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難しい。内容も、これからの私達も。 オッペンハイマー感想

ネタバレあり
評価:4.1

世界で唯一の被爆国に、
戦争が終わってから生まれ、
反戦教育を受けて育った。

「オッペンハイマー」のことは知らなかったが、「はだしのゲン」のことはよく知っている

それが私の知る原爆の話だった

たくさんの人の人生を、命を台無しにした世界大戦について、私が語れることなどないように思う。

けどオッペンハイマーせっかく観たし、思ったことを書こうと思う

セリフが投げっぱなしで何が起きてるのかわかりにくい


と感じた。
もって回ったような言い方を全員がする。

A「今日の天気は?」
B「一万年前は雨だったかも」
(↑政治的な思惑がある)
私「ハァ?」

みたいな。
会話が成立していないように感じた。
翻訳が原因なのだろうか

遅かれ早かれ核爆弾はどこかの国で作られ、どこかの国に落とされることになったのだろうとは思う。


やはり被爆国の出身の者として、
なにをどう説明されてもオッペンハイマーという人物を好きになれることはないような気がした。

とはいえ、
じゃあ、オッペンハイマーは核爆弾の研究に反対するべきだった!と思うかというと……

広島、長崎に核爆弾が落とされる前、
ていうか核爆弾がこの世に存在する前、
核爆弾の恐ろしさを誰も知らなかったのに、
核爆弾の非人道性に思い至って反対しろ、というのも無理な話ではないだろうか。

とはいえ、
広島と長崎で罪もないのに焼け死んだ同胞を想うと、
「これほど悲惨な兵器だと知らなかったから」
で済まされるとも思えない

とはいえ原爆は遅かれ早かれ、どこかの国が開発し、どこかの国に落とされたのだろうと思う。
そう考えると、オッペンハイマー個人を恨み憎んでも仕方ないような気もした。

アメリカが戦争責任に向き合おうとしていてるように感じてたまげた


「大量殺戮兵器」の使用の責任を取れる人間などこの世にいまい。

特に感情的な面で、その罪悪感という重圧に耐えられる人間などいないはずだ。

戦勝国たるアメリカは、
戦争に勝ったのだから、そうした「大量殺戮兵器」の使用に対する罪悪感を感じないように・見ないようにする権限が、あるといえばあるのではないか。
人道的には、もちろん「ない」が。

それが、こうしてこんな映画を作って、あげくに映画史に残る最高栄誉たるアカデミー賞を取らせている、というのはどういうことなのだろう。

戦勝国であるアメリカが戦争責任(「戦争責任」というと敗戦国にも相応の責任があるわけだが。本記事では「オッペンハイマー」という映画の感想の記事ため、「戦勝国が戦時に敗戦国にもたらした損害」を指す)と向き合って、とまではいかなくても、見つめようとしていると感じられた。

逆の立場だったらと考えてみる


同じ論点について、
もしも、として考えてみる。

もしも、あの時代に、アメリカではなく日本が、
世界に先んじて核兵器の開発に成功し、実際に使用し、敵国の民間人を殺しまくって、第二次世界大戦で勝っていたら。

「原爆の父」と呼ばれる天才科学者が、日本人の科学者だったとしたら。

79年後に生きる私達は、その人のことをどうとらえていただろうか。

その人の評価は「殺人鬼」と「英雄」の二つの評価に割れていたに違いない。

そう考えると、アメリカにとって大戦の終結のためだったという大義があるにも関わらず、「オッペンハイマー」のような「立役者」をこのように描いたことは、中立的な立場……とまではいかないが、できるだけフラットに核兵器と核戦争をとらえようとしている姿勢に感じられた。

広島、長崎の被爆についての取材も真面目にしていると感じた。

陰謀論がアッサリ肯定されていた


原爆が落とされる直前のころ、
枢軸国も散り散りになり、
日本ももはや敗戦濃厚となっていたから、
アメリカは日本に対して「原爆」を落としてまで降伏を促す必要はなかったし、
そうした意見が米軍の側にもあった、
というウワサを、これまでもたまに耳にすることはあった。
どういういきさつがあったかは不明だが、結果として原爆は落とされた。

そんな、「死体蹴り」みたいな、
降伏した捕虜をなぶり殺すみたいな、
非人道的なことするのだろうか?
我が故郷たる日本が、第二次世界大戦の敗戦に際しそんな憂き目に遭ったのか?
これまで半信半疑だったが……

本当だったんかい……
この映画が真実を描いているとすれば、だが

実験よ、失敗してくれ


たくさんの有能な技術者、学者が力を合わせて、
人類がまだ手にしたことのない、
強大な兵器をこの世に実現させようとするシーンはカッコよかったのだが。

人が何かを一生懸命やっている姿というのは
がんばれ、という応援の気持ちをもよおさせるものだ。

しかしさすがに「核爆弾」の開発、ともなると、
その後の広島、長崎の惨状を知っているだけに、
この実験が
なんとかして止まってくれ、失敗してくれ、
落とされた側の人間がどんなふうになるか知らないだろ、
お前らが体験すればいいだろ、
そしたらこの研究を続けるべきかわかるだろ、
と思わずにはいられなかった。
(実際に実験中に放射線に暴露されたことで被爆された研究者の方もいたかもしれないが)

劇中で、この核兵器の開発にあたり、
「空気を誘爆させる」仕組みが
どこまで広範に及ぶのか?
空気のあるところ全てにまで及んでしまわないか?
つまり地球の地表全体が爆発してしまうのではないか?
という懸念があったことが示される。

そんな神話みたいな、
「世界の終わり」が視野に入るような兵器の開発が、
たかだか一国の20億ドル程度の投資で、たった2〜3年という期間で、
これほどすんなり進んでいってしまうことが、
あっけなく、恐ろしくもあった。

「大いなる力には大いなる責任がともなう」


とは、かの国の大ヒット映画 スパイダーマンの一説だ。

木の板にあまりにも重たいものを乗せるとメキメキと折れてしまうように、
高尚な思いを持つ者も、私利私欲で動く者も、
良い奴も悪い奴も、開発に関わった人全員を不幸にして、
核兵器はこの世の中に生み落とされた。

オッペンハイマーの感想をXで検索していて見つけたポストだが

このポストを見てハッとしたのだが、
もしかすると、
第二次世界大戦の後の時代に、
冷戦、キューバ危機、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻、と
核を落とされた日本の方が、この79年間においてはアメリカよりも「平和」で、
「核戦争」の恐怖も、
核を落とされた日本よりも、アメリカの方がずっと身近だったのかもしれない。 

決して因果応報みたいな、ざまみろ的な事を言いたいわけではない。

核兵器の力がでかすぎて、
もはや戦勝国においても、核を保有する限り勝ってハッピー✩というだけにはいかなくなってしまったということなのだと思う。

ビックリするくらい長い


どうでもいいが、
帰る時に、スマホの電源を入れて点灯した画面の時計を見て2度見した。
いくらなんでも長すぎる。
長いな〜とは思ったが
3時間超えてるとは思わかなかった。

アメリカをはじめ欧米にとっての「日本」のイメージがわからん


話は変わるが、
海外に行ったことの無い私でも、
インターネットの普及によって、
欧米でアジア人が下に見られ、迫害されているらしいということを知るようになった。

不愉快極まりないが、
とりあえず日本国内に住んでいるから直接的に欧米人から差別された不快な体験というのはない。

とはいえ、海外に行った日本人の経験談から、
まだまだ壮絶な「差別」が、
どうやらあるらしいということは認識している。

だから、原爆の投下にしても、
日本人みたいな無知蒙昧な未開の動物みたいな人種がいくら死んでもいいっしょ
みたいな感じなのかと思っていた。

しかしこの映画からは「日本人へのへつらい」というか……いや、へつらいってことないか
少なくとも「日本人への配慮」があるとは感じた。
いや、「配慮がある」というより「配慮がないと思われないように気を遣っている」の方が近いか……

とにかく少なくとも日本人を一つの王国の国民として(人間として)みなしていると感じられ、
お前ら差別してるんとちゃうんかい、という気持ちになった

ポケモンとナルトの国だから?
差別され、下に見られてもいるが、
好かれてもいるらしいと感じた。
どっちだよ

バービーのファンアートはクソだ


バービーの公開後、
このオッペンハイマーとバービーをコラボさせたミームが海外でバスり、
日本のTwitterでは大炎上することとなった。

私は去年観た映画の中で最も良かった映画に
バービーをあげている。
そのくらい素晴らしい映画だったので、
この傑作映画につまんないケチがついてしまったことが残念でならなかった。

とはいえ、オッペンハイマーを観た今、遅れてようやくこのミームに「それはやっちゃダメだろ」という怒りを感じた。

オッペンハイマー本編は核戦争の負の側面にちゃんと目を向けているが、
バービーの教訓的な内容を「核攻撃」に例えて表現したら、
そりゃオマエ、核戦争の肯定になるだろうが
よく考えてから投稿しろやカス、と。

アカデミー賞を取ってよかった


逆に、この作品がアカデミー賞を獲らなかったら、
それこそアメリカは、少なくともアメリカ映画界は、核兵器を使用した過去から逃げる気だ!と感じたと思う。

かといってアカデミー賞を獲ったから、そうした過去の責任を果たす気だ、と受け取るのも違うとは思うが。

ロバート・ダウニー・Jrのことはムカつかなくなった


アカデミー賞受賞式において、前回のアジア人受賞者に対して不敬な振る舞いをしたとしてエマ・ストーンと共にアジア人差別の疑惑がかけられた今作で助演男優賞を受賞したロバート・ダウニー・Jrであるが、
私も去年の受賞作エブリシングエブリウェアオールアットワンスが非常に好きだったこともあり、
二人の行動には失望したというか、
けっこう過敏に「これはアジア人差別ではないか」と感じた。
まぁそのことをSNSで表明したりはしなかったが。

けど実際に二人が受賞した作品を見たのち、
改めてあの授賞式のことを思い出すと、
あんまり二人ことを責める気にならなくなった。
もちろん、二人の心にアジア人差別がない、と言い切れるものではないのだが……

というのも、
「哀れなるものたち」で主演女優賞を受賞したエマ・ストーンであるが、
なんというか……エマ・ストーンがこの賞を獲るために払った犠牲をおもうと、
エマ・ストーンを責める気にならなくなる……
今年エマ・ストーンが演じたベラというキャラクターに対して、去年のミシェル・ヨーの演じた役は本当に「良い役」だった。
子供と家族への愛に目覚め、やがて世界をも愛で包むカンフー主婦の役だ。
映画を見終えた後、ミシェル・ヨーの好感度まで上がるような良役だった。
一方のエマ・ストーンだが、彼女が受賞スピーチをする際に、彼女が劇中でさらした裸を思い出さなかった者がいるだろうか。
哀れなるものたちを観た人、つまりあの場にいた恐らくほとんどの者が、エマ・ストーンの親か夫でなければ知りようもないようなエマ・ストーンの身体を知っていた。
ここにいる全員から裸を見られていて、そこまでの犠牲を払っていても誰が受賞するかわからないというまさに「生殺与奪を握られた」極度のプレッシャーの中で、
全ての民族に配慮する王のような泰然自若とした振る舞いをとっさにとれなかったといって、彼女を責めるべきだろうか。
あの時彼女は、「アジア人」よりもっと身分の低い「女」という被差別民の意識でいたのかもしれないと感じた。

ロバート・ダウニー・Jrに関してはまた違う視点だが、
受賞式では、受賞作の世界観やキャラクターをどれだけ出すことが望まれるものなのだろうか。
というのも、ロバート・ダウニー・Jrのやった役というのが今どき珍しい本当に意地悪な役だったのだ。
だから、あの場でニコニコと感じの良い笑顔で登場し、
一人ひとりに丁寧にあいさつしていたら、
彼の演じた気難しい策士、ストローズ役の世界観をぶち壊すことになる。
それにこのオッペンハイマーという作品が、
日本人という「アジア人」を大量に殺した兵器について真正面から取り扱った作品であり、
この作品に真剣に携わった者が日本人をはじめアジア人をここに来て「軽視」することが果たしてあるのだろうか、とは感じた。
真珠湾攻撃や特攻隊による被害などを想起して、日本人をはじめとしたアジア人に対する「敵意」がある者であればいたかもしれないが。
もしかするとアジア人への罪悪感が、
あの場でキー・ホイ・クァンから視線をそらさせた理由だったのかもしれない。

二人が一切の釈明をしなかったのは、
アジア人を差別した、という
そんな気が一切なかったから、取り合うのもバカげていると感じたからではないか。

まぁ、本当にアジア人を軽視していたのかもしれないが……

8月の公開じゃなくてよかった。


私は幼い頃、学校で教わる原爆の話が恐ろしすぎてトラウマになってしまい、 
大人になるまでずっと原爆関連の話に耳を塞いできた。

でも、それではいけないという自覚もあった。
それで最近になって、ようやく広島の原爆資料館を訪れたしだいだ。
ほんの5年前の話だ。

間違っていたら訂正してほしいが、
そこで学んだことは、
原爆が投下されてから一年余り、
実はかん口令的なものがしかれ、
広島と長崎に原爆が落とされたことは、当時の日本に広く知らされていなかったらしいということだ。
それがどうしてここまで、
日本人なら原爆の話を知らない人がいないほど、
みんなにとって原爆の話が共通認識となったのか?
それは広島と長崎の被爆者の方々が、
原爆の脅威について広く知らせることを望んだからだ。
当然の感情だと思うが、
「復興」のイメージの妨げになるから、
辛い過去をいつまでも思い出させるから、
原爆ドームを撤去したい、という地元の人の意見もあったそうだ。
しかし広島の人々は原爆に対して「怒り続ける」ことを選んだ。
人生において「怒り続ける」ことを選ぶことは、どんなに大変なことだろうと思う。
市民が一丸となって広島、長崎の原爆の被害を世の中に発信し続けたからこそ、
結果としてほとんどの日本人がその痛みをシェアすることになった。
それはなんとその79年後にまで及んで、外国の人からバービーのミームなどで揶揄されると、まるで自分や自分の家族が原爆の被害に遭ったみたいに、多くの日本人が感情的になって怒った。
核戦争の脅威について、こんな風に当事者性を持って国際社会にその悲惨さを訴えられる国民は、世界で日本人だけなのだ。
そのことの素晴らしさ、また貴重さについて想った。

私の両親の出身は山口県で、
二人とも初めて自活したのは広島だった。
だから、8月6日が広島にとって祈りの日であることを、私も幼い時からきいていた。

オッペンハイマーは世界に必要な映画で、
日本でももちろん、公開されるべきだったが、
私たち日本人だけは、8月や7月の下旬に思いを馳せるのは「オッペンハイマー」ではなく、「広島・長崎の被爆者」でありたいと思う。
だからこの映画の封切りが、日本においては夏の時期でなくて良かった、と思った。

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