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盗賊と長老——『仏弟子の告白(テーラガーター)』を読む

〔盗賊は言う——〕「われらは過去に祭祀のために、あるいは財貨を得るために、人々を殺した。かれらは、いかんともし難く、恐怖をいだき、おびえ慄え、悲泣した。ところが、お前はおびえていない。顔色はますます澄んで明るくなっている。こんな大きな危険が迫っているのに、お前はどうして泣き悲しまないのか?」
〔アディムッタ長老は答えていう、——〕「頭目(かしら)よ。望み欲することの無い者には、心の苦しみは存在しない。実に束縛が消滅してしまった人は、すべての恐怖を超越している。迷いの生存にみちびく妄執が消滅して、事象をありのままに見たときには、死にたいする恐怖は存在しない。——譬えば、荷をおろしたときには〔ほっとして〕もはや恐怖が存在しないようなものである。わたしは、清らかな行ないをよく実践して来た。道をもまたよく修めた。わたしには死にたいする恐怖は存在しない。——譬えば病気が癒えたときには死にたいする恐怖が存在しないように。(中略)
ブッダによって説かれたようにそのことを理解する人は、いかなる迷いの生存をも受けない。——ひとが灼熱した鉄丸をつかまないようなものである。われには『われが、かつて存在した』という思いもないし、またわれには『われが未来に存在するであろう』という思いもない。潜在的形成力は消滅するであろう。ここに何の悲しみがあるであろうか。諸事象の生起を純粋にありのままに見、(個体を構成する)諸形成力の連続を純粋にありのままに見る人には、もはや恐怖は存在しない。頭目(かしら)よ。
世間を、草や薪に等しい、と明らかな知慧をもって観ずるとき、かれは〈わがもの〉という観念を見出し得ないが故に、『われに(このものが)存しない』といって悲しむことがない。わたしは身体を嫌悪する。わたしは生存を求めない。この身体はやがて裂かれるであろう。そうして他の身体はもはや存在しないであろう。もしもそなたが欲するならば、身体についてなすべきことを為せ。そこでは、それに由来する嫌悪も愛情も、わたしには存在しないであろう。」
かれの、身の毛もよだつ不思議なそのことばを聞いて、若者どもは刀を捨てて、次のように言った、——
「尊い方よ。何をしたので、またあなたの師が誰であるので、また誰の教えに依って、〈悲しみのない境地〉が得られるのですか?」
「わが師は、すべてを知る人、すべてを見る人、勝利者、大いなる慈悲ある師、全世界の人々を癒す医師である。そのかたが、消滅にみちびくこの無上の真理を説き示された。その教えによって、そこで〈悲しみのない境地〉が得られるのである。」
盗賊どもは、仙人のみごとに語ったことばを聞いて、刀と武器とを捨てて、或る者どもはその仕事から離れた。また或る者どもは出家することを喜んだ。かれらは、出家して、幸せな人(ブッダ)の教えにおいて、覚りを得るための〔七つの〕ことがらと〔五つの〕すぐれた力とを修めて、賢者となり、心に歓喜し、嬉しくなって、感官を制して、つくり出されたものではない〈安らぎの境地〉を体得した。
(アディムッタ長老)

中村元訳『仏弟子の告白——テーラガーター』岩波文庫, 1982. p.150-152.

テーラガーター(パーリ語: Theragāthā)とは、パーリ語経典経蔵小部に収録された上座部仏教経の一つで、全21章での構成、すべてで1279の詩が収められている。テーラとは「長老」、ガーターとは「詩句」のことで、「長老たちの詩」という意味。本書は、訳者の中村元が「仏弟子の告白」と意訳したものである。これらの詩は、男性である修行僧たちが自分で詠じたもの、あるいは詠じたとして伝えられているものも多いが、また他の人々がこれらの修行僧について詠じたものもある。実際の作者は多勢いたが、それらがある時期に一つに集成編纂されたものである。その編纂時期は不明であるが、おそらく紀元前5世紀末から前3世紀中葉ころであろうと推定されている。

これらの詩句には、仏弟子たちのみずみずしい感情と告白が表明されている。本人の心のうちでの苦闘、煩悶、それが解決されたときの喜び、ついで起こる清らかな心の静けさが、時代的距離を飛び越えて、私たちに迫ってくる。冒頭の引用は「二十ずつの詩句の集成」に収められたアディムッタ長老の詩である。刀や武器をもった盗賊の若者たちに囲まれて「俺たちは人を殺した」と凄まれるところから話が始まる。しかし長老はまったく動じない。その姿を見て盗賊が「お前はなぜおびえないのか、なぜそんなに澄んだ明るい顔をしているのか」と問う。それに長老は切々と答えるのである。

「望み欲することの無い者には、心の苦しみは存在しない。実に束縛が消滅してしまった人は、すべての恐怖を超越している。迷いの生存にみちびく妄執が消滅して、事象をありのままに見たときには、死にたいする恐怖は存在しない」と。覚りをひらいた涅槃(ニルヴァーナ)の境地を、分かりやすい言葉で長老は説くのである。その語る言葉の中身だけでなく、その人の語る姿、まったく動じず、光り輝くような空気をまとったその存在に感化され、盗賊たちは武器を捨ててひれ伏す。そして「どうしたらそのような〈悲しみのない境地〉に至ることができるのですか」と問い、ある者は出家の道を選ぶのである。

出来すぎた話と思われるかもしれないが、ブッダの弟子の一人であったアングリマーラはほぼ同じ状況で弟子となっている。アングリマーラはある事情から殺人鬼となり、100人の指を集めることを目指していた。99人を殺し、100人目に出会ったのがブッダであった。剣を抜いてブッダに斬りかかろうとするも、ブッダの姿は遠ざかるばかりだったという。「立ち止まれ!」とアングリマーラが叫んだとき、ブッダは「私は立ち止まっている。しかし、あなたは立ち止まっていない」と答える。ブッダが意味したのは、あらゆる命あるものに対して暴力を抑制するという意味で「止まっている」ということであった。しかしアングリマーラの心は暴力と怒りに満たされ、止まることを知らない。そのことを指摘され、アングリマーラは気づきを得て、ブッダの弟子になることを決めたという。



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