうする、と思った。
とはいえ、周りの人の学びの機会を損なってもいけない。
だから自己紹介の場面で手短に、自身の背景にも触れよう、と決意した。

結果として、
グループディスカッション第4回目の議題がなんと「キリスト教系新興宗教『エホバの証人』の輸血拒否問題に身近な者が直面したら、当事者で『ない』あなたならどう対応するか」という論題であったのだが、
その際にも「あの、当事者です……」とか言って手を上げて飛び込むことになった。
自ら望んだこととはいえ、我ながらイカれた週末を過ごすことになったと思う。

全4回のグループディスカッションでのカミングアウト


全4回のグループディスカッションの議題は、

・(あなたにとって、社会にとって)「宗教」とは何か

・若い人の方が宗教など霊的なものに関心を示しやすいのはなぜか、一方で高齢者が関心を示しにくいのはなぜか(そういうデータがある)

・カルト宗教とそうじゃない宗教には違いはあるか?あるとしたらその違いは何か

・もしもあなたの家族が、それも10代後半の若い家族がエホバの証人になっていて、ある日交通事故などに遭い、輸血の必要な緊急事態になり実際に命の危機があるにも関わらず「輸血を拒否したい」と言ってきたらどうするか?

というものだった。

グループディスカッションの進行としては、
それぞれの議題に対して、生徒が一人づつ自分の考えたことを述べる。
他のメンバーはそれを聴いてメモを取り、
メモを参照しながら持論を変化させ、
最終的にグループとして話し合って結論を出し、
出た結論を全体に対して発表するというものだ。

いきなり「グループディスカッション」の技術と、
この間ほんの10〜15分程度話し合った内容の要点をまとめてグループ外の人にも分かるように発表する、という能力が求められ、
就活もまともにやってこなかった私は胃を痛くすることしかできなかった。

しかしグループディスカッションの際に1分間の自己紹介を求められた時には、「私は新興宗教二世(エホバの証人)の出身で、自分の育ってきた宗教を客観視したくて、この授業を履修しています」と発言することができた。
(グループディスカッションは毎回組み換えがされ、その都度1分間程度の自己紹介をする時間が設けられる)

みんなギョッとして引く、
かと思いきや、
「現代社会と宗教」とかいう授業を自ら望んで履修するような方々だからか、
エッそうなんだ!いろいろきかせてね!みたいな
偏見のない反応をしてくれる方がほとんどで、
安心して涙が出るかと思った……
(実際は引いていたのかもしれないが)

とはいえ皆さんが自分の宗教的な背景を語るのをきいていると、ほとんどの人が「自分は無宗教だと思う」という日本人らしい考えを持っていて、ここでも私が特異で浮いていることがわかり、冷や汗もかいたが……

これを読んでいるあなたにはあまりピンと来ないかもしれないが、自分自身の宗教的な背景をみんなの前でカミングアウトする、というのは実はかなり勇気のいることだ。

なので2日間で何回も、見ず知らずの人に、私は新興宗教のエホバの証人の二世の出身です(「の」が多過ぎるが)と明かしただけでも心に大きな衝撃があった。 

しかもそれを気味悪がらない人たちばっかりだったというのもあって、
心の中に巣食うデカめのモンスターにクリティカルなダメージが入るような、あまり体験したことのない爽快感も感じることになったのにも驚いた。

当日こそグループディスカッションがイヤでイヤで仕方なかったが、
時間が経つほどにあの時発言していたクラスメイトのことを思い出し、あの時のことが頭を離れなくなった。

もっとこういう風に言えたら良かったとか、
もっとあの人と話してみたかったな、とか。

先生の言う通りグループディスカッションには価値があったというわけだ。

胃に穴をあけながらも有意義な時間を過ごせたグループディスカッションだが、
その中でも特に第4回目、
エホバの証人について扱ったディスカッションについて、簡単にレポートし、私の考えていることも併せて書きたいと思う。
当事者ですから。

あなたの家族である10代後半の妹か娘が(自己決定能力があるともないとも言える微妙な年齢)輸血しないと死にそうな状況で「わたしはエホバの証人だから、死ぬとしても輸血を拒否したい」と言ってきたら、あなたならどうするか?


先生はこの議題を生徒達に自分ごととして考え、判断してほしいようだった。

私はエホバの証人なので、
実際に緊急事態の患者が「1時間以内に輸血しないと死ぬ」とか「患者本人に意識がなく、本人から宗教信条を聞かされていただけのエホバの証人『ではない』家族が、本人に輸血をするかしないかの判断をしないといけない」という状況にガチでなることがままあることは聞いていた。

しかし生徒の皆さんは「本当にそんなケースありえるのか?」と半信半疑な感じであった。

とはいえ先生の詳細な設定の解説もあり、
クラスの全員が真剣に、自分の身に起きたことだと仮定して、一人ひとりが誠実に結論を出した。
本人は、大人なのか?子供なのか?
本人の「意思」を、「命」より優先するべきなのか?
「命」よりも大切なものはこの世にあるのか?
みんな、めちゃくちゃ悩んでいた。

結論は3対2くらいで、
本人の意志は無視してでも輸血し、命を助けると答えた方がやや多い結果になった。

エホバの証人の輸血拒否について正直に思うこと


さて、私としてはエホバの証人の出身であるので、当然輸血はしないという立場でこれまでやってきた。

しかしほんの半年ほど前、
弊宗教(って言い方するのかな)が輸血拒否を問題視したメディアに対し「輸血拒否は強制ではない」とか言って反論しているのを目にして、目を丸くしたのだった。

え??強制じゃなかったの?????

これはどうも「信者に対して輸血拒否を強制していない」という言葉通りの意味だと言いたいらしく、
実際に輸血した信者がいたら「信仰を捨てたとして破門にするか、叱責はする」ということらしい。 
そんな詭弁がまかり通るのか????

ものすごく正直な事を言うと、
私はエホバの証人が輸血を拒否するべきだと捉えている聖書の一節を何度読んでも、「『輸血』という医療行為を拒否するべき」とは読めないと思ってきた。
あの箇所を「輸血拒否するべき」と捉える人がいたとしても、まあそういう人もいるかもしれないとは思うが……

話は変わるが、
ここ数年、弊宗教はこれまでかなりかたくなに守ってきた教義を大幅に変化させている。
その大転換ぶりは部外者がYahooニュースで取り上げるほどだ。
(該当記事は削除されてます)

例えば大きな変化があった教義として、
これまで何十年も、
どんなに寒くても自転車に乗る時でも女性はスカートを履かなければならないということが定められてきた。
それがつい数ヶ月前、突然「パンツスタイルでもOK」と教義が変わると、すぐに女性信者たちはパンツスーツを履くようになった。

こうした最近の組織の大変化を見て驚く多くの信者たちの脳裏に「もしかして輸血も解禁になるのでは……」という考えが一度は頭をかすめていると思う。

このように結局これまでの輸血拒否のケースにおいても、
信者一人ひとりによる尊重されるべき思考の末の意思決定としてではなく、
「組織がそう言っているので従う」という、個人の思考や熟慮を経ない決断だった、ということはないのだろうか?
パンツスーツかスカートか?なんて教義はどうでもいいが、命は失われたら取り返しがつかない。

さらにこれまで多くの死者を出してきて、
信者であれば知り合いの知り合いには必ず輸血拒否で亡くなった人がいるくらいの重要な教義だったから、
輸血拒否で死んでいった知り合いやその家族へ申し訳が立たないからといって、
本人は深く考えずに輸血を拒否した者はいなかったのだろうか?

信者一人ひとりの思考の浅さが、あの宗教にいた者として気にかかる。
それはもちろん、組織が深い思考をする信者や疑問をもつ信者を「反逆の芽」として早めに摘もうとしてきたせいだろう。
とはいえ、こうして周りの人を悩ませるものの、
当の本人たちは思考することを放棄していて、
上層部の決断しだいでどうにでもなる、ということはないのだろうか。
つまりは後に組織が「輸血OK」に変えても、恨まないのだろうか?「自分で決めたこと」として納得できるのか?輸血拒否を選んだ本人も、その家族も。
これは今後すべての信者に問われることになると思う。

ともかく、ここへ来て弊宗教は「命をかけるほど」真剣なムードを失いつつある気がする。

ここまで教義を大幅に変化させていると、
そもそも弊宗教に「聖書を正しく理解できているのか?」という疑問が浮かぶ。
輸血拒否の解釈も含めて……
そんな複雑な話は、ディスカッションでは言えなかったが。

とはいっても、宗教が正しいことを言っている可能性もある、とは思う。
宗教とは、その時代には理解し得なかった衛生観念を信者に教えてきた歴史も事実としてあるからだ。
これから100年後かもっと後、医療が今よりももっと進歩した時代に、「輸血なんてあり得ない」と言われる時が来るということもあり得るのではないか、ともチラッと思うこともある。
しかし万が一そうであったとしても、現状は輸血を拒否する根拠を「宗教の信条」以外に出せない、ということでもある。
結論が出ないから、輸血の必要な状況にだけはならないでくれ、と願うことしか現状できないと感じている。

そういういきさつもあり、
今まさに「マインドコントロール解けかけ」状態になった私がこうして授業に胃に穴をあけながら参加するしかないほど人生に苦悩をもたらしてきた「エホバの証人」という宗教が、
授業では信仰心の無い人にまで「命か、信仰か」の問いを投げかけてくる「エモい宗教」として扱われたのは少し残念ではあった。
「エホバの証人」の本質はそこにはないと思うからだ。
私は幸運なことに輸血をどうするかという状況に家族を含めて直面したことがないからかもしれないが、「エホバの証人」とはすなわち「輸血拒否の宗教」であると解説されることには抵抗がある。

それに本人たちにしても「輸血拒否の人」と名乗るのではなく「エホバの証」人と名乗っているのだから、教団の特色として輸血拒否の信条を真っ先に取り沙汰されるのは不本意なのではないだろうか。

では、エホバの証人の本質とはなんなのだろう?
そんなのが分かるのなら是非私に教えて欲しい。
分からないと思ったからこそ、こうして宗教学者の先生にまではるばる教えを請いに来たのだ。

とはいえ、近頃の私の所属している地元の会衆の雰囲気はもはやキリスト教徒の会衆というよりも「メンヘラBBAのケンカ道場」と言った方が実態に近い。
数十年以上にわたって遺恨を残した人間関係が、
日本社会もビックリするほど高齢化したコミュニティに地雷としてくすぶり続けている。
心身を病んだギリギリのBBAたちの前では何を言っても何をしても誰かしらから厳しいお叱りの視線が飛んでくる。 
そんな雰囲気だから、誰も自分の意見を言わない。
自分の気持ちを話さない。
そういう硬直化した人間関係を「真の宗教」だと言ってありがたがってきた。
しかし、このたびこの「現代社会と宗教」の講義において、
命を守るべきか?心を守るべきか?
授業の中で自分とは違う宗教を持つ人間のために、
誠実に真剣に考えていたクラスメイトたちの方がよっぽど、
神から見て望ましい精神状態だったと、
どちらも体験したわたしは思ったのだった。
エホバの証人はなんとかせなアカンで、ホンマに……

講義で面白かった点


これまでグループディスカッションの話ばかりしてきたが、先生による講義のターンももちろんある。
そこは本当に文句なしに有益だった。
いくつか得た情報を紹介しようと思う。

・昨今「私は無宗教です」と言い張る日本人のために、
自称無宗教の日本社会がどれほど宗教的か説明されたことは興味深かった。
日本を一歩出れば、日本人の一般的な慣行である「初詣」「お食い初め」「七五三」「ひな祭り」「墓参り」「盆踊り」、仏式の冠婚葬祭どれも「宗教行事」と受け取られる。
またさらに言うと、
例えば、少し考えが深い人なら気付いているだろうが、共産主義や資本主義などの社会体制や会社、アイドルやある種のアニメ作品なども現代社会では従来宗教の果たしてきた役割を担っていることがある。

・「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問があるとして、
宗教を抜きにすると実は説明するのが難しい。
宗教を根拠に説明するとしても、その宗教を信じてない人にはまったく響かないので社会全体の治安にとっては意味がない。

とはいえ「無宗教」を標榜する日本で、
本来であれば「神のみ」が立法できるはずだった生命倫理を、一般の市民がおのずから考える機会が巡ってきていることは、
日本においては人間が神になろうとしているのでは?というのは興味深かった。
長い間、一神教を受け入れてきた者としては冒涜的にも思えたが……

・「カルト宗教とは?」のくだりで
カルトについての定義を学び、その条件も学んだ。

先生曰くカルトとは
◎「神」とか「愛」とか目に見えないもので縛る
◎構成員の一部にのみ、権力と権威を持たせる
◎手段が目的化している
時に発生するというものだったが、
特に「手段が目的化している」という点において、
なんとなく分かってはいたが我が「エホバの証人」もたいがいカルトやんけ、と思うに至った。分かってはいたが……
改めて客観的に「カルトですね」と言われると
(とはいえ先生はオウムや統一には言及したものの「エホバ」についてはこの時一切語っていなかったのだが)
ですよね、、、と逆にスッキリして、眼の前が明るくなるような感じがした。

聡い方ならお気付きかもしれないが、
「カルト」集団は本人や周囲の人に肉体的・精神的・経済的な損害を与える。
しかしその現象は実は「宗教」にだけみられるものではなく、
ブラック企業の職場や、独裁化した共産主義政権、家庭や恋人関係、果ては学校の教室などでも発生することがある。
誰しもが関わり得る事象だからこそ、
予防接種的にこういう知識を得ておくのは大事だなと思った。

・この記事内でもけちょんけちょんな言い方をしてきた宗教の「存在価値」であるが、
世界的に見て、宗教をやってる人の方がやってない人よりも「幸福感」が高いらしい。
一方で宗教をやっていると、「悲しみ」とか「苦しみ」に対する感度も上がるそうだ。
またクラシックのコンサートや美術館など、芸術的なものを好む傾向があるそうだ。

また、身体に重篤な障害を負ったり、重篤な病気を患ったりした人に対して、社会が提供できないような「満足感」「充足感」「幸福感」を提供できる場合も少なくない。

とはいえ、現代を含む過去の歴史において戦争の原因となってきたり、皆さんもご存知のようにカルト教団による集団自殺やテロなどの問題も後を絶たない。

また、自殺を企図する人に対しても、
おごそかな教理を持ち出してきて説得するより、
肉親の素朴な感情表現の方が(お母さんの泣いている姿、というような)、本人に自殺を思いとどまらせる効果があるようだ。 

以上のことから、宗教の存在価値についてはあるともないとも言える。人による。もしくはライフステージによる。一言では言い表せない。

・宗教を奉じる人が多い社会と少ない社会で、犯罪発生率に顕著な差はない。
また宗教系の学校や幼稚園に通ったことがある者と通わなかった者にも犯罪発生率の差は出ないという。
そのことから宗教教育には情操教育の価値があるように見えて実はないのではないか、と言われている。
凶悪犯罪を犯した少年院の少年に「お遍路」をやらせても望むような効果は得られない、ということだ。

・「マインドコントロール」の手法についても学んだ。
このマインドコントロールのフローチャートなのだが、
ウチの宗教が勧誘の手法としてまるっとそのまま採用しているものでゾッとした。
しかも先生は「エホバの証人の典型的な勧誘法」とは一言も言わず、やはり統一教会などを具体例として説明していた。
それはやはり先生が大学の教授であり、
統一教会が大学生をターゲットに学内で布教をするハウツーに長けていることもあるからだと思う。
学内の学生への注意喚起としてよく説明しているのかもしれなかった。

話は戻るが、
ウチの宗教が毎回の集会で信者一人ひとりを壇上に上げワークショップまでやらせている「勧誘メソッド」が、他の宗教とも共通する「マインドコントロールの手法」と同じ、ということは、一体どういうことなのだろう……(怖)
ウチの宗教はマインドコントロールの「手法を取り入れた」のではなく、現場で試行錯誤をするうちに、マインドコントロールの手法と似た手法になっていった、みたいな、経験則ということはないのだろうか……?
でないと不気味すぎる……(怖)

結論


体力的にもめちゃくちゃ厳しかったが、
勇気を出して受講してよかった。

宗教に関わりがある者も、
ない(と思っている)者も、
「宗教」のラベルが付いていない何らかの「繋がり」が、
あなたの心や生活や人生を、まるで宗教のように持っていくことがある。
それが有益で、自分でも望んでいて気に入っているのであればそれでいいし、
しかしどこかに違和感や、行き詰まりを感じているのなら、
一度メタ的に、その「繋がり」を「ある種の宗教」であると仮定して俯瞰してみると、発見があり、その繋がりを続けるかどうかの判断ができるかもしれない。
例えばただの紙切れを「一万円」として、価値あるものとして扱い尊ぶ貨幣経済も仕組みからすると宗教だ。
そう考えれば「貨幣経済」をも、否定して生きることは可能なのだ。
私達を「デバイス」とすると、宗教は「アプリ」もしくは「OS」のプログラムとして無意識下でもRUNする。
合わなければ入れ替えてみるのも一つの手である。
しかしアプリのアンインストールとは異なり、
考え方を根本から変えようとすると、
周囲の人間がまるで「宗教をやめようとする者」にするような過剰な反応を示すかもしれない。
しかし時には勇気を出し、
自分の人生とよく話し合った上で、既存の常識にNOを突きつけるべき局面が、ある人の人生には訪れるかもしれない。
そうした確信を持つのは一人では辛いかもしれないが、この授業を受ければ、
観念して、自分の使命に取り組もうという気になるかもしれない。
おすすめの授業でした。



しばらく放送大学で面白そうな授業を履修していきたいと思っています!

もし
「お金とか時間ないけど、どんなことやるのか知りたい!」
という授業等がありましたら、

実際に履修して感想書きますのでお気軽にコメントください!

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