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アイデンティティが人間の出発点ではない——M・ガブリエルの新実存主義と他者論

このように他者性を同一性の反復と考えるなら、他者性を見ることすらせず、むしろアイデンティティを発明することになります。日本語にはアイデンティティ、社会的アイデンティティに当たる言葉などないでしょう?日本語でも「アイデンティティ」と言っていますね。それは興味深いことです。
なぜなら、他者性に対立するものとしてのアイデンティティという概念は実に問題のある発明で、人間であることの形相と具体的な実現を混同した考えだからです。しかし、このような考え方がドイツ古典哲学では非常に一般的だったのです。(中略)
ですから大事なのは、アイデンティティが人間の出発点ではないということです。人間に特定のアイデンティティがあると想定して、違う者同士の関係に入るわけではありません。本当は違う者同士の関係があるだけです。人間は互いに非常に異なる存在なわけですから。

マルクス・ガブリエル『わかりあえない他者と生きる:差異と分断を乗り越える哲学』PHP新書, 2022. p.24-25.

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )はドイツの哲学者。史上最年少の29歳で、200年以上の伝統を誇るボン大学の正教授に就任。西洋哲学の伝統に根ざしつつ、「新しい実在論」を提唱して世界的に注目される。著書『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)は世界中でベストセラーとなった。さらに「新実存主義」「新しい啓蒙」と次々に新たな概念を語る。NHK Eテレ『欲望の時代の哲学』等にも出演。他の著書に『世界史の針が巻き戻るとき』『つながり過ぎた世界の先に』(ともにPHP新書)など。

本書『わかりあえない他者と生きる』は、「新実存主義における〈他者〉とは何か」というテーマでのロングインタビューにもとづいた本である。他者論は、哲学史において古来より扱われてきたテーマだが、新実在論・新実存主義を唱えるガブリエル氏は、どのように「他者」を、そして「差異と分断」の問題について考えているのかを問うたものである。

まずガブリエル氏は、「他者がいなければ私たちは存在することさえできない」という。私たちの人間性は他者性によって発揮されている。他者性こそ私たちが共有しているものだという。ここでいう「他者性」とは、人間一人一人がもつ差異の総称のことである。それに対して「アイデンティティ」という概念は、人間を同じ構造に従属させるものである。つまり、他者性とは私とあなたが異なるアイデンティティを持っているということではない。私たちが存在する基盤としての「差異」そのものを指す言葉である。そして、私たちの身体も異なる細胞やDNAが共生して成り立っているのであり、一人の人間も差異性=他者性を抱えている。この意味で、他者性こそ私たちが共有するものであり、他者性が私たちを唯一無二の存在にするのである。

従来のドイツ古典哲学では、他者性を「同一性の反復」と捉えてきた。そしてガブリエル氏はこれが間違いだったという。イマヌエル・カント、ヘーゲル、マルクス、そしてハイデガーも、彼らが考えた「他者性」は、同一性の反復、つまり私という主体の反復として他者があるという考え方であった。私は主体であり、あなたも主体である。私は個人であり、あなたも個人である。よって私たちには共通するものがある、という考え方だ。しかしここには大きな誤りがある。他者性について考えるとき、他者を一つのアイデンティティ集団に属するものとして考えているからである。彼らは本当の意味で他者性を抜本的に見て論じることができなかった、とガブリエル氏は手厳しく批判する。そしてハイデガーの哲学が、結局はヨーロッパ人としての人間を想定していた(それがナチス加担にもつながった)ということを暗に批判する。このような意味で、ドイツ観念論哲学における「アイデンティティ」概念の発明は大きな過ちだった、実に問題のある発明だったと批判する。

私たちが他者との関係性に入るとき、アイデンティティが人間の出発点ではない、ということだ。人間にはそれぞれ異なるアイデンティティがあって、そしてお互いに関係を結んでいくというのは間違いであるという。そこには「同一性の反復」の間違いがある。自分という人間が単一のアイデンティティで包摂されるという誤り、他者が◯◯という属性のアイデンティティを持つ人間であるという考え方の誤りである。しかし、私たちは日常的にそのような見方をしがちである。あの人は◯◯人である(国籍)、あの人は男性/女性である(ジェンダー)、あの人は◯◯出身である(出自)などなど。本当は、違う者同士の関係があるだけであり、人間はすべての人が互いに非常に異なるという事実があるだけである。そして、その他者性=差異性こそが、人間が存在することの基盤なのである。

そして、ガブリエル氏はさらに、この他者性の考え方を推し進めていく。例えば、私たちは他者がいないと自分の考えを変えることもできない。自分では自分の考え方を正せないからである。もし人間が社会と交流せずたった一人で育っていたら、その人物は自己と自己を取り巻く環境も区別できない。つまり、私たちが個人となり、自分を周囲の環境と異なるものと認識するためには、他者が必要なのである。また、私たちは他者に訂正されなければ、私たちは「心」を持つことさえできない。私たちは常に、たえず互いを訂正している。さらに互いを訂正するだけでなく、私たちは他者とやりとりをして、他者に関心をもち、他者に耳を傾け注意を示す。そうすることで、お互いに他者の考えと行動に影響を与える。そうして訂正され続けるものとして、私たちは自分の「心」を持つことができる。つまり、人間は心のレベルですでに社会的なのであり、そのようにして社会を構築しているという。

私たちが差異と分断を乗り越え、どのようにして私たちの中の「他者性」を大事にしつつ、より良い社会を形作っていけるのか。ガブリエル氏の新実存主義には大きな可能性があるように感じる。ソーシャルメディアをはじめとするテクノロジーとの付き合い方にも、大きな分岐点がある。ガブリエル氏は「話し合い(対話)」は決定的に重要だという。「話し合いは万能の解決策」であると強調する。しかし普通の話し合いは、私たちの中の本当の「他者性」を認めることなく、自己弁護に終始したり、お互いの主張の平行線でおわることも多い。それも、アイデンティティを出発点としていること、同一性の反復による過ちなのかもしれない。


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