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「#12」外国人児童としての学校生活

みなさま、こんにちは。カンボジアシアヌークビル在住のそくあんです。
前回のあらすじはこちら。


「新しい土地での出会い」



外国人児童としての入学と言葉の壁


1988年2月、施設を退所して私たち5人家族は市街地から少し離れた2階建ての小さなアパートに引っ越します。そこで新たな生活を始めることにします。そして、2か月後の4月に地元の小学校に入学しました。
当時は外国人の受け入れ児童は珍しく、困難を期した中で校長先生をはじめ担任の猪越先生にはとてもお世話になったことを今でも忘れません。

正門での撮影は父親が行ってくれたのでしょう。
記憶乏しくあまり覚えていないようです。。。
当時は入学式のために新しい洋服を買うお金もなく、赤いランドセルや洋服も善意ある方からすべて寄付してくれたものでした。
学校の手続きは少し複雑だったために事業本部の方の助けによりスムーズに進みましたが、以降の学校関連のプリント書類や先生からの伝達事項は、日本語が得意でない母親に代わって幼い私がほとんど行っていました
また、それが当たり前だとも思ってました。
思い出を辿る限り、当時の私が何語を話していたのかは思い出せませんが、入学後すぐに友達ができたので、多分日本語を話していたのだと思います。ほんの数か月前までは裸足でキャンプ内を駆け回っていたのに。
子供の適応能力は非常に早いと感じました。

それに対して、母親の日本語の語彙力は施設で学んだ小学校低学年レベル、もしくはそれ以下だったのかもしれません。。。
私が成長するにつれて「なんで日本語を勉強しないの!?」と、心ない酷い言葉を投げかけていたのも事実です。


入学式当日は母と父と三人で

県営住宅での生活


両親は朝から晩まで共働きで忙しかったけれど、経済的にけして裕福ではありませんでした。口に出すことはなかったけどきっと子どもが3人いることも家計を圧迫していたのでしょう。
成長するにつれて、子どもたちの必要な衣類や学校用品、娯楽品も増えてくるようになりまして、自転車やゲーム機などが欲しくて「クラスの友達は持っているのに、なんで買ってくれないの?」と親に言ったこともありました。アパートの賃貸料も次第に家計を圧迫していきます。
生活負担を軽くするために、両親は低所得者向けの県営住宅に申し込むことに決めました。
世帯の所得に応じて家賃が決まるため、審査が通れば少しは生活に余裕ができることでしょう。

そして見事に審査が通り、私たちは翌年の1989年春に県営住宅に引っ越しをします。その私たち県営住宅では小学校2年生から18歳まで生活していました。

難民の就職先都道府県に関するデータ


話が前後してしまうのですが、入所者のカリキュラムでは、日本語教育や社会生活適応指導を行った後に職業相談と就職斡旋があります。退所は、難民を受け入れてくれる事業所や雇用主が見つかった場合に行われます。私たちの家族は神奈川県の伊勢原という山と海に近い自然豊かな小さな町に引っ越しました。駅から離れた場所には工業団地地帯やいくつかの県営住宅があります。私の記憶が正しければ、施設から神奈川県の伊勢原に定住した家族は4家族で大半は日本人コミュニティの中で生活をしていました。
隣町の秦野や平塚には、カンボジア以外にもラオスやベトナムの難民が多くいたように思います。

グラフは、1980年2月から1998年3月までの定住促進センターの難民の就職先都道府県を示しています。神奈川県が71.5%と多いのは、工業団地地帯や県営・市営住宅が多かったためだったのかもしれません。


大和定住促進センター18年誌を参考に


大和定住促進センター18年誌を参考に


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SOKOEUN

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