名探偵コナン-ベイカー街の亡霊
今回は名探偵コナン、ベイカー街の亡霊をもっと楽しむために、いくつか解説と考察をしてみたいと思います。
ネタバレありの記事となるので、見たことがない方は先に作品を鑑賞されることをおすすめします。
(文章の書きやすさの都合上、断定形になってしうところがあります。ご了承ください。)
ベイカー街の亡霊とは?
2002年に公開された名探偵コナンの映画で、初期の作品の中でも評価が高い作品です。
一見、ジャックザリッパーの正体を見破る推理もののように見えますが、実はそれは半分正解で半分間違いだと思います。
イギリスのロンドンにあるシャーロック・ホームズに縁が深いベイカー街を舞台として、ベイカー街を彷徨う「亡霊」=既に亡くなっているヒロキくんを探すミステリー&ホラーな作品となっていると思います。
旧約聖書をなぞらえた設定
映画の冒頭で、アメリカにいるヒロキくんが出てくるのですが、実はかなり大切なモチーフの紹介がされています。
ヒロキくんがかけ流しているテレビ番組で、女性のキャスターがこう言います。
この話が現代の日本に重ねられて物語が展開します。
小五郎が冒頭にコクーン参加者の選ばれし子供たちを見てこう言います。
そこで哀ちゃんはこう返しました。
この哀ちゃんのセリフは、ヒロキくんがノアズ・アークを生み出した背景に関わってきます。
神が堕落した地上の人間を一掃するために、選ばれし者だけを連れて世界をリセットする…そうした旧約聖書の設定が、
堕落した世襲制の日本をリセットするために、「生まれながらにして」神に選ばれた人間を「試す」ノアズ・アークの目的に重なるわけです。
世襲制の問題は生まれながらにして運命が決まってしまっているという点です。
神が人間の運命を決めているとすれば、お金持ちの家の子に生まれてお金持ちになる運命を背負った子供たちは、「神に選ばれし子」ということになります。
この話は嫌味なイケメン小学生・諸星秀樹のセリフからも分かります。
同じく諸星の取り巻きの滝沢もこう言います。
蘭も園子のコクーンのバッチを見て、「選ばれし者」と言っていました。
つまり、神に選ばれなかった人間は、ただ方舟に乗るノア(神に選ばれた人間)を見つめるしかありません。コクーンに乗る権利を与えられた選ばれし者(世襲制の勝者)と、神に選ばれたノアを上手くかけあわせた伏線となっています。
100年前のロンドンという多重構造
旧約聖書と日本の重ね合わせの上に、更に100年前のロンドンという設定も重ね合わせ、見事な多重構造にしているのがこの作品のすごいところです。
コナンが愛する名探偵シャーロック・ホームズのシリーズが書かれたのは19世紀末から20世紀初めのロンドン。
シャーロック・ホームズ自体は架空の人物ですが、コナンの中では19世紀末に実在したジャックザリッパーという殺人犯を掛け合わせています。
実はこれはコクーンの設定と類似します。
コクーンは現実の人間と仮想世界や仮想の人間を掛け合わせた次世代型ゲーム機です。
コナンの内容も、現実(ジャックザリッパーが存在した現実のロンドン)と仮想世界(シャーロック・ホームズが存在した架空ロンドン)を掛け合わせています。
また、哀ちゃんのセリフにこんなものがあります。
この説明は実際に当時書かれた文献にも沢山証拠が残っています。
生まれによって貧富の差が決定づけられているという点は、映画内の世襲制の話とも結びついてきますね。
ノアズ・アークの目的
一応ノアズ・アークは序盤にこう言います。
ノアズ・アークは随所でコナンたちをフォローしてるので、最初から子供たちを殺すつもりがなかったと思います。コナンも終盤にこういっています。
そしてそれは作品の設定にも現れています。
ノアズ・アークが忍び込んだ次世代型ゲーム機「コクーン」。コクーンとは繭のことです。
ヒロキくんを支配していたシンドラーカンパニーが開発したゲーム機です。
このコクーン(繭)とは本来、幼虫が成長するまで保護するためのものであり、実際にコナンでも幼い子供たちがコクーンに乗るということになっています。
つまり、幼虫を成長させるために保護する繭(コクーン)は、実際に世襲制によって腐敗しきった子供たち(≒幼虫)の心を改心させて成長させているわけです。
「糸」がキーワード
蚕は糸を吐いて繭(コクーン)を作ります。
だからか、作中では「糸」が1つのキーワードになっています。
犯罪者のモリアーティやジャックザリッパーは、シンドラーと重ね合わせたキャラとして登場します。
シンドラーは天涯孤独のヒロキを死に追いやります。また、殺人犯ジャックザリッパーの末裔であるだけでなく、樫村を殺害して自らも殺人犯となります。その割に忌々しい自らの血縁を恐れています。
「天涯孤独」なヒロキをシンドラーが引き取ったと序盤のニュースのアナウンサーが紹介するシーンもありました。
天涯孤独なヒロキくんが孤児と似た状態だとすれば、
モリアーティもまた孤児であったジャックザリッパーを操り、暗い犯罪者の道を進ませ、最終的に死に追いやります。
対してシャーロック・ホームズは浮浪者の子供たちを犯罪者の闇を暴く存在(ベイカーストリートイレギュラーズ)にしました。
こうした対比だらけなのがこの映画の良いところでもあります。
親と子、そして世襲制
世襲制や血縁は悪い繋がりとしてコナンの映画内で言及されています。ノアズ・アークもそれを断ち切りたいと言っています。
しかし、血の繋がりが必ずしも悪いだけのものではないことも映画内でしっかり描かれています。
ヒロキくんのために頑張った父親・樫村。
コナンとの絆を見せたシャーロック・ホームズ役の優作
血縁によって狂わされる人間を影として描く一方で、血縁によって奮い立つ人間を時代の光として描きます。
コナンはシャーロック・ホームズに憧れていますが、その憧れの役に父親(優作)を当てはめるこの映画の流れは見事です。
トリビア「自殺するトスカ」
映画の中では親子が1つのテーマとなっていますが、父親以外にもコナンの母親も登場します。
母親は映画の中でシャーロック・ホームズが愛したアイリーン・アドラーというオペラ歌手として出ます。
このアイリーン・アドラーが歌うのは、トスカというオペラの「歌に生き、愛に生き」というアリアです。
このアリアは、神に祈るようなアリアで、私は貧しいものやどんな人にも愛を与えた(手を貸した)という主旨の内容が出てきます。また、オペラの主人公トスカは最後飛び降り自殺をするので、この映画の「飛ぶ」という話にひっかけて選ばれたのでしょう。
トスカは決して根が悪人というわけではなかったのですが、時代や環境によって「悪」とされることを行ってしまい、最終的に神を愛するのにキリスト教で禁忌とされている自殺を行ってしまいます。
トスカに救いはないのか…それとも…
このオペラの1つのテーマだと思います。
赤い糸のように血を繋ぎ、生き続ける
血と糸は結びつけて映画内で描かれています。
コナンとジャックザリッパーが対峙した時に、こんな言葉がありました。
このセリフの後に優作が現実世界でシンドラーの正体を推理します。
シンドラーこそが、ジャックザリッパーの血縁、子孫だということ。そしてそれにヒロキが気づいてしまい、自殺に追い込まれたのだと。
現実世界で優作は血縁という赤い糸を手がかりに、シンドラーの事件を解決しました。それに合わせるように、仮想世界でも、優作は「殺人の糸(血縁)」に引っ掛けた名台詞を放ち、コナンを助けます。
「亡霊」は飛びたてない
興味深いことに、繭から成虫になって出てくる話はかなり色んなところで伏線として使われています。
例えばヒロキくんは冒頭で自殺する際にこう言います。
ノアズ・アークは海を航海する船です。「飛ぶ」という表現は普通は当てはまりません。実際に英語でパソコン画面に出航するみたいな単語が入れられていました。
しかし、ヒロキくんは「飛ぶ」と言っています。これはどういうことか。
ここには2重の意味が込められていて、
①シンドラーに閉じ込められた状態で、ビルから飛び降りて自由になるヒロキ
②繭(シンドラーの手元)から成虫として飛び立つことで自由になるノアズアーク
この2つの意味が掛け合わされています。
ただ、ノアズ・アークはヒロキくんの分身です。決して本当の意味で自由になることはできません。結局はシンドラーの手元(コクーン)に戻ってきました。
彼(ノアズ・アーク)は最後にこう言います。
他の子供たちは、生きているのでちゃんとコクーンから出て、虫たちのように飛び立てます。
しかし、ヒロキくんは「亡霊」です。
亡霊は既に死んでしまっているので、繭の中から飛び立つことはできません。繭の中で成虫になれず、死んでしまう運命です。
実際のヒロキくんも、シンドラーに閉じ込められて死んでしまいました。
ヒロキくんの分身であるノアズ・アークもまだ生まれるには早い存在であり、その上仮想の存在は現実に飛び立てません。
分身は本体と同じ運命が決定づけられています。
ノアズ・アークもシンドラーカンパニーが開発したコクーン(繭)の中で、ヒロキくんと同じ運命を辿るべく閉じ込められて自ら死にます。
(他人に殺されるのではなく、自殺にした点もヒロキくんと重ね合わせているわけです。)
ジャックザリッパーとは真逆の選択ですね。
救いは無いのか
ここまで見ると、ヒロキくんもノアズ・アークもとても可哀想な役回りです。
人間の運命が世襲制のように決まっており、ヒロキくんの自死の運命をノアズアークは越えられませんでした。
私は彼らの運命とオペラのトスカの運命を少し重ね合わせて映画を見ていました。
救いはないのか…?
私としては彼らに救いはあると思います。
羽化できず繭(コクーン)の中で死んだヒロキくん(ノアズ・アーク)にコナンはこういうのです。
人は死んでしまえば終わり…そう捉えることも出来ますが、コナンはそうじゃないと考えています。死後、その人の想いや魂は羽化して、飛び立ち、再びお父さんに会える…そういう解釈(可能性)を残して、物語が終わるんです。
まとめ
初期のコナン映画は、話の構成がかなり作り込まれており、複雑になっています。
特にこのベイカー街の亡霊はミステリーとしても、それ以外の部分でも、飛び抜けてレベルが高いと思います。
多重構造、多数の伏線、対比等、あげればキリがないほど「仕掛け」があり、色んな見方ができる作品です。
最近のコナン映画とは全然違ったテイストとなっているので、そこを比較するのも楽しそうですね。
長い文章を読んでいただきありがとうございました。
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