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オタク仲間だと思っていた古い知り合いから突然背中を刺された劇場版ガンダムSEEDFREEDOM感想

評価:未評価(良かったとも言えるが、嫌いとも言える……積年の思いもあり複雑。いつも以上に客観視できないと判断したので未評価とした)
ネタバレあり
20年前に無印、DESTINYともにオンタイムで欠かさず全話見た、関連グッズにいくら使ったか分からない当時のファンという立ち位置


何度も書いているが著者は新興宗教2世であり今日に至るまで処女である。

そういう生い立ちゆえに社会のすみっコでなんとか息を殺して暮らしてきた。

そうした人生の苦しみをやわらげるためのオタク趣味でもあるというのに、
古いオタク仲間から
「恋愛こそ至高。やってない童貞(処女)は4ね」みたいなことを言われると、
心を許していた古い知り合いからいきなり背中を刺されたみたいで、そんな……🥺ピエ
みたいな気持ちになった。

ただの被害妄想だと思う。

好きな人も多い作品なので誰かを傷つけたら怖いなという気もするが個人として感じたことを正直に書いてみる。

お時間がございましたらどうぞ

ガンダムと腐女子


著者は歴の長い腐女子であるが、
初めて腐女子友達ができたのがガンダムWであった。

中学の時にできたこの腐女子友達からは、
自分ではとうてい思いつかないような萌えるカプ妄想が飛び出してくることがあり、
心底ありがたい存在であった。

インターネットのない時代で、
同人作品や二次創作に触れる機会もあまりなかったが、
私も友人も自然と、
腐女子の基本的な行動様式である、
特定の二名のキャラクターが恋愛関係にあると仮定し、公式に一切そのような描写がなくても二人の恋愛関係がどのようなものであるのか?
ひたすら妄想を走らせ続けるということをしていた。

なぜ自分が、
クラスメイトのカッコいい男の子に対する興味よりも、
すなわち自分ごととして「恋愛活動」に手を伸ばすよりも、
アニメ作品の実在しない男の子同士の恋愛の方に夢中になってしまうのか、
自分でもわからなかった。

いや、もちろん、
自分が容姿端麗なめちゃモテ委員長ではなかった、というのが一番の大きな理由であろう。

それ以外にも、恋愛には強い興味があるものの、
社会の求める女性性を自分が担っていくことが恐ろしく、気持ち悪くて、なんとかして拒絶したいと思っていたのではないかと思う。

他にも母のやってた新興宗教が、
殺人の次くらいに(普通の)セックスを大罪としていたから、(普通の)恋愛に忌避感があったというだけかもしれない。

ともかく「自分は恋愛に飛び込むことはできない」、
と強く感じていたので、
当時は同性愛については本当にマイノリティで社会の影に隠れていてほとんど存在しないかのように扱われていたこともあり、
良くないことだと今ならわかるが、
身近にそうした生き方をする人も、そうした生き方の大変さも知る機会がなかったので、
同性間の恋愛について、自由に空想を広げ放題だったのだ。

くどくど書いたが、
そういう訳で長らくガンダムは私の弱さや、
社会から求められる女性性からの逃避先としての役割を担ってくれてきた。

しかしそれは「ガンダム」という作品が、
時代にさきがけてフェミニズムを正しく内包し、
見る者に女性性という抑圧からの開放をもたらす作品であった、という意味ではない。
ただ「ガンダム」を取り巻く「ファンアート」に、
女性性からの開放のニュアンスが含まれているものがあった、ということに過ぎない。
なので私が今回のこのガンダムSEEDFREEDOMから「背中を刺された」みたいな感じを受けたとしたらそれは本当に被害妄想で、
公式ははなから女性性からの開放といったテーマを扱ってはいなかったというのが正しい。
「ガンダム」に女性の感じる生きづらさなどを扱う責務はない。

しかしここは個人の感想を書く場であるので正直に書くが、
ガンダムSEEDとは20年前、このように女として(もしかすると「人間として」かもしれない)挫折していた私にとっての命綱、たった一つの避難先となっていたので、
(簡単に言い換えると、つまり、
20年前の鬱病一歩手前に元気がなかった私にとっての唯一の楽しみがアスラン受けのBL同人だったので)
こうして20年後に恋愛至上主義をテーマに劇場版として戻って来られてひるんだ、というしだいだ。
長くなったが。

シンプルにキモい、でもそこがいいような気もした


とはいえ、
「ガンダム」で先進的な男女観、恋愛観を扱う必要はないとは言っても、
作中で特にラクス・クラインが、
「理想の女性」としての役割を担わされているように感じたことがキモくもあった。
テレビシリーズの時からそうだっただろ、
と言われればそうで、今更かもしれないが……

とはいえラクスは、
今作で誰よりも意思がブレなかったし、
鋼みたいな心と、外見の美しさを兼ね備えた強い女性として、20年前から心のどこかで憧れているとも思う。

そのラクス・クラインだが、
今作で新興国との歓談の場という最高度にフォーマルなシーンにツインテールで登場、という常識をブチ壊すファッションをしていてたまげたが、
未来のファッションに現代的な価値観を持ち込む方がナンセンスだろう。
ラクスはツインテールでSFの世界観を体現していた。

それと、なんだろう。
やっぱりなんかキャラのクリエーションが魅力的なのは変わらないなと感じた。

ファウンデーションのロリババアをはじめ、
オルフェラムタオ、ブラックナイツ、アグネスといった映画初出のキャラはみなキャラが立っていてどこかチャーミングで、
名前も特徴もすんなりと覚えることができた。

たった2時間の映画でもこうして印象に残る、
想像をかきたてる魅力的なキャラクターを創れる監督の作品だったからこそ、
20年前も2年以上に渡って熱狂できたのだろう、と実感した。

映画冒頭から、
もってまわったようなスカしたセリフが続き、
カッコよさとダサさが3:7
もしくは6:4くらいの割合で移ろっていく。
キモい、ようなカッコいい、ような感じだ。

監督の理想の女性像、
理想のカップル、
青少年によるスポーツのような戦争
スカしたやりとり……
そういった福田己津央監督の持つ「理想」や「美意識」が煮凝りのように具現化されていると感じた。

率直にキモい、とも感じたが、
しかし、映画作品とはそもそも個人の「美意識」を煮凝りにするものではないだろうか。
そういう意味で、個人の脳みその中をまさに覗かせていただいたということだ。

私は映画からこういう「個人の理想」「個人の美意識」みたいのを得たいと思って映画を観ているので、
キモいと感じたことはただの私個人の感想であり、それ以上に、
監督個人の理想の具現化であることは尊く、価値あることだと思った。

納豆ミサイルはやっぱりカッコよかった


ここまでで20年来のファンとは思えないほど
くどくどと揚げ足をとってきたわけだが、
やはりロボットのバトルシーンは非の打ち所がないカッコよさだった。

ロボットアニメに特別詳しいわけでもない、
ただの腐女子の私ではあるが、
乱れ打ちされたミサイルが宇宙空間に描くシュプール、
乗務パイロットにズームしてからのパン、
地球で、宇宙空間での乱戦、
モビルスーツの一騎打ち……

しっかりと「何が起きているか」作り込んだ上で、さらに見栄えするカメラワークが工夫されている。
そうした緻密な計算による見たことのない殺陣のシーン、
ガンダムでしかできない、「モビルスーツ」のダイナミックなバトル。

そうした映像をこんなにカッコよく作れる人間は世界広しと言えどもそういまい。
一瞬「こんなの人間国宝やん……」と感じるほどの圧倒的な技術だと思った。

ポリコレ的に微妙な作劇だというようなことを言ってきたが、
そもそも「世界に比類のないカッコいいロボットの
バトルシーン」の映像を作れるというだけでもスゴいのに、
「戦争の起きる国家間の摩擦」や
「戦場の若者の青春」までをリアルに、
それもキャラも魅力的に、
ポリコレに配慮して描け、と言う方が、
無茶苦茶なのではないだろうか。
このモビルスーツのバトルシーンだけでも十分に価値ある映像作品になってるのだ。

日本における左翼教育ど真ん中みたいな倫理観が逆に新鮮


今40歳の(正確には39歳だ)著者が学生だった頃、
著者は学校やテレビで、
人類が一番憎まなければならない行為は「戦争」であると教えられたし、
まだ戦後の気配も今よりは色濃く残る時代でもあったので、
社会全体にもそういう倫理観が浸透していたと思う。
ジョンレノンのイマジンが、最も美しい音楽として崇拝されていた。

ガンダムSEEDはそのような倫理観のなかで生まれた作品だ。

著者はファーストガンダムを見たことがないのだが、
ガンダムとはファーストからテーマに非戦を掲げていたという。
ガンダムSEEDもそういう文脈の中で生み出された作品なのだ。

しかし時はたち、
0911のアメリカの貿易センタービルのテロも、
ウクライナとロシアの戦争も、
イスラエルとハマスの戦争も、
それ以外の数多くの紛争も、
戦争が起きる瞬間に立ち会っているのに、止めさせるどころかただ見ているしかなかった私たち日本人は、無力感とともに、人類が最も憎むべきは「戦争」である、という倫理観も、いつしか取り下げてしまっていたのだと、この作品を見ていて気がついた。

そもそも現代において、
「人類はなぜ戦争をやめられないのか」とか「世界が平和であるために必要なものは何か」などといったデカ過ぎる話を誰もしなくなった。
そのことにも気づかずにいた。

今作で久々に「世界の平和のために、人類には〇〇が必要なのだ」という言説を耳にし、
最近こういう論説を聞くことなかったなと思ったしだいだ。

とはいえ、時に「左翼教育」とも揶揄されるような以前の日本人における「人類が最も憎むべきは戦争」という倫理観がそもそも本当に妥当だったのか、それさえも無知な小市民である私には判断しかねるが、
戦禍の足音が遠くで聞こえる現代でも、
臆せず、そうしたクソデカマクロ視点で「戦争」や「理想の社会」を非戦を掲げて語ろうとする視点も、あってもいいのではないかと思った。

おまとめ


楽しかった、面白かったが、
やっぱり映画の主題に「恋愛こそ至高」があったことは否定のしようがない。

40歳独身処女、今後も恋愛の予定なし
という意味での性的マイノリティーを生きている者からすると
恋愛しか頭にない連中にあっけらかんと勝たれ、
おまけに「テメーが負けるのは愛(恋愛のこと)を知らねーからだ」と言われて敵がやられる結末には
🥺
↑こういう顔になるしかなかった

とはいえ2時間飽きずに観られ、
観終えて劇場を後にする時には笑顔になっていた。
そう考えたらやはり良質なエンタメであり、
価値ある映画作品であるということも間違はないと思う。

設定が作り込まれている作品なので、
この映画を観るためには前情報として専門用語などの知識がないと訳ワカメ(おばさん表現)であろう。

観に行く予定の人は
ガンダムSEED48話、
ガンダムSEEDDESTINY50話の計98話の視聴が必須になる。
とはいえ一度観ていれば20年前の知識でも大丈夫だ。

逆に
多くのオタクが言うように20年前にSEEDをリアタイしていた人間は必ず観ておくべきだ。

彼ら結末を、ガンダムSEEDの結末を、自分とガンダムSEEDとの関係を、終わらせるために……!


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