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承認欲求のゴゲン

『群像』2024/3月号で『ハザマの思考』第6回を読んだ。

副題に「承認欲求と自己実現のハザマ」で、とある。

承認欲求は心理学の用語だったのに、いつからか一般的に使われるようになったのか。

そんなことから始まり「使われている内に本来の意味からかけ離れていないだろうか?」と著者は疑問を持った。

すると、マズローの5段階欲求がヒットした。という前置きだ。

マズローの原典『[改訂版]人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』を読んでみると面白いことが書いてあったという。

承認の欲求
我々の社会では、すべての人々は(病理的例外は少し見られる)が、安定したしっかりした根拠をもつ自己に対する高い評価、自己尊敬、あるいは自尊心、他者からの承認などに対する欲求・願望をもっている。これらの欲求は、二分することができる。第一に、強さ、達成、適切さ、熟達と能力、世の中を前にしての自信、独立と自由などに対する願望がある。第二に、(他者から受ける尊敬とか承認を意味する)評判とか信望、地位、名声と栄光、優越、承認、注意、重視、威信、評価などに対する願望と呼べるものがある。

『ハザマの思考』に引用されていた『[改訂版]人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』より

「第一に」~の太字は私によるもの

承認欲求と聞けば、他者からの承認を第一とするイメージがある。だが、そうではなく、第一に自分の自信が挙げられている。

さらには、

自尊心の欲求を充足することは自信、有用性、強さ、能力、適切さなどの感情や、世の中で役に立ち必要とされるなどの感情をもたらす。しかし逆にこれらの欲求が妨害されると、劣等感、弱さ、無力感などの感情が生じる。これらの感情は、根底的失望か、さもなければ補償的・神経症的傾向を引き起こすことになる。重症の外傷神経症の研究を見れば、基本的自信がいかにひつようであるか、それをもたない人間がいかに無力であるかを容易に理解することができるのである。
(中略)我々は自尊心の基盤を、実際の能力、仕事に対する適切さなどではなく、他者の意見をもとに形成してしまうことの危険性をたくさん学んできた。最も安定した、したがって最も健全な自尊心は、外からの名声とか世の聞こえ、保証のない追従などではなく、他者からの正当な尊敬に基づいているのである。

『ハザマの思考』に引用されていた『[改訂版]人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』より

*「正当な」には傍点がある。
太字は私によるもの

とある。これを引用して、「自らのありようを受け入れ、肯定できる心の強さ」が大事と書いている。

しかし、個人的には「世の中で役に立ち必要とされる」「他者からの正当な尊敬に基づいている」というのは、自分以外から求められたり、認められることにあるように思う。

だが、論者は「健全な自尊心は、外からの名声とか世の聞こえ、保証のない追従などではなく、他者からの正当な尊敬に基づいている」を引き合いにして、「自らの主体的な心のありようこそが大事であることを表現する力強い言葉」と書いている。

正直なところ、疑問が残った。「健全な自尊心は、外からの名声とか世の聞こえ、保証のない追従などではない」で文が終わっているのなら、自分が大切なのは分かるが、どうしても他者という言葉に引っ張られてしまう。

ここはよく分からなかった。引用も中略されているので、略でされた部分に何かあるのではないか?と思っている。

しかし続き読むと、「他者からの正当な尊敬に基づいている」の前文には自尊心の基盤を他者に委ねることに警鐘を鳴らしている。

これを踏まえれば、他者の意見を元に自尊心の基盤を構築をしてはいけないと分かる。

もしかして、自分自身で構築した基盤を他者によって認められることで承認欲求は満たされるのか?と思ったりする。

とはまあ、よく読まなければ、今使われている承認欲求の意味のように他者からの承認が第一と思われても仕方ないように思う。
(私の読解力不足かもしれないが)

けれども、

承認欲求=他者からの承認

が全てではなく、自尊心も大切というのは大きな発見でした。使われている言葉の語源を疑うなんてことはあまりしませんが、自分の悩みの種になりそうな言葉こそ、調べてみる必要もあるんだなと感じました。

調べてみると言っても、何かについて解説したものではなく、原点にあたることが大切だと。

承認欲求から自己実現欲求について。

自己実現とは、ビジネスで使われるようなものとは違う。具体例は書かれていないが、「やりたいことで生きていく!」そんなイメージが自己実現として使われていると思っている。

そうではなく、自己実現欲求を満たした人というのは、何気ない日常に発見を見いだせる人を指すのだそうだ。

これを妨げる要素として、マズローは思考の癖のようなものを挙げている。


経験や慣れを通して、自分の中でレッテル貼りをして、カテゴリーに分けてしまうこと、だと言っている。


これを受けて、論者は効率性を求めた現代人への警告だと書いている。何でも「分かる」ために「分けて」、全体が見えにくくなっている。

マズローは分けることに対しても書いている。


二項対立する「情緒と知能」「理性と本能」を挙げ、健康な人はこれらを別物ではなく、同じものだと考えている。これらを調和させていると。


この心身同一的な考えは、養老先生の「身体で覚える」に近いように感じる。

なんでも頭で解決できると思っているのは間違いで、身体で覚えないと身についたことにはならない。頭で分からない部分を身体で補う。

例えば、体調不良を取っても、精神(頭)では大丈夫だと思っても、身体は悲鳴をあげている。互いに補っていることが分かる。

全体を通してみても、承認欲求や自己実現が1人歩きしている。著名人を引き合いに出して、今の時代にあった意味へとすげ替えている。

先ほども書いた、用語としての原点を当たることが大切に感じる。

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