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小説「テイク・オフ!」 第4話(全5話)

この作品は #創作大賞2024
#ファンタジー小説部門 応募作品です。

◉前回までのお話はこちら
小説「テイク・オフ!」第1話はこちら
小説「テイク・オフ!」第2話はこちら
小説「テイク・オフ!」第3話はこちら

◉前回までのあらすじ

 聴覚が鋭敏でいつもイヤマフをしている城戸晴臣きど はるおみと、話せるけれど滅多に話すことがない原田由仁はらだ ゆには、大きな湖がある町に住む13歳。
 夏の自由研究を一緒にやることになった2人のテーマは、「まだ見たことのないものを見たい」というもの。
 2人は、地元の湖で開催される大会のために人力飛行機を製作している大学の航空部の活動に参加する。製作や練習を手伝ったり、関係者のインタビューをしてドキュメンタリー動画を作る中で、空でしか見られない「まるい虹」の話をきく。
 ある日、大会前のテストフライトで、パイロットが負傷してしまい…

7.三つの音と新しい飛行機

【HARU】

 うるさい。うるさい。うるさい……
 何もかもがうるさかった。ただ苛立っていた一週間。
 ぼくはあんな風にユニに怒鳴ったことを後悔していたけど、自分から連絡することはできなかった。
  ユニからも何も連絡はなかった。

  ぼくは日中はずっと部屋に引きこもって過ごし、夕方になると筋トレをした。それからジョギングに行き、一度戻って父さんと夕食を食べてから、もう一度自転車でロードワークに行った。
 ずっとパイロットチームと一緒にトレーニングしていたので、決まった運動をしないと体がなんだか気持ち悪かったのだ。
 それに、体を動かしている間は余計なことを考えないですんだ。あの日のことを思い出さずにすんだ。
 父さんはぼくの様子がおかしいことに気づいていたけれど、放っておいてくれた。特に何も聞かずに、毎日ぼくの好きなメニューを作ってくれた。
 オムライス、ハンバーグ、焼き魚、それからパイナップル入りの特製カレー。

 一週間めの夜に、押山さんからスマホにメッセージが入った。電話ではなくてメッセージだったことに、ぼくはほっとしていた。
 メッセージには、よかったら佐登子の見舞いに行ってやってくれ、と書いてあり、佐登子さんが入院している病院のURLがはってあって、面会時間や病室の番号が添えられていた。
 少しだけ悩んだけれど、ぼくは一週間ぶりに、ユニのメッセージ画面を開いた。

【YUNI】

 病院の廊下は清潔で明るい。消毒アルコールの匂いと、夕食のメニューだったのか煮物みたいな匂いが少しする。
 一週間の引きこもりですっかり夜型になった私たちは、面会時間のぎりぎりに病院に到着した。
 佐登子さんはアキレス腱を切るという大怪我をしていた。担架の上で笑顔を見せていたのが信じられない。すごすぎる。
 佐登子さんが今どんな風に過ごしているのか、私は、そしてたぶんハルも、少し彼女に会うのが怖かったけれど、病室のベッドの上の佐登子さんは予想外にすっきりとした顔をしていた。私たちの方がきっと、暗い顔をしていたと思う。

「元気? ひさしぶりだね」
 と、佐登子さんは言った。
「暑いよね毎日。体調とか崩してない?」
 ギプスで足を腿まで完全固定しているのに、私たちの体調を気づかってくれる。
 ええと、とハルが口ごもった。
 ハルが口ごもってしまうと、私たちはたちまち沈黙の湖に沈む。
 しーん。
 しばらくの間を置いてから、佐登子さんがにっこり笑った。
「押山くんに聞いたよ。あれからずっと休んでるんだって? もう取材は終わり? 充分動画取れたかな?」
 私はハルの顔を見た。それから、ブンブンと頭をふる。
「ええと、そうじゃないんです。ぼくら、なんていうか……ええと、それよりも、大丈夫ですか、佐登子さん」
 ハルは、口ごもりながらもようやくしゃべった。
「私? ありがとうね。大丈夫だよ。そりゃ足はアキレス腱切ってるからさ、大丈夫じゃないけど、気持ちも、すごく落ち込んだけど、事故は、仕方ない。そう思えるようにようやくなったところ」
 佐登子さんはギプスを見ながらさっぱりとそう言う。
「そうですか…」
「撮影はもう終わりにするの? 事故見て怖くなった?」
「怖くなったというか…」
「ごめん言い方がよくなかったね。ショックを受けた? て思ったの。受けて当然だと思う。飛んでいたものが落ちて、怪我して、救急車が来て、そりゃビビるよね」
 佐登子さんは言った。
 私はうなずいて、ハルを見る。
 ハルも同じだとおもったのに、ハルはうなずかなかった。少し青い顔をしている。少し震えている。
 大丈夫? と私は思ったけど、言葉にはしなかった。あの日怒鳴られたことを思い出したから。
 私はだまってハルを見ていた。
 佐登子さんもだまってハルを見ていた。

「ぼく……ぼく、あの日、音を聞いたんです」
 思いきったように顔を上げて、ハルがそう言った。
「音?」
 佐登子さんがきいた。
「ごめんなさい、佐登子さんにはいやな話かもしれない」
「大丈夫だよ。話してみて」
 ハルは少しだけためらった後、大きく息をすって、話し出した。
「あの日ぼく、モニター越しにですけど、三つの音を聞いたんです。一つ目は、翼を始動したとき。少しひっかかる感じがする、って佐登子さん言ってましたよね? その時に、確かに少しひっかかるような金属音がしてました。二つ目は、旋回の時に、回り始めて少ししたら、カチカチカチ、というか、キキキキという、小さい音がしたんです。いくつか。それで……」
「うん」
「三つ目の音は、機体があおられてひっくり返って、水面に落ちるまでの間に、何か、運動会のピストルみたいな、パーン! ていう音がしたんです。それでぼく、頭が真っ白になって、気持ち悪くなってしまって。その音がずっと頭の中で鳴ってて……」
「そっか……」
 そう言って佐登子さんはしばらく黙り込んだ。それから急に手を伸ばして、ハルの両手をぎゅっとつかんだ。
 佐登子さんはベッドから動けないので、ハルがひっぱられてトトっとベッドに近寄る。
「ハルくん、ユニちゃん、よかったら、今の話、部の皆に教えてあげてくれないかな?」
 そう言いながら佐登子さんの目にみるみる涙がもり上がって、すうっと一すじその頬に流れ落ちたので、私たちはびっくりした。佐登子さんが、泣いてる!
「ごめんね。泣いたりして。ハルくんのせいじゃないの。これはね、うれし涙」
 え? と、ハルは聞き返した。うれし涙?
「ハルくんが聞いた三つめの音は、私のアキレス腱が切れた音だよ。ハルくんは運動会のピストルみたいな音って言ったけど、私には、ピアノ線とかチェロとか、そういう大きな楽器の強い弦が切れた音に聞こえた。不思議だよね。かかとのそばの怪我なのに、耳のそばでバーンてその音が響いたんだ」
「それは、事故の、衝撃で?」
 ハルくんがたずねる。
「ううん、落下する前に、なんとか体制を立て直そうとして、めちゃくちゃにペダルを踏んだの。その時だった。ずっとトレーニングで体に負荷をかけていたから、無理しすぎていたんだと思う」
 佐登子さんは淡々と話した。
「私がさっきうれし涙って言ったのはね、そのめちゃくちゃ怖い音を、いっしょに聴いてくれた人がいたんだって思ったから。すごく心強かった。もう心の整理はできたけど、私もあの音は今でも忘れられない。……ハルくん、つらかったね」
 ハルは目をつぶって佐登子さんの手をぎゅっと握っていた。ハルの肩が少し震えていた。きっと泣くのをこらえていたんだと思う。
「すみません、佐登子さんの方がつらいのに」
 佐登子さんは笑ってハルの手をポンポンとたたいてはなした。それから、私たち二人をじっと見て、
「もう一度お願い。ハルくんが聞いたあと二つの音のこと、もしできたら、これから大学に行って、皆にそれを伝えてくれないかな?」
 と言った。
「え、皆、今大学にいるんですか?」
 とハルがびっくりしたように言った。私もびっくりした。
「もちろんだよ。私は怪我しちゃったけど、まだ飛行機作りは続いてる。テストフライトのデータをとって、改良版の新しい飛行機を、みんな一生懸命作ってる」
 ベッドから身を乗り出しそうなくらい、佐登子さんは一生懸命私たちを見てそう言った。
「ハルくんが聞いた音の話、きっとエンジニアチームのヒントになると思うから」

【HARU】

 自転車をとばしてぼくたちは大学へ向かった。
 大急ぎで駐輪場に自転車を停めて、倉庫へ向かう。倉庫の灯りはついていた。体育館のような扉が開いていて、こうこうとした明かりと、音楽が漏れている。みんなあそこで作業しているんだ。
 ぼくたちは走った。
 夢の中を走っているようにふわふわとしていたけど、ぼくはあっという間に倉庫の入り口に着いていて、すぐあとにユニも追いついた。

 倉庫中に航空部のメンバーがあふれていた。
 機体のパーツを作っているチーム、機構の図面を囲んで話し合っているチーム、トレーニングをしているチーム。
「おう! 久しぶり少年少女!」
 急に後ろで大声がして、ぼくらは飛び上がった。初めてここに来た日のように。
 押山さんが立っていた。
「さっき佐登子からメッセージもらって、待ってた。夜食買ってきた。一緒に食おうぜ。おーいみんな、軽食ここに置いとくぞー」
 押山さんはそう叫ぶと、中央の大きな机に軽食の入った袋をドサドサと置き、なんでも好きなの食べろ、とぼくらに言う。
「ありがとうございます。あの、ぼくら佐登子さんに」
「おう見舞いな、行ってくれてサンキュほんとに」
「はい。それで佐登子さんから、エンジニアチームに話してくれって言われたことがあって」
「お、そうなんか。じゃあ、ピョンさんよぶか」
 押山さんはそう言うと、ぼくらにソーセージロールとメロンパンを投げてよこして、
「おーいピョンさん! ビッグな情報!」
と、エンジニアチームに声をかけた。

【YUNI】

 ハルはピョンさんに、聞こえた二つの音の話をした。
 最初はフンフンと聞いていたピョンさんの顔色が途中で変わって、私たちはエンジニアチームのデスクがいくつか集められた、「シマ」と呼ばれている一角に連れて行かれた。
「いやマジだったらすごい、マジですごい、なので、まずは検証、確認、検証、確認」
 そう言うとピョンさんは、テストフライト当日のビデオレコーダーと、音声レコーダーの内容を用意した。
「音声確認します。すこしお静かに!」
 エンジニアチームの誰かが言って、倉庫内が静かになる。
「じゃ、流すから、ハル坊、それが聞こえたらすぐ教えて? ヨロシク。じゃ、回して」
 さくさくとピョンさんが言い、音声が再生される。
「えっと……ここと……ここです」
「マジか?」
「今なんか聞こえたか?」
「いや?」
 周囲のみんながざわざわする。連続した機内の音とトランシーバーでのやりとり、佐登子さんの呼吸音以外、私には特に何も聞こえなかった。みんなのざわざわをピョンさんは両手でさえぎり、
「静かに。もう一回回して。分岐して俺にもヘッドホンちょうだい」
と指示した。
 いつのまにか、倉庫中のメンバーがエンジニアチームのデスクの周りに集まっていた。
 データが再生され、ハルはもう一度同じところで、ここと、ここです、と言った。
 ピョンさんがものすごい真面目な顔でヘッドホンをとる。なんだかいつものピョンさんじゃないみたい。ゴッホとか、そういう人の顔みたい。
「すげえぞ、見っけた」
 そう言ってニヤリとわらったピョンさんは、もういつものピョンさんだった。
「ギアボックスの徹底改良! 修正箇所はほぼ特定できた」
 うおおおおお、とエンジニアチームがどよめいた。
 改良できるんですか? とパイロットチームの勝さんが前のめりできいた。
 曇ったメガネをシャツでごしごしふきながら、ピョンさんはニヤリと笑った。
「もちろん。問題が見つかったんだから。問題っていうのはね、その問題がどこかっていうのが見つかりさえすれば、かならず解決できる」  
 倉庫中のメンバーがどよめいた。あの日、飛行機が飛び立った時みたいに。

【インタビュー6:ふたたび市川佐登子さん】

 淡海総合医療センター、整形外科入院病棟、病室にて撮影。
 ベッドの上には、右脚をギプスで膝上まで固定した市川佐登子さんが座っている。
 インタビュアーはカメラのこちら側にいる。

佐登子さん「えーそんなわけで病院にいます。人生初、入院です。驚きました。初めてアキレス腱切りました。
 でも、落ちるまでは最高だったな、と思います。初めて空を飛びました。いろんなこと思うんだろうなと思ってました。でもね、終わってみると、不思議と……不思議と特に何にも覚えてないの。ただ必死で、そこにいて、一瞬一瞬がすごく長い時間に思えて、でもあっという間で、なんか本当に不思議だった。
 普段私たちはいろんなことを分けて考えている。善と悪とか、ポジティブとネガティブだとか。でも空中に飛び出したら、そういうのは、結局一緒なんだって私は思ったんです。上も下もない。右も左もない。すべては自分がいる位置と視点を変えたらぐるって変わることで、同じ事柄の別の面なんだなって。最後、宙返りなんかしたからかもしれないけど。ははは。こわかったー
 さすがに落ちる時は怖かった。怪我をしたことは悔しいです。でもいまは、ようやくだけど、心の整理がつきました。それは、一人ではなかったから。最初からいつも、そして私がいちばん怖かった瞬間も、いつもメンバーが私といっしょにいてくれた、ということがわかったからです。どうもありがとう。
 これから航空部は、代わりのパイロットを選出することになります。私も参加したいけど、今回はさすがに無理です。なんとか外出許可をもらって、大会を見に行けたらいいんだけど。
 くりかえしになっちゃうけど、悔しさも、怖さも、今でもあります。でもそういうのは、誰もがみんな人生の中で、それぞれ、出会って、持っていくものだと思うから。私は人生というフライトに、この記憶を大切に持っていきます。……なんて、ハハハかっこいいこと言っちゃった。
 えー、パイロットの資格に、大会では特に制限はありません。歴史的に振り返ると、筋力、持久力、総合的な体力から二十代の男性パイロットが多いけれど、女性もいますし、十代の出場も記録にはあるそうです。ずっといっしょに頑張ってきた仲間たちから、新しい飛行機に、最適のパイロットが選ばれることを願っています」

 真っ白なシーツの上で祈るようにぎゅっと握られた佐登子さんの両手の指を映して、撮影終了。

HARU】

 ようやくぼくたちの時間は動きはじめた。
 きっかけをくれたのは佐登子さんだ。ただ、本当に今を取り戻すためには、ぼくには自分自身でやらなければいけないことがあった。

 また明日、という約束をして、ぼくとユニは航空部を出た。すっかり日が暮れていたので、ぼくたちはそれぞれの親にスマホから連絡をいれて、ぼくがユニを家まで送っていくことにした。
 並んで自転車を走らせている間、ぼくはずっと考えていた。ユニは何も言わない。ぼくは、自分があの日ユニにしたことを思い返していた。

 湖のそばの、ユニの家に着く。自転車を停めて、ユニが家に入ろうとしので、ぼくはあわてて、ユニの腕をつかんでしまった。ユニがびっくりして振り返る。
「えっと、あの、あの時は、ごめん!」
 ぼくは焦って、一番単純な言い方になった。かっこ悪かったけど、これしかなかった。
「本当に、ごめん」
 ユニは何も言わずに、ぼくのことをじっと見ていた。
「あの時、せっかく……ユニが声をかけてくれたのに、ぼくはうるさいって言ったんだ」
 ユニはただ、ぼくをじっと見ている。
「本当にごめん」
 ユニはすこしだけにこっとして首を横にふった。気にしないでというように。
「ぼくは…………怖かったんだ」
 恥ずかしかったけど、ぼくは自分の最後の気持ちを言った。
「ぼくは怖かった。ずっと、うまく行くって思って頑張って、うまく行ってうれしくって、それが一瞬で全部ひっくり返って、何もかも無くなってしまう。そんなふうに思ったんだ。それでユニに八つ当たりしたんだ。ぼくはだめだった。何にも頑張れなかった」
 話してる途中で頭がじーんとして、顔が熱くなって、ぼくは下を向いた。スニーカーが踏み締めた下草を、風がさわさわとゆらしていた。ぼくのグレイのスニーカーと、ユニの白いキャンバスシューズ。

「何も無くなってなんかいない」
 小さな声がして、ぼくは顔を上げた。
 ユニがぼくを見ていた。
「何も無くなってないし、全部続いている。今日もまた新しいことが始まった。明日も。毎日ずっと。湖が、毎日違う色をしているみたいに」
 ユニは続けてそう言った。ぼくはびっくりしてぼうっとしてしまった。
「だから大丈夫」
 ユニはそう言って、うなずいた。ユニがこんなに長く話すのを、ぼくは初めて聞いた。
「ユニ、ぼく………パイロットテストを受けたいんだ」
 ぼくはぼうっとしたまま、そんなことを口走っていた。言ってから自分でまたびっくりした。何を言ってるんだろうぼくは。
 ユニはじっとぼくを見つめて、それからうなずいた。
「うん。いいと思う」

【YUNI】

 パイロットテスト。
 筋力、持久力、総合的な体力などの適性測定をして、新しいパイロットには勝さんが決まった。
 ハルは次点だった。すごいことだと思う。ハルは悔しいだろうけど、さっぱりした顔をしていた。
 発表の後、押山さんがもう一つ、大切な発表があると言った。佐登子さんのことかなと私たちは思った。
 違った。
 もう一度テストフライトをする、と押山さんは発表した。
 勝さんは今の機体の適正体重より少しだけ体重が多く、大会までに機体に合わせて減量することになった。
 めっちゃキツイけどなんとかやるっす、佐登子姉のためにも、と勝さんは約束した。
 ただ、筋力を維持しつつゆっくり体重を落とすので、日数が必要になる。大会には間に合うけど、テストフライトには間に合わない。
「そこで少年の出番だ」
 と押山さんは言い、ハルと私はきょとんとした。押山さんはこっちを見ている。
「ハル坊、君にテストフライトで飛んでほしいとエンジニアチームは希望している。大会の規定に年齢制限はない。ましてやテストフライトだから何の制限もない。飛行機にとって純粋に最適のパイロットが選ばれる。ただ、君もよく知ってるように、フライトには危険がある。それでもやってくれるか?」
「はい」
 ハルは即答した。
「やります。ぼく……飛びたい」

【HARU】

 その日からフライトに向けたトレーニングが始まった。
 さらにハードになることを予想していたけれど、半日の参加が全日になったとはいえ、しっかり休憩やストレッチをはさんだ、予想よりも穏やかなものだった。
 追いこみすぎて体を傷めたら元も子もないし、特にぼくはまだ成長期なので、関節や筋肉に負担をかけすぎると故障だけでなく成長の妨げになる、ということで、休息や柔軟性も重視した特別なプログラムを勝さんが作ってくれた。
 勝さんは減量する必要があるので、ストイックに一日中汗を流している。既にしぼられた体なので、体重を落とすのは大変なことだそうだ。体脂肪率がきっと数パーセントになるな、とパイロットチームのみんなは言い合っている。
 ユニはテストフライトでボートに乗せてもらうことが決まり、ピョンさんについてトランシーバーの使い方やモニターの見方を習っている。
 若い女の子とずっと一緒でうれしいなヒヒヒ、とピョンさんは言うけれど、ユニは動じない。ピョンさんはいつもそんな風だけれど、いざという時どんな人なのかぼくは知っているので、心配ない。

 日々のトレーニングの他に、ぼくにはもう一つ、やるべきことがあった。

 ある日、トレーニングを終えてヘトヘトで帰宅すると、父さんは珍しく夜のコーヒーを淹れているところだった。きっと今夜はたくさん仕事を持ち帰ってきたんだと思う。
「おかえり」
 コーヒーポットからちらっと顔を上げて父さんは言った。
 いつもならすぐシャワーに行くところだったけれど、その日はぼくもコーヒーを飲むことにした。
「めずらしいな」
 と言って、父さんは二つのカップをダイニングテーブルに置く。
 それからキッチンに戻ると、もう一つ小さなカップにコーヒーを入れて、母さんの写真の前に置いた。
 ぼくたちはテーブルで向かい合って、コーヒーを一口飲んだ。
「父さん」
「おお」
「誕生日のプレゼント、ほしいものが出来たんだけど」
「おお」
「これ」
 ぼくは一枚の書類を差し出した。
 父さんは黙って受け取って目を通す。
 そこには航空部の押山さんの名前で、この夏ぼくとユニがどんな風に頑張っていたかということ、そしてぼくにテストフライトのパイロットをお願いしたいこと、機体の安全性、ボートなどバックアップについて、怪我をした時はどのように対応するか、などが書かれ、保護者の同意がいただきたい旨が記されていた。
「これに、サインがほしいんです」
 ぼくは言った。
 父さんはしばらく黙って書類を見ていた。何度も読んで、それからぼくの顔をじっと見た。
「わかった」
 父さんはシャツの胸ポケットからペンを取ると、サラサラとサインをした。
「空を飛ぶんだな」
 そして、にっこりと笑った。
 ぼくたちの部屋で、三つのコーヒーカップから湯気が立ちのぼっていた。
 父さんと、母さんと、ぼくの、それぞれの笑顔の前で。

(続く)


第4話、お読みくださりありがとうございました!

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