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『花の写真』を聴きながら手紙をポストへ入れる話

TSUTAYAへ月に一度行っては、最新シングルをまとめて10枚借りて、Sonyのウォークマンに入れて音楽を楽しんでいたのが私の学生時代。

そのときにどこかのタイミングで紛れて入ってきたスピッツの「とげまる」というアルバムの中に入っている『花の写真』という歌がずっと好き。

タイトルからすでにただようスピッツ感、軽いメロディ、なんとなく風情を感じる歌詞が、どんなときもあぁこの歌好きだなぁと思うわけ。


これから先、たまたま撮った道端の花の写真を送るような、切れそうで切れない細い縁にもひっそりと憧れた。ずっとずっといまの交友関係が続くものでは無い、変わるものもあるんだと言い聞かせるには十分で、いま思えばその考え方にはエモさも兼ねていた。


それから当たり前のように交友関係も変わりながら、音楽の聴き方も変わった。着メロが革命的だった時代を知っているのに、いまは月額制のサブスクを契約して、新曲も懐メロも、容量を気にせず気軽に聴ける時代がいまの当たり前だ。路上ライブでいいじゃん、と思って検索してみると、メジャーデビューしていなくたって聴けたりする。いいんだけど、それでいいのか、なんて古臭い空気が漂う考えを片隅において、やっぱり当たり前のようにダウンロードをしてしまうんだけれどね。

借りてきたCDをPCに読み込んでいる、なにかをするには短すぎて、でもなにもしないにしては持て余すあの時間や、返却をいかに効率よくするか生活の流れを組み立てるシュミレーションも、何曜日が安いとか、日常だったことなのに、いまこうやって思い返すと懐かしいと思ってしまう。はて、どの瞬間に過去になるのだろう。


ただ、変わるものがたくさんある傍ら、変わらないことももちろんあるわけで、文頭に戻るけれど私は『花の写真』という歌が今でも好きだ。

そして、その歌にはじめて出会った時こそは切れそうで切れない細い縁を想像していたけれど、いまその歌を聴きながら書く手紙は、切れるどころか、細い糸が一本ずつ丁寧に足されていき、紐になってゆき、もしかするとまた細い糸に戻るかもしれないし、ロープになるかもしれない、そんな糸の先にいる友がいる。

なんとなく、手紙が届いたよ!とLINEで伝えたくない気持ちがあって、(だって2週間くらいかな、はるばる届いた手紙のゆくえを秒で届いてしまうツールを使うなんてもったいないじゃない?)喜びを直接には伝えていないのだけれど、Amazonやメルカリで買い物をしていないときも、念のためポストを確認する日々が続いている。そして、届いていたりするからやっぱり今日もポストをあける。

そしてこのウキウキ感はやっぱり同じように返したくて、せっせと手紙を書いて、職場の近くの郵便局へ赤字でAIR MAILと書いた封筒を出しに行くのだけれど、届いているのかいないのか、彼女の方から届いたよというLINEがくることはない。届いていれば、なんとなく同じ気持ち、感性かなと思えるのだけど、届いていないかもしれない、という不安がないわけではない。
これは、郵便を信じていないわけではなく、すぐにレスポンスのくる連絡網に慣れてしまっているからだろうね。


ひと昔前は、渋谷のハチ公の待ち合わせですらすれ違っていたようだし、幼稚園に通っていた頃のかすかな記憶でも、駅には伝言をするためのホワイトボードや黒板があったし、一番親しみのある駅では公衆電話が2機並んでいた。いまもまだ、あっただろうか。たぶん、ない。


昔むかしは、届いたか届いていないのかわからないのに、もう2度と会うことなく終わってしまった縁があったはずだ。それは、顔を合わせられないことの感情的なものもあるだろうけれど、物理的に、戦争や災害で安否がわからず、相手を思って書いていたことがゆっくりと思い出になってしまったこともあっただろう。

それに比べ、いま私が書く手紙は娯楽、趣味、道楽…なんてことのない文通だ。手紙が届いていなかったとして、そのうち顔を合わせることは容易なことで「届いてないよ!」と笑ってもらえるような平和な世界だ。いや、届いているはずなんだけれど。

街のいたるところにあるポストのなかに、今日はどんな物語が広がっているんだろう。きっと、だいたいくだらなくて、でも受け取った人はだいたいLINEよりも嬉しい気持ちになるんだろうな。



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