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小説「テイク・オフ!」 第1話(全5話)

この作品は #創作大賞2024
#ファンタジー小説部門 応募作品です。

◉あらすじ

 聴覚が鋭敏でいつもイヤマフをしている城戸晴臣きど はるおみと、話せるけれど滅多に話すことがない原田由仁はらだ ゆには、大きな湖がある町に住む13歳。
 夏の自由研究を一緒にやることになった2人のテーマは、「まだ見たことのないものを見たい」というもの。
 2人は、地元の湖で開催される大会のために人力飛行機を製作している大学の航空部の活動に参加する。製作や練習を手伝ったり、関係者のインタビューをしてドキュメンタリー動画を作る中で、空でしか見られない「まるい虹」の話をきく。
 ある日、大会前のテストフライトで、パイロットが負傷してしまい…

 眩しい夏の日々を描いた、青春群像小説。

プロローグ:HARU

 空を飛びたい、って思ったことはある?

 青い、青い、どんな絵の具でも高精細のディスプレイでも追いつかないくらい青い空。
 その中で真っ白に眩しく光って浮かんでいる、いろんな形の雲。
 地上を走って、走って、走って。
 それからふわりと浮かんで、少しずつ、少しずつ、空へ近づいていく。

 これは夢じゃない。
 空想じゃない。
 風をとらえた翼が何もない空間をすべる。滑空する。
 流れる風が歌い出す。光が変わってゆく。
(プリズム)
(スペクトル)
(スペクトラム)
 太陽の光が無数の色に分解されて、ぼくたちの周りを飛び回る。
 虹の七色なんかじゃなくて、その間の色も、全然違う色も、もっとたくさんの色。

 空って何色なんだろう?
 混ざってぐるぐる。
 空も風も湖も、全部ひとつのスープやジュースみたいになる。
 そこでぼくたちは、まるい虹を見た。まるい虹と、その向こうに特別なものを。

 何から話したらいいだろう?
 ぼくたちはただ、まだ見たことのないものを見たかった。
 寝返りをおぼえた赤ん坊のように、歩き始めた小さな子どものように。
 ぼくたちはまだこの世界の中で小さく、弱く、出来ることより出来ないことの方が多い。
 欠点もある。泣くこともある。自分は一人だと、全て投げ出したいと思うことも。
 誰もがみんな、そうだ。

 これは、この体で、自分の力で、走って、走って、ぼくたちが空を飛んだ話。
 青い空や白い雲や風や光、それから空でしか見られないまるい虹を見た話。
 きっとその向こうに、君にしか見られない何かが見えることを信じて。

 ──テイク・オフ!

1.それぞれの朝

【HARU】

 今日でちょうど、十三歳になった。

 ぼくの名前は城戸晴臣きど はるおみ。町はずれにポツンと立っている四階建てのマンションの四階の端っこの部屋で、父さんと二人で暮らしている。母さんは八年前、ぼくが五歳の時に、交通事故で亡くなった。
 晴臣という名前は、母さんがつけた。母さんは青い空が好きだったから、と父さんは言う。  
 ぼくは、母さんのことはあまりたくさん覚えていない。毎朝写真で見ているから顔は分かるけど、覚えているかと言われると、記憶の中で映像はぼんやりしている。
 ただはっきり覚えているのは、ぼくを呼ぶ母さんの声。母さんはいつもぼくを「ハル」と呼んだ。

 朝起きてカーテンを開けると、窓の外は一面の曇り空だった。眩しくも暗くもない、均一の、落ち着いたグレイの色。
 ぼくは曇りの日が好きだ。厚ぼったい雲に余計な音がすい取られて、静かな一日が始まりそうな気がする。
 窓を開けて、深呼吸をする。
 ここは四階の部屋だけれど、周りに高い建物がないので空が広い。この町はよく朝に霧が出るけれど、出ていない日は遠くまでよく見える。いつもの方角に小さく湖の一部が見えた。今日はこの空を映して、きっと湖も同じグレイだろう。

 クローゼットを開けて、着替えを取り出す。いつもと同じ、グレイの厚手のコットンのTシャツとデニム。
 ぼくのクローゼットはスカスカだ。扉を開けると半透明の収納ケースが二つある。一つにはパジャマと下着と靴下が入っていて、もう一つにはセーターやパーカーが入っている。
 銀色のバーにはお揃いのハンガーが十本あって、グレイの半袖のTシャツが四枚、同じく長袖が四枚、同じかたちのデニムが二本、ハンガーでつるしてある。ぼくはほぼ毎日、同じ服を着ている。

 廊下を抜けてリビングへ行くと、まだ父さんは起きていなかった。いつも通り。
 リビングには父さんが育てている鉢植えの植物がたくさんあって、カーテン越しの光でわさわさしたシルエットになっている。
 植物をかき分けるようにして窓まで行ってカーテンを開け、窓を開けて、光と風を入れる。  
 朝の光に照らされたリビングは、いっせいに呼吸をはじめた植物たちの気配がたちこめて、まるで植物園みたいになる。

 朝食を作る。
 今朝はパンじゃなくてごはんが食べたい気分だったので、冷凍庫をあける。お茶碗一杯分ずつ取り分けてラップでくるんである冷凍のごはんを取り出して、電子レンジで解凍する。
 味噌汁は昨夜の残りがあったので、そのまま小鍋を火にかけてあたためる。
 おかずはウインナとキャベツと玉子。今日は目玉焼きにしよう。
 千切りキャベツがたくさん入れてあるタッパーを開けて、フライパンでウインナといっしょにいためる。キャベツがすこし焦げてくたっとしてくるくらい。そのくらいまで炒めたキャベツは甘くて美味しい。キャベツとウインナをフライパンの端に寄せて、空いたスペースで目玉焼きを作る。

「おはよう」
 だいたいいつもこのあたりで、起きた父さんがキッチンによろよろと入ってくる。今日も寝癖が爆発している。パジャマのボタンがかけちがっている。父さんは棚からコップを一つ取ると、ザーッと水をそそいでぐーっと飲む。
「昨日も遅かったの?」
 目玉焼きをひっくり返しながらぼくはたずねる。ぼくは目玉焼きはしっかり焼いた両面焼きが好きだ。
「いや、いつも通り」
 コップに二杯目の水をそそぎながら父さんはボソボソ言う。じゃあ三時か四時には寝たってことかなとぼくは思う。

 父さんは大学の研究室で研究員の仕事をしている。
 どんなに忙しい時もぼくと夕ごはんを食べられる時間に必ず帰ってくるけれど、その代わり、ぼくが寝た後も自分の部屋でずっと仕事をしているらしい。大変だなと思うけど、考えるのは趣味みたいなものだから、と父さんは言う。

 目玉焼きとキャベツとウインナを二つの皿にとり、父さんの分の食パンをトースターにセットして、ぼくは自分の分の皿とごはん茶碗と味噌汁のお椀、麦茶のコップと醤油さしをお盆に乗せて、テーブルに運ぶ。ごはんの日の目玉焼きには醤油をかけたい。
 入れ替わりに父さんがキッチンに入り、やかんでお湯を沸かし始める。すぐに湯気が立ちのぼり、お湯がわく。夏はお湯がわくのが早い。父さんは銀色の細い口のポットにお湯をうつして、コーヒーをゆっくり二杯いれる。一杯は自分の分、もう一杯は母さんの分。

 父さんは毎朝欠かさず母さんの写真の前にコーヒーカップを置いて、おはよう、と言う。母さんは木の額縁の中でにっこり笑っている。長い髪をひとつに結んで、デニムのオーバーオールを着て、両手にいろんな色の絵の具がついている。父さんが出会った頃、ぼくが生まれる前、母さんは絵を描く仕事をしていたそうだ。 
 隣にもうひとつ額縁がある。こっちの写真には父さんと母さん、それから5歳になったばかりの小さなぼくが写っている。両側を父さんと母さんに挟まれて、ぼくは両手をカメラの方へ伸ばし、今にも走り出しそうにしている。

「晴臣」
 朝食の食器をシンクに運んで、歯磨きをし、顔を洗い、家を出る支度をしていたら、父さんに呼び止められた。
「何かほしいものはあるか?」
 突然そうたずねられてぼくがキョトンとしていると、父さんは口ごもってうつむき、
「えーと、ほら、誕生日」
 と言った。
 そういえば、今日はぼくの十三歳の誕生日だった。
「忘れてた」
 とぼくが言うと、父さんは少し笑ってぼくを見て、
「おめでとう」
 と言った。
「ありがとう。ほしいものは……特にない」
 せっかくだけど、何も思いつかなかった。
「そうか。後からでも、何か思いついたら言いなさい」
「わかった。行ってきます」
「気をつけて」
 まだ寝癖をつけたまま父さんは言った。
 ぼくはうなずいて、靴をはき、バックパックを背負い、イヤマフをつけて家を出る。

 イヤマフというのは、ヘッドホンみたいな見た目で、頭にかぶって耳に装着すると、防音の機能がある。つまり、耳をすっぽりおおう形の耳栓のようなもの。
 ぼくは生まれつき聴覚がすごく過敏だ。
 甲高い叫び声やガラスを引っ掻く音など、誰でもみんな苦手な音があると思うけど、ぼくはみんなが平気な音でもとてもうるさく感じてしまう。雑踏や駅、商店街のざわめき、車のブレーキや自転車が走り抜ける音。なんてことないそういう音が、ぼくには爆音に聞こえる。不安になり、頭が痛くなり、ひどい時はパニックになって叫んでしまったりする。なので、ぼくは今では、家から出ている時間はほとんどこのイヤマフをつけている。

 この耳のせいで、ぼくはスポーツや部活もうまく参加することができない。本当は走るのが好きだし運動も好きなのに、チームメイトとうまくやりとりできなかったり、突然何かの音でパニックになってしまうことがあるから。
 ぼくが特に残念なのは、大好きな自転車に乗れないことだ。イヤマフは全部の音を消してしまうわけではなくて、強い音が小さく聞こえるように設計されているだけなので、自転車に乗ったらいけないということはない。ただ、その分、近づいている車や踏切なんかにはもちろん十分気をつけなきゃいけない。
 そもそも聞こえすぎるからイヤマフをつけているわけで、ぼく自身は自転車に乗っていて不便や不安を感じたことはない。でも、そんなことは他人からは分からない。通りがかりの大人に呼び止められて、危ないからヘッドホンをはずしなさい! と言われることがよくあった。最初のうちは、これはヘッドホンではなくて、ということを説明していたけど、あまりたびたびなので面倒になって、ぼくはそのうち自転車に乗ること自体をやめてしまった。
 なので、ぼくのお気に入りのブルーグレイのクロスバイクは、もうずっとマンションの駐輪場に置きっ放しになっている。

【YUNI】

 デデッポー、デデッポー、デデッポー
 鳩たちの鳴き声は何色だろう?
 そんなことを思いながら目が覚めた。

 私の名前は原田由仁はらだ ゆに。この名前はママがつけた。初対面の人はほとんど読み方がわからないし、漢字がしぶいので男の子に間違えられることもある。でも私はこの名前が好きだ。「唯一無二」という言葉からとったのよ、とママはいつも誇らしそうに言う。

 私は、湖のそばの小さな古い四角い二階建ての家に、ママと二人で暮らしている。ずっと東京に住んでいたのだけど、去年ママとパパが離婚して、小学校を卒業すると同時にこの町に引っ越してきた。
 ママの故郷は隣の県なので、最初私はどうして? と思った。おじいちゃんやおばあちゃんの近くに住んだ方が、何かと便利で安心じゃないのかなと思ったから。
 とんでもない、とママは言った。これから私とユニは新しい生活を始めるのよ。だったら、住んでみたい街に住んでみたいじゃない。
 この町は、湖の町だ。大きな湖と、観光と、それからブドウや桃、キウイと言った果物の農業の町。

 朝起きると私はまず窓を開けて湖の色を見る。
 今朝は少しだけグレイがかった濃いミルク色をしていた。朝早くから霧が出て、天気もくもりだったから。
 着替えて階段を降りる。洗面所で手と顔を洗う。
 この小さな家の一階は、ほとんどがママが営んでいるサンドイッチのお店スペースだ。キッチンがそこにしかないので、私とママもそこで朝ごはんと夕ごはんを食べる。その時間はお店は閉まっているので大丈夫。

「おはよう、ユニ」
 早起きの私よりさらに早起きのママがにっこりして言う。
「おはよう」
 ママは朝ごはんを出してくれる。今朝はサンドイッチだ。
「新作?」
 お店の新メニューかな、と私は思う。
「そうなの。どうかな?」
 とママは私の顔をのぞきこむ。
「うわっ、からい!」
 びっくりして私は目を丸くした。
「サルサソースをきかせてみたの」
 ママはにっこり笑ってそう言い、私は水をごくごく飲みながら指でOKマークを出した。
「うん、からい、けど、おいしいよ」
 赤いからいソースとやわらかいお肉、たっぷりの野菜が合わさって、口が少しヒーっとなるけど、すごくおいしいサンドイッチだった。

 ママのお店のサンドイッチは、ふつうのとはちょっとちがう。バインミーサンドという、ベトナムのサンドイッチだ。やわらかめのフランスパンのようなパンに、やわらかく煮たお肉と、たくさんの野菜と少しの香草が入っていて、とてもおいしい。香草は苦手な人もいるので、お客さんの好みに合わせて入れないこともできる。
 ありがたいことに観光客にも地元の人にも評判が良くて、ママのお店はなかなか賑わうようになった。ほとんどがテイクアウトだけれど、ほんの数席、店内でも食べられる席がある。

 小さな四角い木造の家で、洗面所やお風呂やトイレは一階の奧、ギシギシ鳴る階段を登って二階が私とママの暮らす部屋になっている。二階には部屋が二つあって、どちらも和室だ。小さなテレビと本棚とちゃぶ台と大きな押し入れがある六畳間がリビング兼寝室兼ママの部屋、腰高の窓がある四畳半が私の部屋。
「ごちそうさま」
 朝ごはんと歯磨きをすませ、コーヒーカップを持って、私はもう一度自分の部屋に戻る。ここに越してきてから私たちはめちゃくちゃ早起きになったので、毎朝ゆっくりとコーヒーを飲む時間がある。ママがブレンドしたデカフェ(カフェインがほとんど無い)のコーヒーは、味が濃くて香りがよくて、とてもおいしい。

 窓から見える湖の色、ぽってりしたカップの色と、その中のコーヒーの色、コーヒーの水面に映る窓の外の樹の枝や葉っぱ、薄曇りの空と重なる雲のいろんな白の濃淡、ふいに枝から飛び立つ鳥の羽の翠、お気に入りで毛玉だらけのキャメルのひざ掛けの色。ここでの暮らしはいつもきれいな色でいっぱいだ。
 私がコーヒーをのんでぼーっとしている時間、階下のキッチンではリズミカルにいろんな音が続いている。水音、刻む音、炒める音、煮込む音、戸棚や冷蔵庫を開け閉めするバタンバタンという音。ママがお店のための仕込みをしている、カラフルな音たち。

 私の部屋の家具は小さな座卓とタンス、木でできた簡単な洋服かけだけ。あとは私があちこちで集めたり拾ってきたりした、小さなものたちがごちゃごちゃ置いてある。
 くもった青いガラス瓶とか、白いすべすべの小石、レースの端切れ、陶器でできた小さい猫とミルクの皿、ママの香水の空き瓶をもらったもの、オレンジの帽子をかぶった木彫りの人形、おばあちゃんからもらった古いラジカセ、無数の傷でケースがくもったカセットテープ、巻尺、絵の具の箱、それからたくさんの使いかけのパステル。

 デデッポー、デデッポー、デデッポー
 鳩が鳴いている。庭に柿の木があって、そこに毎朝鳩がたくさん来る。スズメも来る。ツグミも来る。鳥たちの食べ物が無くなる季節になったら、ママは果物を半分に切って、鳥たちが食べられるように枝にさすのだと言っている。

 だいぶ霧が晴れてきた。私は腰高の窓から半分身を乗り出すようにして、外の空気を深く吸い込む。かなり身をのりだすので、ママにはいつも落ちないでよと言われる。
 コーヒーにうつった空の中で、雲が流れていく。
 そうだこの色を作ってみよう。
 私は部屋の中に戻り、机の上のパステルに手を伸ばす。

 私の机の上にはいろんなお菓子の空き箱や缶のようなものが並べてあって、そこにたくさんのパステルを大雑把に色ごとに分けて入れてある。
 パステルというのは絵を描くもので、クレヨンに似ているけれど、クレヨンと違ってロウで固めていないので、パサパサとした乾いた感じがするところが私は気に入っている。色そのもの、光に近いものという感じがするから。
 机の上のラジオをつける。知らない音楽が流れてくる。私はラジオが好きだ。いつものディスクジョッキー、パーソナリティ、リスナーからのメール、天気予報、交通情報、それからいろんな音楽が流れる。懐かしい音楽、とつぜん出会う新しい音楽。

 私とママの生活ではよくラジオが流れている。テレビもあるけど、ママはお店が忙しいし、お店を閉めた後も帳簿や何やかやの作業があって、ほとんどテレビを見ている暇がない。私は家にいるだいたいの時間をぼんやりしているか絵を描いて過ごしているので、テレビよりラジオの方が合っている。

 私は静かにしているのが好きだ。
 家ではママと普通にしゃべるけれど、学校ではほとんどしゃべらない。
 小学校に上がった頃から、だんだんそうなった。小学校を出る頃にはほとんどしゃべらなくなった。大人たち(主に学校の先生)に心配されて、いろいろな場所でいろいろな検査を受けたこともあったけど、学校でしゃべらないだけで他に特に問題はないということがわかった。

 私はただ静かにしているのが好きなのだ。
 色が、よく見える気がするから。
 色は、よく見るとひとつの色ではなくて、たくさんの色が集まってできている。私たちの体が、たくさんのいろんな細胞が集まってできているように。それを時間をかけてあせらずにゆっくり見ていくと、色の流れみたいなものが見えてくる。
 例えばこのカップの中の、コーヒーの水面に映った空と雲は、全部いっしょくたにコーヒーの色をしているんじゃなくて、空と雲とコーヒーの色をしているんだけど、そもそもコーヒーの色っていうのは、空の色っていうのは、雲の色っていうのは……っていうこと。
 ゆっくり見ていると、色はどんどん広がっていく。音楽みたいに。匂いみたいに。おいしい味みたいに。夜に見るカラフルな夢みたいに。
 曼荼羅みたいね、と、ある時私が描いているスケッチブックを覗き込んでママが言った。マンダラ? と私が聞き返すと、曼陀羅っていうのは、うーん、なんていうか、宇宙の地図みたいなものね、と言って、ママはにっこり笑った。
 宇宙の地図。
 私は私の宇宙の地図を、毎日パステルでもくもくと描く。世界は毎日違うから、描きたいものたちは次々出てくるから。

 ユニ、そろそろ時間よー、とママの声がする。
 学校に行かなきゃいけない。私は名残惜しくパステルを机の上の缶に戻す。指についた色と光のかけらたち。
 私は部屋に差し込む朝の日差しと、ごちゃごちゃした部屋中のいろんなものが、みんなそれぞれいろんな色で光っているのををじっと見つめる。

2.すべてのはじまり

【HARU】

 何でも聞こえすぎるぼくの耳だけど、その時ばかりはぼくもちょっと自分の耳を疑った。
 今日のHRの内容は、夏休みの自由研究について。
 担任の植村先生はホワイトボードの前で、確かにこう言った。
「今年は自由研究を、グループでやってもらいます」
 ええーーーー! と教室中がどよめいた。
 ぼくは目立たないようにそっとイヤマフを抑えて、聞こえる音量を調節した。
 賛同の声、反対の声、質問、おどける声、笑い声、教室の中をいろんな声が飛び交って、
「はい静かに!」
 先生は大きな両手をバンバンと打つ。
「あなたたちも中学生になって、初めての夏休み。誰かと一緒に一から何かをやるという経験は、とても興味深いと思いますよ」
 再び教室の中は大騒ぎになる。
「静かにー!」
 再び先生が両手を打つ音。
「そう、人はそれぞれ違います。みんな違います。だから面白いんです」
 そう言って、先生はホワイトボードにさらさらといくつかの条件を書いた。

・2人以上。人数・男女比、自由
・夏休み明けに発表すること
・みんなに発表できる形にまとめること 壁新聞、工作、動画など何でも

「では、グループを作りましょう」
 と先生は言い、みんながワアッとなって立ち上がった。

【YUNI】

「原田さん」
 私はまたぼんやりしていた。呼びかけられて顔を上げると、私の机の前に一人の男子が所在無げに立っていた。
 ええと、この人は、確か、
「城戸くん」
 思い出して名前を言うと、城戸くんはこっくりうなずいた。いつも大きなヘッドホン(ちがう呼び名があったはずだけど何だったか忘れてしまった)をかけている、物静かな男の子だ。

 城戸くんは私の机の前の席に座った。見回すと、その席の主は教室の別の場所にいた。休み時間みたいに、みんな席をはなれて教室中を歩きまわっている。
「原田さん、あれ」
 と城戸くんは黒板を指した。そこに書かれていることを読んで、私は遅ればせながらびっくりした。
 今年は自由研究を誰かと一緒に?
 それでさっきからみんなザワザワしていたのか。今も教室中を歩き回っているのか。
「いっしょにやらない?」
 と城戸くんは言った。私は改めて教室を見回す。みんなもうあちこちで大小のグループになっていて、残っているのは私たちだけだった。
 私はこっくりうなずいた。
「ありがとう、よろしく」
 ホッとしたみたいに城戸くんは言った。こちらこそありがとうホッとしました、と私は思った。城戸くん、下の名前は何と言ったか、ええと、確か、はる、ハルオミ、晴臣。

「私はユニ」
 私の発言が唐突だったので、城戸くんは目を丸くした。またいろいろすっ飛ばしてしまった。
「原田さん、そうか、名前が…ユニ」
 私はうなずいた。それからまた私たちはしばらく黙った。
「えっと、何かテーマとか……やりたいことある?」
 城戸くんがたずねた。
 そしてまた沈黙。

 城戸くん自身も、特に何もないのかもしれない。まあ、いきなりこんな課題を出されたって、すぐには何にも思いつかない。
 それでも考えてみると、私だったら、私だったら……
「まだ見たことないものを見たい」
 私は言い、城戸くんは、え、と聞き返した。声が小さかったかな、と思って、私はもう一度、今度は少し大きな声で言った。
「まだ誰も見たこともないものを見てみたい」
 城戸くんは少しびっくりした顔をして、それから指でヘッドホンに触り、
「大丈夫、普通の声で聞こえる、ありがとう」
 と言った。
 ──まだ誰も見たこともないもの?
 そして、私たちはまた沈黙した。しーん。

(続く)


第1話、お読みくださりありがとうございました!

◉続きはこちらです

◉こちらのマガジンにもまとめています

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