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正しい、を選択していれば幸せになれると思っていた

正しさ、とか、真面目さ、とか、誠実さ、とか。

そういうものを選ぶことのできる私でいれば幸せになれるものだと、昔からどこかで思い続けていた。そうだと信じていたかった。


歳を重ねるごとに環境が変化して、その度に出会うたくさんの人がいて、私の信じていた"正しい"を選択している人は思っていたよりも少ないことを知った。

これまで仲の良かった価値観の合うはずだった友達の中にも、環境によってなのか元々そうだったのかは分からないけれど、変わっていく人がいて。


そんな人に対して、私は全然寛大じゃないから、どこかでバチが当たって欲しいと願ってしまっていた。バチというか、気づいて欲しいと思った。それが間違いだったと、気づいて欲しかった。

自分の行いを振り返るために、その機会としてバチというものが必要だと思った。

だけどその人たちはみんな、当時も今も幸せそう。
間違いを犯しても、普通に暮らして、普通に幸せそう。


おかしいな、正しいを選択していれば幸せになれると信じていたのに。精一杯の正しいを選び続けてきた私はいつまで経ってもみんなより幸せになれない。

正しさも幸せも、私の物差しでしかないけれど。





すごく仲の良かった友達で、不倫をしている子が2人いた。
私は本当に友達が少ない人生だから、そのうちの2人って大きな存在だった。

そんな2人だったから、私のお父さんが不倫をしていたこと、お母さんはその件でかなり苦しんだこと、私も悲しかったこと、未だに引きずっていること、素直な気持ちを伝えていた2人でもあった。


それなのに「奥さんと子供がいる人と関係を持った」ということを日常の会話の中で平気で私に伝えてきたとき、隠すそぶりもなければ申し訳なさも全く見えなかったところ、すごく悲しかった。


別々の2人なのに、同じことを言っていたな。

「将来、この人と幸せにはなれないと思うけど、」って。


当たり前だよ。
他人の不幸の上に成り立つ幸せなんて、あってたまるか。



そのうちの1人の子は、学生時代から付き合う別れるを繰り返していた人と結婚をした。

仕事も充実していて、立派なお家に可愛いペットたち。
見えない部分に苦難があるとしても、他人を傷つけた代償に相応しいものは何もないように見える。

それにたぶん、今でも当時の不倫相手と連絡をとっていると思うし、会う機会もありそうな雰囲気だった。友達として、なのかもしれないけれど。


もう1人の子は関係がきっと今も続いていて、もう10年ぐらいになるんじゃないかな。

学生時代に始まった不倫関係。
仕事もその人に用意してもらった場所で働いていたり、大学自体も影響されて入学していた。

その人のお子さん達とも面識があって名前も知っている、長期的に関わる機会があったというのだから、自分が何をしているのか、誰の不幸のきっかけを作っているのか、本当に自覚がないんだと思う。


2人とはだんだんと疎遠になって、今では全く関わらなくなってしまった。大切な友達だった。きっとそれは今も変わらない。

幸せになって欲しいと思うし、幸せでいてくれたらと思う。だけどその幸せの形が、私が望むものとは違っていたかな。




私のお父さんも含めて、誰にもバチは当たらない。

むしろ自分のことを正当化して、その思考は固まっていく。
自分の行いを恥じることも反省することもない。


「悪いことをしたらいつかきっとその報いを受ける時が来る」と誰かに言われた言葉、「あなたはたくさん苦労をしてきたからきっとこの先いいことばかりが待ってるよ」とかけられた言葉、私はどれも信じられない。

幸せは平等じゃないし、人生とんとん、にもならない。

バチが当たったな、と自覚できる人はきっと真面目な人たちばかりで、周りから見たらバチが当たったと思うような出来事がその人たちに降り注いだとしても、そんな風に思うことさえないのだと思う。





それでも時々、正しさや誠実さを無視して自分の気持ち、欲に忠実に生きている人たちを見ると羨ましくなる。

不倫は論外だけれど、それは辞めた方がいいんじゃないかなぁ、とか、本当にそれでいいの?と思うような選択をしている人を見たとき、「今が幸せだからこれでいい」と言い切れる人を見たとき、私もそうなれたら幸せを掴めるのかな、といつも思う。


誰にも迷惑をかけなければいい、と思うときもあるけれど、私は将来の自分もその"誰か"に含まれていると考えてしまうから。

今の自分がよくても、今の自分が幸せだから構わないと思ったとしても、この選択を将来の私が恥じたり後悔したりしないかなって。

他人という意味の誰かを傷つけることは絶対にしたくないし、誰かの不幸の上に成り立つ幸せを欲する自分にはなりたくないけれど、今が良ければそれでいいと思う自分にもやっぱりなりたくない。というより、私はそうはなれなかった。


だけどその結果、今が本当に幸せだ、と言えるような機会がなくて、未来を考えすぎてしまって自分自身で手放すことも多くて、いつも幸せは手に入らない。


幸せは、自分の欲を認められたときに訪れるものなの?
素直になって、思いのままに行動できた人にしか手に入らないの?

それよりも正しいことを選ぶほうが幸せになれるって、
ずっと信じていたのにな。





この間、私は素直に応援できなかったことについて2〜3年前から相談してくれていた友達が、やっぱりこうすることにした、と面と向かって報告をしてくれた。

複雑な気持ちだったけれど、「それで後悔しない?」「今だけじゃなくて将来の自分のことも考えられてる?」と聞いた私に、「大丈夫」「今が幸せだからこれでいい」とはっきり答えた彼女が、私にはない強さで溢れているように見えた。


正しいを選択できる方がよっぽど強いと思っていたけれど、私は傷つく可能性のある未来がこわいだけだったのかな。だから一歩を踏み出すことができないだけなのかな。


後悔は、言葉の通り「後に悔やむ」という意味だから、後悔しないと今は思っていたとしても将来どうなるかはそのときの私たちにしか分からないことで。

それでも今の気持ちで選択をできること、その選択に自信を持つことができる強さ、時には正しさよりも必要なことなのかなって。



自分に素直に生きられたら、どれだけ幸せだろう。

報告をしてくれた友達の顔が本当に幸せそうで、すっきりとしていて、正しいとか正しくないとかそんなことよりも、自分の気持ちに正直になった彼女があまりにも幸せそうだったから。

やっぱり、羨ましいなって。


あの日以来、自分の本当に欲しいもの、本当はこうしたいということ、ずっと考えてしまっている。

それでも私は正しさしか選ぶことができない。

一体誰にとって、いつの自分にとっての正しさなんだろう。
その物差しが本当に正しいのか、そもそも分からないのに。


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