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泣き続ける乳児と存在の不快さ——埴谷雄高『死霊』とカント哲学

その乳児が、あるとき「深い闇のなかで」不意に泣きだしたとしよう。そのときかたわらにいるはずの母親は、あるいはふかく眠りこんでいるか、あるいはまた「何かの恐ろしい理由で」そこにいなくなってしまった、とする。いつまでたっても、闇のなかで泣きつづけている乳児のそばに、だれひとりやってこない。「そのとき——と埴谷はいう——、その泣きつづける赤ん坊は、闇のなかで、そして、いわばぼんやり目覚めかけたその原始の直覚の暗い底で、二つの事態に直面する。その一つは、そこに何かが頭を擡げてむしょうに泣かざるを得ぬ自身の内部の《自身ではどうにもならぬ不思議な芯である自身》の異様な在り方」なのである。もうひとつは、これまで慣らされてきた「世界」とまったくことなる外界、その「《泣いてもついに揺り動かされることのない》冷酷で、確固とした、厳然たる存在の薄気味悪いかたち」にほかならない。

熊野純彦『再発見 日本の哲学 埴谷雄高——夢みるカント』講談社学術文庫, 2015. p.42.

埴谷雄高(はにや ゆたか、1909 - 1997)は、日本の政治・思想評論家、小説家である。共産党に入党し、1932年に逮捕・勾留された。カント、ドストエフスキーに影響され、意識と存在の追究が文学の基調となる。戦後、「近代文学」創刊に参加。作品に『死霊』、『虚空』などがある。本書『埴谷雄高——夢みるカント』は、埴谷の長編小説『死霊(しれい)』について、カント哲学を軸にして、哲学者の熊野純彦氏が読み解いたものである。

1932年から翌年にかけて未決囚として刑務所に入っている際に、埴谷はカントの『純粋理性批判』を読んで衝撃を受けている(ちなみに、その年に起きた五・一五事件のニュースを埴谷は独房の中で知った)。カントの何がそれほど衝撃的だったのか。それは「存在の不快さ」あるいは「存在することの不可解さ」をめぐる主題であったように思える。埴谷はカントを読み、この収監時代に、長編小説『死霊』の最初の構想を抱いている。その後『死霊』は、戦後1948年から刊行が始まり、途中25年の長い断絶を経て1995年まで書き継がれた。まさに埴谷のライフワークとなった作品である。

この長い作品は、人間の自由とはなにか、死とはなにか、自由と死はどのようにかかわるのか、また、革命とはなにか、革命運動における死とはなにか、など多岐にわたる主題をはらんでいる。しかし、それにもまして横たわるのが「じぶんの存在の耐えがたい不快さ」という主題である。それが冒頭にも引用した「赤ん坊の泣き声」の話である。旧制高校生である三輪与志は、尾木恒子という女性に対して「赤ちゃんが泣くのを止めてはいけない」という。恒子が「なぜ?」と聞き返すと、与志は「それが唯一の起動力だから」と答える。泣いている乳児を泣きやませることは誰にも許されない、泣きつづける乳児は「自身のなかに」とどまっているべきだから、と与志は言うのである。

泣き続ける乳児が、ただひとり泣きつづけることで測らなければならないのは、神がこの世界を創造したとき以来変わることのない「生と存在の重さ」である。その重みを全身で量ることだけが「自身を揺り動かしてみる起動力」なのである。存在することの不快に身をふるわせて泣きつづけるとき、乳児はやがて、自身とは別のものになろうとする。泣きつづける乳児の声に、存在論のもっとも基本的な動機を認めることが埴谷の立場であった。

生まれたばかりの乳児は、いわば本能的に母親の乳房に吸いついてゆく。このとき乳児は「自己が自己自身にまったく過不足なく、ぴったりと重なっている」ことだろう。乳児のこの状態は、ほとんど「唯一無二の「安定」」であるといっていい。しかし、やがて乳児が眼をひらいて、世界をとらえようとしたとき、その間近な距離に認められるのは、「のっぴきならぬ全存在」としての、母親の顔である。その乳児が、あるとき「深い闇のなかで」不意に泣き出す。そのとき、母親はもう傍らにはいない。その泣きつづける赤ん坊は、闇のなかで二つの事態に直面する。一つは「《自身ではどうにもならぬ不思議な芯である自身》の異様な在り方」であり、もう一つは「冷酷で、確固とした、厳然たる存在の薄気味悪いかたち」なのである。この、「ついに誰もやってこぬ深い闇のなかの赤ん坊の泣きあげこそ、私達の存在論の出発点にほからなない」と埴谷は言う。

乳児は「外界」をけっして容認してはならない。世界は、現にあるそのとおりに肯定されることができない。世界それ自身が、じぶんの存在の耐えがたい不快さに呻き声をあげている。世界の存在は、断じてそのままに許容されてはならない。そうであるなら、まず乗りこえられなければならないのは、世界と存在とにぴったり一致するかたちで存在する、この自己のありかたなのである、と熊野純彦氏は指摘する。そして、この問いはまさにカントが『純粋理性批判』で探求した問いなのであった。

カントが直面した問題とは「私たちのうちにあって表象と呼ばれているものが対象と関係するのは、どのような根拠にもとづいてのことなのか」ということだった。つまり、悟性の使用する概念が「物自体」に対して妥当するのは、どのような根拠にもとづくものであるのか、という問いである。カントは長らく考えた末に、問題それ自身の変容を伴う帰結に到達する。表象がそれに関係づけられる対象は、判断にあっては「超越論的な主語X」としてあらわれる。このXがいわゆる「物自体そのもの」であるかぎりは、それは判断の過程にあってどのような役割も果たすことができない。だから、この超越論的な主語は、あるいはそれじしん感性のうちに与えられるか、あるいはそれじたい意識の統一によって裏うちされるほかないのではないか。

埴谷が人生をかけて直面した主題とは、この不気味な世界の存在のうめき声、存在の耐えがたい不快さ・不可解さであっただろう。そして、それはカントの『純粋理性批判』によってその存在論的思惟を刺激された、独房の狭い場所の小さな窓から空を眺めている1932年のあのときの埴谷の原体験に常に回帰していくものであったのだろう。



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