小説「テイク・オフ!」 第3話(全5話)
この作品は #創作大賞2024
#ファンタジー小説部門 応募作品です。
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5.空を映す鏡
【YUNI】
今日の湖はブルーグレイ。私の一番好きな色だ。
白い雲がうすーくさーっと広がっている青空を、映した色。
自転車で走ると、同じ色の風が顔の周りをスーッと抜けていく感じがして、気持ちがいい。
色のついた風は、ハッカみたいな匂いがするような気がする。
今日は大学の航空部に参加したあと、ハルと二人で湖を撮影に来た。
パイロットチームと一緒にトレーニングをするようになってから、ハルは自転車に乗るようになった。ハルの自転車はシュッとしたスポーツタイプで、今日の湖と同じ、ブルーグレイ。私の自転車はママのお古で、レンガ色の、いわゆるママチャリ。
自転車に乗るとき、ハルはイヤマフをはずす。暑いからそのほうが気持ちいいし、つけているとヘッドホンと間違えられて、しょっちゅう大人に呼び止められるんだそうだ。
午後イチは暑すぎるので、撮影の前に私の家(というかママのお店)に寄ってもらって、お昼を食べた。
ハルはバインミーサンドというものを初めて食べたそうで、一口食べて、うわっなにこれすっごいうまいすっごいうまいすっごいうまい、と三回続けて言った。ママはうれしそうにホホホホと笑った。マンガみたいな二人。
私たちは夏休みだけど、平日だったので、お店の席は空いていた。時々テイクアウトのお客さんがやってきて、その度にママは一言二言、必ず世間話をする。
お店の中はちょうどよく薄暗く、弱めに冷房がかけてあって、サーキュレーターの風が気持ちいい。このまま昼寝してしまいたかったけど、そうもいかない。ちょうどいいお天気の時に撮影しておかないと。
ママにコーヒーをもらおうかと思ったけど、ちょうどお客さんが来たところだったので、自分でやることにして、私はキッチンに入った。
やかんにたっぷりの水を入れて、コンロの火にかける。コーヒー豆をスプーンできっちり測ってコーヒーミル(コーヒー豆をひく機械)に入れる。ついでなので、ハルとママの分も淹れることにした。
ミルの蓋を閉めてボタンを押す。ガガガガガガッという音がして、客席でハルがビクッとしてこっちを見た。私はごめん、と手を合わせる。ハルは了解したらしく、うなずく。
サーバー(コーヒーをいれるガラスのポット)にドリッパー(ひいたコーヒー豆を入れる逆三角錐の陶器)を乗せて、ドリッパーに紙のフィルターをセットする。
フィルターの箱には無漂白、と書いてある。この茶色い紙のざらざらした手触りと色が、私は好きだ。
挽きたてのコーヒーをフィルターの中にそっと入れる。
ちょうどやかんの笛が鳴って、わたしは急いでガスの火を止めた。ハルを見ると、ハルもこっちを見て、大丈夫、というように指でOKサインを作ってうなずいた。よかった。
蓋を取ってお湯を少し落ち着かせてから、細口のポットにうつす。
そしてポットからそうっとそうっと、コーヒーの上にお湯を注ぐ。
最初のお湯がコーヒーに吸い込まれた後、少しの間を置いてすーっと湯気と香りが立ちのぼる。
少しの時間コーヒーを蒸らした後、ゆっくり、ゆっくりと、コーヒーの上にのの字を描くようにお湯を注いでゆく。サーバーがうっすら白くくもって琥珀色のコーヒーがポタポタと落ちてゆく。
熱いコーヒーを小さな二つの水筒につめて、私たちは湖に出発した。
湖の全景を撮って、それから外周を少し歩いて撮って、最後に大会の会場になるあたりを撮って、私たちの撮影は終わった。
夏の夕暮れは、明るい時間が長く続く。
ベースカラーのやわらかいブルーグレイに、だんだんいろんなトーンの桃色と、それから橙が混ざりはじめて、やがて紫色がすうっと入ってきて、その分量が増えていく頃に、紺色の夜が来る。
まだそのはじめの方、桃色が少しずつ混ざってくるくらいの時間に、私たちは湖畔に座って、コーヒー休憩をすることにした。
小さい水筒を一つハルに手渡す。
「ありがとう」
私は黙って少しにっこりする。
夏の夕方の熱いコーヒーはおいしい。
「今思い出したんだけど、小さい頃、よくここに家族でピクニックに来た」
湖を見ながらハルは話す。
「あんまりよくは覚えてないんだけど、おにぎりとかゆで卵とか、多分そういうお弁当持って、親たちはこんな風にポットにつめたコーヒーを飲んで。こういうところにビニールのシート敷いて、虹色のシートだった気がする、それでお弁当食べて、時々ボートにのって……」
私はうなずく。
「あのころはここが海だと思ってた」
うちは家族でピクニックに行ったことはなかったな、と私は思う。
パパは仕事が忙しくて、家にいるときは疲れた疲れたと言っていつも寝てた。ママはつまらなそうにしていた。
でもママはだんだん、私とだけあちこちへ遊びに出かけるようになって、それからどんどん元気になった。
そしてパパとママは離婚して、ママはここに来て、お店を始めた。
私は小学校卒業と一緒に転校することになって、たった一人の仲良しだったチカちゃんともはなれちゃって、つまらないけど。
それでも、夜中に目が覚めて、ダイニングテーブルで言い争ってるパパとママの声を聞くよりはずっといい。
絵を描けるからいい。
絵は、私一人で、どこにいても描けるからいい。
いつもいつも、そう思っていた。あの頃も、今も。いろんな色を見て、光を見て、それを描くことに夢中になっていれば、いやな気持ちは私をつかまえなかった。
今日は風が少ない。湖に空が映って鏡のようだ。
子供の頃、鏡の向こうには違う世界があると思っていた。
湖の向こうにも違う世界があるのかな?
あれ、なんだっけ? ──波の下にも都のさぶらふぞ──水の下にも都はございます、みたいな、あれは海の話だったっけ?
そうだ、あれは平家物語。あれは悲しい話だったな。
湖はきれいでコーヒーはおいしいのに、その時なんだか急に、私の気持ちはざわざわした。
風が来る前に、湖に広がる最初のさざなみのように。
【HARU】
「ただいま」
湖の撮影を終えて家に帰ると、玄関に知らない靴があった。
ぼくは玄関ではずしかけたイヤマフを、一応またつける。
「ただいま」
もう一度そう言いながらリビングに行くと。
「ようハル坊! でかくなったな!」
と、大きな声がした。イヤマフをつけておいてよかった。
「あっごめんな、声でかかったな。……よう、元気か?」
声の主はそんな風に小さめの声で言い直した。父さんの友達の横田さんだった。
「お久しぶりです」
ぼくは挨拶して、手を洗いに洗面所へ行く。
「今夜はカレーだぞ」
と、キッチンから父さんの声が追ってきた。そういえばいい匂いがする。
「まったく、来るたびに、植物園みたいだなここは」
カレーを食べながら部屋を見回し、横田さんは言う。
父さんのカレーは野菜と鶏肉とパイナップルが入っていて、とてもおいしい。最近甘口から中辛になった。もっと辛くてもいけそうだな、と食べながらぼくは思う。
横田さんは父さんの大学生時代の数少ない友達で、演劇の演出家という仕事をしている。学生時代からやっていた芝居を、今でも続けているらしい。時々お金がなくて道路工事やなんかのアルバイトをしながら、それでもなんとかいう賞をもらったり、海外で作品を上演することもあるらしい。演劇って大変そうな仕事だ。
「本当にどれでも借りていいのか?」
横田さんが言い、父さんはカレーをもぐもぐ食べながら、ああ、とか、おう、とか、そんな感じの声を出してうなずく。
今回は、二週間後に上演する横田さんの舞台で、たくさんの観葉植物が必要になって、父さんのコレクションからいくつか借りて行くという話らしかった。
そういえば、マンションの駐車場にハイエースが停まっていたかも、と、ぼくは駐車場の風景を思い出す。銀色の、あちこちボコボコの、年季が入った横田さんのハイエース。
カレーを食べ終えて皿を流しに運ぶ頃、父さんのスマホが鳴った。研究室からだ。
大学に行くことにはならないだろうけど(父さんは夜の呼び出しには応じない)長くなりそうだ。
「本当にどれでも持ってっていいから」
と横田さんに言いながら、父さんは電話に出た。
「おう、ありがとな」
と言う横田さんに、父さんは持ってけ持ってけというように手を振り、何やら電話の向こうと話しながら、自分の部屋に入ってしまう。
「運ぶの手伝いましょうか?」
ぼくが言うと、
「ハル坊、いいやつだなあ」
横田さんはにやっと笑った。
横田さんは十個ほどの植物を選んで、それらの鉢を二人で四階から駐車場まで運んだ。うちのマンションにはエレベータが無いので、鉢植えでも大きなものは結構な重労働になる。
「助かるよ、舞台に植物使いたいって思っても、業者レンタルはいい値段がするし、個人に借りるっていっても、運搬や舞台の照明で植物がいたむからって嫌がる人がほとんどだからなあ」
横田さんは汗を流しながらそう言った。
「ちゃんと無事に返すからな」
結局リビングからは大小十二個の鉢植えが出て行って、少しソファ周りにスペースができたけど、それでもまだまだたくさんの植物がある。水やりがちょっと楽になるなとぼくは思いながら、不思議にちょっと寂しくもなる。
ハイエースに全部の鉢を運び終えた時は、二人とも汗だくになっていた。
横田さんはマンションの前の自販機で、冷たいアイスコーヒーを買ってくれた。気温が高いのですぐ缶の表面が水のしずくで一杯になる。プルトップを開けて、一口飲んだ。とってもとっても甘くて、おいしい。
横田さんは同じものを飲みながら、ちょっと失礼、と言ってタバコを取り出した。ハイエースの後ろの、荷物スペースのドアを開けたところに腰掛けて、一服している。携帯灰皿を片手に持って、ぼくの方に煙がこないように気をつかってくれた。
ぼくらはしばらく黙ってコーヒーを飲み、横田さんはタバコを吸った。ぽちりぽちりと明るい星が空に散らばっている。この辺は全然都会では無いけれど、それにしてもぼくが子供の頃に比べて見える星が少なくなったと思う。
「ハル坊は、お袋さんに似てきたな」
と横田さんが言った。
母さんに? 自分では全然分からないけど、横田さんが言うなら、そうなのかもしれない。
横田さんと母さんは父さんより古い知り合いだ。
母さんが美大生だった頃、横田さんの舞台の美術を作っていたそうだ。美術というのは、背景の絵や、セットのこと。
あの人はな、すげー仕事ができたんだぞ、と横田さんは言う。俺のところだけじゃなくて、あちこちから頼まれて、この子はこれで将来食っていけるなってみんな思ってたんだ、と横田さんは言う。
横田さんはそんな風に、うちに来るたびに少しずつ、母さんの話をする。
「なあハル坊、父さんと母さんが初めて会った時の話って知ってっか?」
その日の横田さんの話は、初めて聞くものだった。
「親のこんな話、聞きたくないか?」
「特に聞きたいってわけじゃないけど」
「やめとくか」
「いや、横田さんが話してくれるなら聞く」
そっか、と笑って、横田さんはタバコをぎゅっと灰皿に押し付けた。それからごくっと一口缶コーヒーを飲んで、話し始めた。
学生時代、父さんと横田さんは同級生だった。ある日、クラスメイトのよしみで横田さんに無理やり芝居のチケットを売りつけられた父さんは、客席四十人くらいの小さな劇場に芝居を観に行った。
開演は十九時。冬だったので既にとっぷり日が暮れていた。
上演時間は二時間十五分、いろんな人が出て来る奇想天外な展開の芝居を見続けて、日頃論理を重んじる父さんの頭ははちゃめちゃになったけど、そのラストシーンで劇場の扉が開いた時、父さんはハッとして釘付けになった。さあっと劇場を風が吹き抜けて、頭の中のモヤモヤが全部吹き飛んだみたいに感じた。
そこには青空があった。
夜なのに?
抜けるような青空だった。それは、舞台美術担当の母さんが描いた絵だった。
父さんは、終演後に楽屋から出てきた横田さんに、打ち上げに参加させてくれ、と頼みこんで、芝居の仲間たちと一緒に、小さな居酒屋での打ち上げに参加した。
横田さんに紹介されて、母さんは絵の具だらけの服と両手でニコニコしていたそうだ。
それが父さんと母さんの出会いだった。
母さんの方が一つ年上だったので、父さんの卒業を待って二人はすぐ結婚して、一年後にぼくが生まれた。
ぼくを授かって母さんは舞台美術の仕事を辞めた。代わりを探すのが大変だった、というエピソードを付け加えて、横田さんはその話をしめくくった。
「俺も今でも覚えてるよ、あの青空」
横田さんはそう言うと、飲み終えたコーヒーの缶をゴミ箱に放った。ふちにあたってカコーンと缶が吹っ飛ぶ。
「もー横田さんはあ」
ぼくは文句を言いながら、吹っ飛んだ缶を拾い、自分の缶も捨てた。
さて、とぼくたちは部屋に戻り、ぼくはシャワーに直行する。
今夜は横田さんは泊まって行くらしく、大人たちは飲み会をするそうなので、おやすみなさい、とぼくは自室に引き取った。
母さんが描いた青空を想像しながら、眠りに落ちる。
6.テストフライト
【HARU】
テストフライト(試験飛行)の日は穏やかな晴れになった。
少し風が出ていたけれど、飛行の邪魔にはならないだろうとエンジニアチームが判断した。
湖東大学航空部全員が、朝八時にプラットホーム下に集合。プラットホームというのはもちろん駅のホームのことじゃなくて、湖にある、飛行機を飛ばすための、滑走路があるやぐらみたいな、長くて高い台のこと。ぼくとユニも、それぞれのスマホと予備のバッテリーをばっちり持って集合した。
地元の特権ということで、大会の本番前に現地でテストフライトをさせてもらえることになったとき、航空部のみんなは大興奮していた。
玄さん(地元漁師の時田玄作さん)もフォローのボートを出してくれることになった。飛行機について湖を走り、湖に降りた機体とパイロットを回収する。
どうしても最後は湖に降りることになる(地上に降りる性能と強度はこの飛行機には無い)から、飛行機は壊れてしまうけど、そこでしっかりデータを取ってもう一度作り直すのはとても意味があるそうだ。技術的には一回クリアしていることなので、絶対できる、とエンジニアのピョンさんは鼻息をフンフンさせて言っていた。
今回のパイロットは、パイロットチームのファーストパイロット、市川佐登子さん。
テストフライト前の体力測定・身体測定の時もしっかり適性一位の記録を出して、パイロットチームの皆を悔しがらせていた。勝さんなんか地面に大の字でひっくり返って、かなわねえー! と叫んでいた。
飛行機がプラットホームに設置される。エンジニアチームが機体の最終確認をして、佐登子さんが乗り込む。マイクとカメラを確認して、にこっと笑い、親指を立てた。
エンジニアチームがパイロットチームと交代して、ピョンさん、押山さん、それからぼくは、ライフジャケットを装着して、玄さんのボートに乗り込む。
飛行機の周りにはパイロットチーム。乗り込むのは佐登子さん一人だけど、飛び立つ時は他の仲間の協力がいる。
左右の翼に一人ずつ、尾翼に一人がついて、機体を支える。風を読むのは尾翼担当の勝さんの役目だ。
ぼくはボートで、ユニはプラットホームで、それぞれできる限りの撮影をする。
全員がそれぞれの持ち場でその時を待って……そして、その時が来る。
「行くぞ……GO!!!!」
勝さんの合図で飛行機がプラットホームを走り出す。速度をあげる。走って、走って、──テイク・オフ!
プラットホームからふわりと機体が飛び出した。
わあっと全員が歓声をあげる。
まずは離陸成功だ。
1km……2km……
機体はそのまま順調に距離を伸ばす。
「すげえもんだな、あれ、乗ってるの女の子だろ」
ボートを操縦する玄さんが言い、
「彼女を最大限活かすつくりにしてますから」
にやっと笑って押山さんが答える。
『順調!』
エンジニアのピョンさんのトランシーバーから、佐登子さんの声が聞こえる。
「OKOK! サトさん天才!」
ピョンさんも陽気に返しながら、一方で、飛行機のデータが表示されているモニターと実際の飛行機を、真剣な表情で見比べている。
ぼくは、圧倒されていた。
ただただ、すごいと思っていた。
このためにずっと頑張ってきたけど、それはよく分かっていたけど、それでも実際に飛行機が飛ぶところを見ると、すごいのレベルが違った。
青い空を背景に、ぼくたちの作った真っ白い飛行機が飛んでいる。半透明のコックピットの中で、佐登子さんがペダルをこいでいる。
「さてここから」
3kmを超えたところで、ピョンさんがつぶやいた。
「3km通過。翼のチェックお願いします」
トランシーバーにピョンさんが指示を出す。
『OK』
飛行機の内部を映すモニタの中で佐登子さんがいくつか操作をして、状態を切り替えるのが見えた。
一度プロペラが止まって、再び回り出す。
『羽ばたき、行きます』
両翼が一瞬ふわっとゆるんで、それから、ゆっくりと羽ばたいた。
「よしっ」
押山さんがガッツポーズをする。
プラットホームからも遠く歓声が聞こえた。
飛行機は鳥のようにゆっくり羽ばたいて、少しずつ、少しずつ、上昇した。
「すげえ! マジで上昇してる! 鳥みたいだよオイ!」
押山さんは興奮してボートの上で飛び跳ね、玄さんに、おい暴れんな、と一喝された。
「羽ばたきOK。問題ないですか」
ピョンさんが呼びかけ、
『プロペラの再始動の時に、少し引っかかった感じがあった。今は概ねOK』
佐登子さんの興奮した声が答える。
「了解。では、以降は滑空と羽ばたき混合で。基本的にパイロットの判断に任せます。何かあればこちらからも指示をします」
『了解』
「5km超えたら、旋回行けますか」
『余裕余裕! 10km行っちゃう?』
「ははは、いやいやそれはじゃあ、旋回後に余裕があったらということで」
『OK』
「5km超えたら、またコンタクトします」
『了解』
「……すごいですね」
通信を終えたピョンさんに、ぼくは言った。
「まあね、この天才エンジニアが設計したからね」
口では軽くそう言いながら、ピョンさんは相変わらず真剣な顔をしている。
「ここまでのフライトはどうですか?」
「十分すぎるほどOK。すごくいい。無問題。だからこそ」
と言って、ピョンさんはふとモニターから顔を上げ、風が、とつぶやいて目を細めた。
まるで見えないものを見ようとするかのように。
【YUNI】
すげえすげえすげえすげえすげえ! と勝さんがずっと叫んでいた。
プラットホームを飛び出した飛行機は順調に距離を伸ばして、もうすぐ5kmを通過する。
大会は距離を競うものだけれど、今日は機体の性能を確認するためのテストフライトなので、そこまで長くは飛ばないことになっていた。
この飛行機の最大の特徴である羽ばたき機能と、フライトの難関とされている旋回をチェックしたら、あとは適度に飛んで湖に降りる、という手順になっている。
本気で長距離を飛んだら、パイロットが脚の肉離れなどの故障を起こす可能性があるから。
「5kmだ!」
エンジニアチームの誰かが叫んだ。
皆必死で機体を見つめる。祈るように両手を握りしめている人もいる。
佐登子さんの乗った機体は滑るようにきれいに旋回をして、また皆から歓声が上がる。
そして、それから、突然木の葉がひるがえるように逆さまになって……
いきなり周り中から音がなくなった。真空みたいに。
逆さまになった飛行機は無音の中を、優雅に、ゆっくりと、湖に落ちた。
ワアアアアア、と、急に音が戻ってきた。誰かが叫んでいた。みんな叫んでいた。
「落ち着け! ボートがすぐ救助に行く! 落ち着け! 救急車呼べ!」
勝さんが大声で指示した。
玄さんのモーターボートがすぐ落下点に近寄って、玄さんが湖に飛び込むのが見えた。
逆さまになった機体から佐登子さんを救出して、ボートに上げる。
『こちら押山。パイロットを回収。怪我してる可能性あるから救急車を』
エンジニアチームのトランシーバーから、押山さんの声がした。
「今呼んだ! こちら万全で待機しておく!」
勝さんがトランシーバーをひったくって叫ぶ。
「やべえ、やべえよ」
通信を切った後で、そう勝さんがつぶやいていた。
「普通に降りても衝撃あるのに。ひっくり返っただろ。怪我って…」
救急車が到着して、それからすぐモーターボートも到着した。
玄さんと押山さんとかけつけた勝さんが担架まで佐登子さんを運び、ピョンさんはエンジニアチームを集めて、ボートの中の機材と、ロープをかけて引っ張って来た機体を回収している。
「大丈夫、意識はある。足がちょっと痛いけどね」
担架に駆け寄った皆に、佐登子さんは真っ青な顔で、それでも笑顔でそう言った。
「最高のフライトだったよ。落ちるまでは」
救急車には押山さんと勝さんが同乗することになった。他のメンバーは全員で、機体ほか機材を大学に運ぶ。エンジニアチームはその後検討会議、他のメンバーはひとまず解散ということになった。
ボートからさいごにふらふらと降りてきたハルは、真っ青な顔をしていた。
「大丈夫?」
私は言ったが、ハルは黙って、遠くからぼうっと運ばれる担架を見ている。それから急に口元をおさえて、足元の砂に膝をついた。ハルの喉の奥からぐうっという音がして、それから吐きたいのに吐けないような感じで何度か咳きこんだ。
私はかけよって、
「大丈夫?」
少し大きな声で、もう一度言ってしまった。そのとたん、
「うるさい!!!」
全部吐き出すみたいに、ハルが叫んだ。伸ばした手を、すごい勢いで振り払われた。痛くはなかったけどびっくりした。
「うるさい。うるさい。うるさい……!」
ハルはイヤマフの上から両耳を強く押さえて、そのまま頭を抱え込んで、湖岸の砂浜に膝をつくと、体を丸めるように突っ伏してしまった。小さく。小さく。小さく。
(続く)
第3話、お読みくださりありがとうございました!
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