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廣松渉がマルクスの中に見出した関係論的人間観

問題は「主体」とか「類」を立ててしまう前に、このフォイエルバッハ・テーゼが唱えるように、まず「社会的諸関係」としての「人間」をとらえ、そこから全体の論を立て直すという関係論的思考の作業である。(中略)要はこの発想上の転換、言い換えればパラダイム・チェンジのキーワードとなった「社会的諸関係」をベースとした理論内容の再構築という作業である。廣松が以後次節にみるような「関係の第一次性」という一般表現をあらゆる場面において使い始めるのも、こうしたマルクスの新解釈と重なり合っているのは言うまでもない。(中略)
廣松がマルクスの中に見出したという人間観は、われわれが前章で見たホッブズやライプニッツのそれと異なって、徹底的に関係主義的機能主義的である。というか、それを超えて社会学に言う役割理論にまで接近している。「個体」は論議の出発点ではなく、反対に関係的行為ないし行為的連関の所産であり結果なのである。

小林敏明『再発見 日本の哲学 廣松渉——近代の超克』講談社学術文庫, 2015. p.78-80.

マルクス主義から出発し、近代を超克するような新たな哲学を目指した廣松渉(ひろまつ わたる、1933 - 1994)の思想について、その高弟である小林敏明氏による解説である。廣松渉に関する過去記事「この意識は私に固有のものか?——廣松渉の「世界は共同主観的に存在する」論について」も参照されたい。

廣松の主たる思想は「世界の共同主観的存在構造」によく表現されているが、要約すると、人間存在の本質を「主体」という近代的抽象物に求めるのではなく、主体や個体というものを超えた社会的諸関係から構築される「関係論的存在」として捉えるところにある。この関係主義的人間観を、廣松はマルクスの考えから見出したと、小林氏は説明する。

マルクスによる「フォイエルバッハ批判のテーゼ」という文章に次のようなものがある。「フォイエルバッハは、宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個体に内在する抽象体ではない。その現実においては、それは社会的諸関係の総体である」と。このマルクスの考えに準拠して、廣松は以下のように考える。「人間」はもはや、初めからアプリオリに「主体」として存在するものとしては捉えられない。そうした想定は近代的思考が生み出した「抽象体」であるにすぎず、むしろ「社会的諸関係」としての「人間」を捉え、そこから全体の論を立て直すという関係論的思考が重要である、と。

廣松は1960年代当時、左翼思想・マルクス思想が陥っていた思想的硬直化を打破するという意味でも、関係論的人間観の思想を主張した。当時のマルクス思想では「疎外」あるいは「自己疎外」という概念が流行していた。簡単に言うと、「疎外」とは、現代の人間が機械やシステムの歯車として自主的な主体性を失った存在に堕している状態を指す。だからこそ、疎外を乗り越え、主体性や人間性を取り戻さなければならないと当時のマルクス主義者たちは主張した。しかし、廣松はそれを次のように批判する。「自己疎外」という言葉が、単に「人間が非本来的な状態に置かれていること」や「人間の非人間化」という程度の意味で使われている。しかし、このような使い方での「疎外」は、そもそも近代的概念である「主体」「対象」「対象化」といったものが前提となっている。つまり、疎外論を支えているのは近代的イデオロギー以外の何ものでもない。むしろ、その近代的「主体」概念を超克することが重要なのだと。

こうしてマルクスの中に見出した関係主義的人間観を、さらに徹底的に哲学的に深めていったのが廣松の関係論的パースペクティブに基づいた共同主観性の哲学であると言える。それは人間存在が、社会的諸関係のうちで初めて成り立つものであり、「個体」は出発点ではなく、反対に関係的行為ないし行為的連関の所産であり結果であるという思想である。廣松は、独自の哲学を打ち立てることで、彼なりの「近代の超克」を目指していた。個体論的人間観から関係論的人間観への転倒は、近代の主体主義・人間主義に対する批判であり超克であった。同様に、廣松は「自然」もまた、それなりの仕方で「歴史化」され「社会化」された存在と捉えている。この「自然の歴史化」もまた、近代的パラダイムである客観主義・機械主義に対する批判であったと言えるだろう。


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