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精神は自己に不安として関係する——キルケゴールの『不安の概念』を読む

それでは、この両義的な力に対する人間の関係は、いったいどのようなものだろうか。精神は自己自身に対して、また自らの条件に対して、どのように関係するのだろうか。精神は自己に不安として関係する〔自己自身に対して不安をもっている〕のである。精神は自己自身から脱け出すことはできない。精神は、自己自身の外に自己自身をもっているかぎり、自己自身を把捉することもできない。また人間は、まさに精神として規定されるからには、植物の世界に下降することもできない。人間は不安から逃げ出すこともできない。というのも、人間は不安を愛しているからである。だが、実を言うと人間は、心底から不安を愛することはできない。というのも、人間は不安から逃げようとするからである。いまや、無垢はその頂点に達する。無垢は無知である。とは言っても、それは動物的な野蛮さではなくて、精神によって規定されている無知である。だが、これがまさしく不安なのである。というのも、無垢の無知は無にかかわるものだからである。ここには善と悪などに関する知識は少しも見られない。むしろ知識の全現実性が、不安のなかに無知の途方もない無として自らを投影しているのである。

セーレン・キルケゴール. 新訳 不安の概念 (平凡社ライブラリー0882) (p.75). 株式会社平凡社. Kindle 版.(太字強調は筆者による)

セーレン・キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard、1813 - 1855)は、デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、ないしはその先駆けと評価されている。キルケゴールは当時とても影響力が強かったヘーゲル学派の哲学、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。キルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。

本書『不安の概念』は1844年、キルケゴール31歳時の著作であり、代表作『死に至る病』(1849年)の5年前のものである。『死に至る病』では「絶望」の概念が分析されるが、それに先立ち、本書『不安の概念』では、「不安(Angst)」という概念が鋭く分析されている。「不安」は当時新興学問であった心理学においても主要なテーマであった。「恐怖」は明確な対象をもつのに対し、「不安」は明確な対象をもたないものである。「恐怖」はその恐怖の対象となるものを取り除けば無くすことができるのに対して、「不安」は対象をもたないので漠然とした「気分」として感じられる。そして、人間が生きている限り「不安」は人間の精神につきまとう。それは何故なのか。それをキリスト教神学と、反ヘーゲル的哲学の立場から独自の思想で考察していったものが本書『不安の概念』である。

キルケゴールは「精神は自己に不安として関係する」という。「自己自身に対して不安をもっている」とも言いかえている。つまり、不安の根源には精神と自己との関係性がある。精神は自己自身から抜け出すことができない。同様に、人間は不安から逃げ出すこともできない。しかし、人間は不安を愛してもいるという。ここには明らかに両義性がある。精神は不安を愛しつつ、不安から逃げ出そうとする。その根底にあるのは「無知」であり「無」であるとキルケゴールは言う。人間の精神は無垢であり、無知であるという状態にある。ここでいう「無垢」や「無知」という概念は、旧約聖書のアダムの原罪のストーリーが意識されている。つまり「罪意識を欠く罪」、無垢で無知なるアダムがそれとは知らずに罪をおかしてしまった(リンゴを食べてしまった)という事態である。アダムはその行為が罪と知っていてリンゴを食べたのではない。なぜなら、知恵の実であるリンゴを食べる前に、善悪という知恵を持っていなかったからである。

そして、私たちもアダムと同じような状態にある。つまり「善と悪などに関する知識は少しも見られない」状態である。これは、私たち人間が善悪判断をできない愚かな存在ということではない。人間の精神の本質を深く見ていったときに、それは「無知」の状態であるとキルケゴールは考えたのである。そして、その不安の対象も「無なるもの」である。なぜなら、対象が明確に分かるものは恐怖であり、不安ではないからである。私たちは不安の対象について無知の状態にある。その「無なるもの」に対する不安は、それから逃げ出したいという思いと、それを愛している(それから離れたくない)という両義的な状態をもたらす。アダムが知恵の実をおそれつつも、それを食べたいと思ったように。そして、その「無なるもの」の究極的なものが「死」である。動物と違い、私たちは「死」のことを考える。「死」について私たちは無知である。死そのものについて、私たちは究極的に知ることはできない。つまりそれは知識としての「無」なのである。その無に向かって、私たちは惹きつけられつつ、それを避けたいと思う。これが「不安」である。そして、私たちは生きている限り、この不安から逃れることはできない。

本書『不安の概念』では、このように神学的な「原罪」や「無垢」の概念と、心理学的・哲学的な概念である「不安」とが関連づけられながら、不安の本質が検討されていく。その過程では、時間と永遠との関係の分析を主軸にしたキルケゴール独自の時間論も展開される。すなわち、人間は心と身体との綜合であり、その綜合は精神によって構成される。同時に、これは時間的なものと永遠的なものとの綜合でもある。この「綜合」は、「瞬間」において可能となる。瞬間はもともと時間のアトムではなく、永遠のアトムである。瞬間は時間における永遠の最初の反映であり、いわば時間を停止させようとする永遠の最初の試みである、と。このキルケゴールの考えは、その後ハイデガーなどの実存主義哲学における「実存」「現存在」の時間論にも継承されていったと考えられるのである。


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