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スコットランドの家庭医ギャヴィン・フランシスのまなざし——『人体は流転する』より

ちょうど四千人弱の人びとがうちの医療機関に登録していて、時にはその人たちの苦悶が奔流となってクリニックじゅうに溢れるように思えることもある。しかし意識しているのは、同僚たちもわたしも患者さんたちの人生をほんの一瞥しかしておらず、診療とは人間の人生という巨大な潮流につかの間、渦を巻かせるだけのものだということだ。朝の診療時間じゅう、わたしはホスピスへの入院を手配し、不安の嵐を緩和し、熱を出した赤ちゃんに投薬し、抗精神病薬を調整し、治療に向かっている骨折を査定する。(中略)地味でありきたりな仕事もあるし、緊急でドラマティックな仕事もあるが、ほとんどに満足感とやり甲斐を覚える。最高なら医療は人間に変化を起こし、変化に影響する。そして変化の可能性とは希望のことだ。

ギャヴィン・フランシス『人体は流転する——医学書が説明しきれないからだの変化』みすず書房, 2020年. p.264.

著者のギャヴィン・フランシスは1975年生まれの、スコットランド・エディンバラ在住の家庭医、作家。七大陸を踏破した冒険者の顔ももつ。著書にAdventures in Human Being (Profile Books, 2015 〔『人体の冒険者たち』鎌田彷月訳、みすず書房〕, ソールタイア・ノンフィクション・ブック・オブ・ザ・イヤー、英5紙誌のブック・オブ・ザ・イヤー受賞), Shapeshifters: On Medicine & Human Change (Profile Books 2018 〔『人体は流転する』鎌田彷月訳、みすず書房〕) がある。

本書は、スコットランドの家庭医・フランシスが、彼の診療所に毎日のようにやってくる13歳で身ごもった少女、筋肉増強に魅せられた男性、新しい性別で生きることを決意した学者などのエピソードを通じて、変化し流転する人のからだとこころについての洞察を記した書である。
今日、医学は私たちの身体をコントロールすることにおいて前例のない力を持っているが、その力にも限界がある。私たちは、けっして避けることのできない「変わりゆく自分」とどう共生してゆけばよいのだろうか。患者たちとのエピソードをもとに、歴史・芸術・文学・神話など豊富な知識を織り交ぜながら、フランシス医師のまなざしが描かれる。

引用したのは最後の章「変わりゆく世界に抱かれて」より。エディンバラのある町を一望しながら、そこに住むさまざまな患者たちとの交流や、患者一人ひとりの苦悩や喜びに思いを馳せているフランシス医師のまなざしは胸にくるものがる。しかし彼の意識はあくまで「患者さんたちの人生をほんの一瞥しかしておらず、診療とは人間の人生という巨大な潮流につかの間、渦を巻かせるだけのものだ」と謙虚だ。

私も家庭医の一人として同じような思いを胸に抱くことがある。家庭医が患者に向けるまなざしとは、相手を変化させようというものではなく、むしろ相手の苦悩に寄り添い、その苦悩を深く理解し、その場にとどまろうとするものであると。そして、私たちが垣間見たり理解していることがらも、人間の人生という巨大な潮流の中の小さな渦のようなものにすぎないのだということを。


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