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「ココイマトーク」ep5 榎本未来さん、『ウンチとアートカルチャー』


ポットキャスト収録を終えて散歩に出かけたら、犬のうんこが目に付いた。そこら中にある犬のうんちだけど、切れ目が入ったりしていて、それが一本のうんちだったのか、少しづつ力んでキレてる状態なのか、そこまでは確認はできなかった。うんちを見る目が変わってきたのを感じる。

今回はうんちのことについての第2回目。前回ep4のうんちの話が盛り上がったので、うんちを巡る色々なことは、シリーズ化してやっていくつもり。他のクリエーターさんと話しながら、時々未来さんとテーマを決めてやっていく予定。

ポッドキャストの中で榎本未来さんが話していた、アーティストなどの名称をここにnoteします。榎本未来さんの作品他は、note の ep4で見てください。

ポットキャストはここから。↓

五味太郎 

「みんなうんち」 名作らしい。(!)


糞転がし(フンコロガシ

古代エジプト
「太陽神とされた甲虫 フンコロガシ」

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ピエロ・マンゾーニ

アーティストの糞(芸術家の糞)とは、イタリアの芸術家ピエロ・マンゾーニ(1933-1963)による作品。通称「ウンコ缶」。


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30歳で死んだピエロ・マンゾーニついて、実際彼に会ったことのある

ギャラリストの→記事
引用↓

「われわれはただひとつの色を、というより、お互いに干渉し合わない連続したひとつの面だけを用いる。そこではあらゆる余分なものも意味ありげなものも除去されてしまう。それは青い上に青を、また白の上に白を という問題ではないし、自己を表現するということでもない。事実は全く逆なのだ。私にとっての問題は完全な白い面(それは完全な無色、中性的なそれである)をつくるということにある。その面はどのような絵画的現象とも無縁だし、また画面の価値と無関係ないかなる要素ともまったく無縁である。その白は極地の光景でもなければシンボルでもないし、それは白の画面以外の何者でもない白なのである。(つまり、無色の画面は無色の画面以外のなにものでもない)」「無限の空間」(1960)という論文でのマンゾーニの文章

マンゾーニはダダイストの後裔ではなかったと思う。自分の息を風船いっぱいにつめた「芸術家の息」が、マンゾーニの上からの排出物による作品とすれば、ものでもない」ということに盡きよう。「芸術家のくそ」は同じ意図による下からの排出物による作品に過ぎない。いずれも、マンゾーニという芸術家の存在証明だった。実際、マンゾーニが死んで、今なお彼の肉体の直接的な根跡として残っているのは、それらの作品である。

マルセル デュシャン

近代美術から現代美術、ヨーロッパ近代芸術からアメリカ現代美術、視覚的な芸術から観念的な芸術へと価値観が移行するターニングポイントとなる作品である。それゆえ作者のマルセル・デュシャンは「現代美術の父」「ダダイズムの父」とみなされている。(上のartpediaから)

Wim Delvoye(ヴィム・デルヴォア)


アントワープの近代美術館にて、2000年に発表。このうんち製造マシーンは1日2回食事を与えられ、消化・排泄プロセスを行い、美しいうんちを製造する。ポッドキャストで彼女が言っていたことには、「匂いがない」と。

この内容が見れるブログはこの↓。
うんちマシーンCLOAKA、この名前も有名な会社から訴えられたり問題を抱える。(アーティストの意図である。わざとだ!)

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コロナが収束したら(いつだ?)アントワープへ行って、この作品を見ようお思う。アントワープはうちから一時間である、車で。なんてことだ、お隣の国が遠くなりすぎた。


レオス・カラックス『メルド』


TOKYO というオムニバズの映画,3人の映画監督の作品。
レオス カラックス監督の「メルド」は、二作目。
映画の中の裁判でメルドが、
「私の神は、いつも私を私が一番憎んでいる人たちの元に置いておく」
「私は人は嫌いだ、だけど人生は好きだ」
「日本人の目は嫌いだ。女性器を思い起こす」
幼児退行化現象を起こしてる世界を描くには、より幼児化した怪人が必要だったということ。日本の過去の痛みを引き出すように作った」とか。特に今の日本の現象を見ているとぴったり当てはまる。メルドの言葉を借りて出たカラックスの言葉が、私たち日本人に突き刺さる。

とっても興味深いインタビューがこの↓にあるので、ぜひ。


未来さんがとっても影響を受けたアントナン アルトー

『Antonin Artaud』1896年9月4日-1948年3月4日)はフランスの劇作家、詩人、エッセイスト、俳優、劇場監督など幅広い活動を行う芸術家。初期シュルレアリムのメンバー
前衛演劇のパイオニア

この↑の動画は、↓の詩を読んでいます。

糞便性の探求 アントナン・アルトー
糞の臭うところには
存在が臭う
人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ、
肛門の袋を開かぬ事もできた、
しかし彼は糞をすることを選んだ
死んだまま生きることには同意せず
生きることを選んだからであろう

つまり糞をしないためには、
存在しないことに同意しなければならなかっただろう、
けれど彼は存在を失っもいいとは思わなかった、
つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ

存在の中には
人間を
特にひきつけるものがあるのだが
それはまさに
“糞”なのである

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朗読された詩が載ってるのはこちら。

反芸術運動、反芸術の作品を作る人に惹かれてしまうのは、未来さんだけでなく私もだ。う〜ん、やばい道である気がする。

              ↓写真、未来さん提供

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ちらっと未来さんの普段の顔を。
もう成長した大きな超イケメン息子がすでに二人いる未来さん。若い!

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