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【科学者シリーズ#077】死の商人と言われた発明家【アルフレッド・ノーベル】

毎年ノーベルの命日である12月10日に授賞式が行われるノーベル賞は、ノーベルの遺言に従い1901年から始まりました。

このノーベル賞は、はじめ生理学・医学賞、物理学賞、化学賞、文学賞、平和賞の5部門がつくられます。

現在は経済学賞もあるのですが、この賞は1968年にスウェーデン国立銀行が創立300周年の祝賀の一環として設立されたものになります。

そのため、ノーベル財団は経済学賞はノーベル賞とは認めていません。

そんな世界的にも有名なノーベル賞ですが、この賞をつくるまでには一人の発明家の人生が関係があります。

今回は、死の商人と言われた発明家であるアルフレッド・ノーベルを紹介します。


アルフレッド・ノーベル

アルフレッド・ノーベル

名前:アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル
   
Alfred Bernhard Nobel
出身:スウェーデン
職業:化学者・発明家・実業家
生誕:1833年10月21日
没年:1896年12月10日(63歳)


業績について

ノーベルの一番の業績としては、やはりダイナマイトの発明だと思います。

ある日ノーベルは、わずかな振動で爆発するニトログリセリンの危険性を減らす方法を考えていました。

そこで、ニトログリセリンを運搬する際にクッション材としていた珪藻土とニトログリセリンを混ぜ合わせ粘土状にしたものが、爆発威力を損なうことなく安全に運搬できることに気付きます。

そして、1867年にダイナマイトの特許を取得し、これによりノーベルは莫大な財産を築くことになります。


生涯について

ノーベルの父方の先祖には、スウェーデンの科学者であるオラウス・ルドベックがいます。

オラウス・ルドベック

父親は建築家で発明家であり、ノーベルは8人兄弟の4男として誕生します。

ちなみに、成人することが出来たのは8人中4人だけでした。

幼少期から工学に興味があり、特に爆発物に興味を持っており、父親からそれらの基本的なことを学んでいました。

1837年に父親が事業に失敗し、単身でサンクトペテルブルクに行く事になります。

そこで父親は機械や爆発物の製造で成功し、さらに合板を発明し、機雷の製造を始めます。

父親がいない間ノーベルは、1841年から1842年の18ヶ月間だけ学校に通っていました。

1842年には、父親が妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せます。

経済的にも余裕が出来たので、ノーベルに複数の家庭教師がつけられ、化学と語学を学びます。

ノーベルは、フランス語、英語、ドイツ語、ロシア語が流暢に話すことが出来たと言われています。

1850年にはパリへ行き、テオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講します。

テオフィル=ジュール・ペルーズ

1851年にはアメリカに行き、4年間化学を学び、短期間発明家のジョン・エリクソンに師事します。

ジョン・エリクソン

1855年からは父親の仕事を手伝い、この頃にニトログリセリンの存在を知ります。

1857年にはガスメーターについて特許を出願します。

1853年から1856年にはクリミア戦争があり、兵器の生産で大儲けをします。

しかし、戦後は注文がなくなったことと、軍が支払いを延期していたことで経営状態が悪くなり、1859年に倒産してしまいます。

そのため工場は次男に任せて、ノーベルと両親はスウェーデンに帰国します。

工場を任された次男は、受け継いだ工場を再開して事業を発展させます。

その後ノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究します。

1862年には、サンクトペテルブルクで水中爆発の実験に成功し、1863年にはスウェーデンで特許を取得します。

1864年9月3日には、爆発事故で弟のエミールと5人の助手が死亡し、ノーベル自身も怪我を負います。

そのため、ストックホルムでの研究開発が禁止されてしまったので、ハンブルクに工場を建設します。

そして、そこでニトログリセリンの安全性を高める研究に集中します。

1865年には雷管を設計し、1866年には不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくした(初期の)ダイナマイトを発明します。

このとき、莫大な利益を狙ったシャフナーという軍人が、特許を奪おうと裁判を起こすのですが、これにはノーベルが勝訴します。

1867年には、アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得します。

しかしその後、またシャフナーにより執拗なダイナマイトの特許に関する追求が続き、最終的に軍事における使用権を譲渡することで決着がつきます。

1871年には、珪藻土を活用した、より安全な爆薬をダイナマイトと名付け生産を開始します。

そしてその後、50ヶ国で特許を得て100近い工場を持ちます。

1875年にはゼリグナイトを発明し、1887年にはバリスタイトの特許を取得します。

1878年には、兄のルドヴィッグとロベルトと共に、現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社を設立します。

1884年にはスウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれたり、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与されます。

1891年には、兄のルドヴィックや母親の死があり、長年住んでいたパリからイタリアのサンレーモに移住します。

1895年には心臓病が悪化したため、ノーベル賞設立に関する記述のある遺言状を書きます。

遺言状

このときノーベルは、医者から病気の治療にニトログリセリンを勧められるのですが拒みます。

1896年12月7日には、脳溢血で倒れ3日後に死亡してしまいます。



ノーベルという科学者


1888年4月12日に兄のルドヴィックが死亡してしまいます。

このとき、間違ってノーベルの死亡記事の新聞が出てしまいます。

そして見出しには「死の商人、死す」と書いてありました。

ノーベルにとってダイナマイトが戦争で使われることは想定の範囲内で、むしろダイナマイトの巨大な破壊力により戦争の抑止力として働くのではないかと思っていました。

しかし実際は、戦争が激化してしまい、死の商人というイメージがその頃には広まってしまいました。

ノーベルはこの頃から死後の評価を気にするようになります。

そして1895年11月27日に、財産の大部分をあてて国籍関係なく毎年授与するノーベル賞を創設すると遺言状に署名します。

全財産の94%を5部門のノーベル賞の創設に割り当てます。

この初期の5部門は、物理学、化学、医学または生理学、文学、平和の5つでした。

ちなみに、ノーベルは少年時代から文学に関心があったので文学賞を創設したと言われています。

父親が発明家で、幼少期から爆発物に興味があり、はじめは父親から教えてもらい、途中からは家庭教師から教わり化学や語学に興味を持ちます。

その後、安全に使うことが出来るダイナマイトを発明し、戦争の抑止力になるのではないかと思ったのですが、結果としては多くの人が亡くなり死の商人と呼ばれてしまいます。

この事がきっかけで、多くの人に知られているノーベル賞を設立することになります。

今回は死の商人と言われた発明家であるアルフレッド・ノーベルを紹介しました。

この記事でノーベルについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

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