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5月4日 書いて、書いて、書いた先にあるもの /哲学と芸術

「書くこと」

お気に入りのもの、好きなこと、嫌なこと、欲求や願望…頭の中に一番に浮かんだものを切り取るかのように日々noteに書き残している。一ヶ月経った。

「日記」としているが、雑紙の端によくあるようなエッセイにも似ている。「とりとめのない」内容でも、思い立ったことを書くよう意識している。

卒論でひたすら文章を書く中で、「椿(わたし)さんはまとまってから書くより、書いてる中で結論を出すのが向いてるね」とゼミの教授に指摘されたことがある。自分でもそうかもな…と気付いたためひとまず書き、推敲する、というのが日々のスタイルになっている。ばーっとものを置いて、そこから一個ずつならべていくような、粘土をどんっとおいてそこから好きな形に合わせて少しずつ削っていくような、そんな感じ。(…といいつつ、推敲はあまり時間がなくできていないのが殆どで、読みづらいときはすみません。)

日々の思いを言語化するということは、呼吸と似ている。

もやもやとしたこと、思い立ったことや残しておきたいことを、ずっと自分の中に残しておくのは、巡りが悪い気がする。

新しい考え、もっと深い考察に出会いたいため、書いている。

きっとそういう人は他にもいるだろうし、そうじゃなくても言葉じゃなくて、絵や写真であったり、踊りや歌であったり色々な表現方法があって、その人ごとに行っているんだろうなと思う。

できるだけ、もっとたくさん書いていきたい。吸い込んだ空気を、全部全部はき出すくらいに。

そうしたら、またもう少し先に進めるはず。



存在するとは知覚されること

今日は哲学ってなんか良いなあとふと思い、たまたま残していた倫理の資料集を読んでいた。

だいぶ忘れていたけど、キルケゴールとかレヴィーストロースとかそういう名前の響きが懐かしくて、なぜかしみじみとしていた。倫理を習うのが中学生じゃなくてよかった。絶対クラス中で何も理解しないままにネタにしたり、中二病を加速させたりしそうだもん笑。そういえば中学生のときに偶然美容院で「ニーチェの言葉」を読み、

さらに偶然「ニーチェ」について仲良しの友達も知ってて(哲学者=ニーチェというくらい有名だからか?だとしても特に高尚とは程遠い私たちが、数多くいる人、数ある言葉の中で、偶然同じものを良いね!って感じていたことに驚いた)当時調べたことを言い合い、ついに高校生のときにはこの本を買うまでになっていたけど、その頃には「ニーチェ先生」などの影響もあってかわりと周りは習う前から知ってた。なんだか思い上がってた感じがして、なんか恥ずかしかったな…中二病っぽい笑

まあそんな感じで倫理、哲学が好きなんだけど、(倫理の始めあたりのギリシャの思想も中国、日本の思想も面白かったなあ)特に良いなって思うのは、否定したり、影響を受けたり、試行錯誤を積み重ねたうえで思想を唱えているところ。例えばベーコンが経験論、デカルトが合理論を提唱し、その調停をカントが批判哲学で行い、さらにそれもヘーゲルによって批判され…というように。

積み重ねて積み重ねて、否定してさらに先に進んで…学問ってそういうものなのだろうな…より善く生きるための学問ってかっこいい。って思わせてくれる。

日々わたしが書き、よりよいものを得ようとしている行為も少し哲学に近いのかも?(並べるにはほど遠く、恐れ多いですが……)


さて、見出しにある「存在するとは知覚されること」はバークリーという経験論側の方の言葉。ふと目にとまって惹かれたのは、普段から意識している考えだからだ。

ここで書いた「誰もいない森で一本の木が倒れた。はたして木は音を出したのか?」というテーマに対しての、’存在は認識があってはじめて成り立つ’という結論とまさに同じことを言っている!と思った。

ちょっとだけつながることができた感覚。

哲学ってなんか響きが良いよねっていうくらいで、まだまだ理解できていないけれど、生きていく中で確実に理解を深めていける予感がしている。

経験や知識をストックしていき、法則を見いだしそこにラベルを貼るように〇〇論とかで整理されていく。〇〇論ってもう世の中に大量にあるとは思うけど、その一つ一つを理解するカギになるのは、具体的な経験、具体例であるはず。いまさらだれも知らない法則を発見するのは難しくても、自分なりに自分の中におとしこむのも、それはそれで意味がある気がしている。年をとるなかで経験や知識をためていくことができるから、そのためるスピードとか質を高めたいな!


認識についてはさらにカントが、感性と悟性の協同により、対象を心の中に構成することだとしている。「対象が認識に従う」(認識のコペルニクス的転回)正直さっきとの違いが分からないな?と思ったけど、対象を心の中に構成するってところがより考えが進んでいるようにみえる。

まだまだ分かってないから、ちゃんと調べようっと・・・。その先もどんどん考えがあるだろうし。それで理解できなかったらまだまだ経験が足らないということで。


今日はあともう一つテーマ

芸術とはつながること

小説を読むのは、そこに描かれている人の気持ちに共感を見いだす、心の指南書のようなもの。「こう思っているのは私ひとりだけじゃないんだ」ってよりどころになるもの…っていう内容の話を国語の評論文でよんだことあるし、よく言われているような気がする。(こういうのが書かれている本についてもし知っていたら紹介してください!m(_ _)m)

それだけじゃなくて芸術そのものもだよね、と教えてくれたのが次の文章。これも倫理の資料集に載っていたから、すごいよね。

旧石器時代、洞窟壁面を通して、 ヒトはイマジネーションを形にしようとする心なるものを芽生えさせました。やがて、もっとそっくりに描こうとする客観性や知恵を身につけ、みなで見ることによって仲間意識を育て、 コミュニケーションが生まれ、みなで助け合うことを知り、「ヒトとヒトの間」と書く「人間」が誕生していったと考えられます。
つまり人間が芸術を生んだのではなく、芸術的発想が人間を生んだといえるのです。
 そして今も大昔も、わたしの叫びを聞いてほしい、と人は歌います。そしてその歌を聞いた人は、わたしのかわりにわたしの心情を歌ってくれている人がいたと知ります。わたしはひとりではない、と芸術は教えてくれているのです。
これが芸術的感動の内実です。
(千住博「わたしが芸術について語るなら、ポプラ社)


洞窟絵画が描かれた意図は分からないけど、人間が芸術を、、、ではなく芸術的発想が先というのは驚き。
この洞窟絵画を例に考えると芸術ってコミュニケーションだなあ、と感じつつ逆にコミュニケーションって芸術なのか!って不思議な発見。

小説も芸術の一つだし、このnoteの前の方に書いたもろもろの表現方法もどれも芸術だ。そしてそれらは心をつなげることができる。

これも深く理解できたわけじゃない。でも素敵だな…。


ここまで読んでくださりありがとうございました。

明日もあなたにとってよい一日になりますように。

p.s「あした」を打ったら朝とでてきたり、「こうい」と打ったら更衣と出てきてなぜか今日の予測変換は平安時代でした。





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