先入見は見る目を曇らせる:慶應幼稚舎へのイメージ

 本日『慶應幼稚舎』(石井至著)を読んだ。改めて、先入見の恐ろしさを思い知った。大学から慶應に通い始めた自分は幼稚舎出身者には1人しか会ったことがなく、ろくにコミュニケーションも交わしたことがなかった。それにも拘わらず、私は幼稚舎出身者に対して漠然とこんなイメージを持っていた:「大富豪で、毎日分厚い眼鏡をかけたガリ勉たちが日々勉強させられ詰め込み教育をされているところ」「甘やかされている」「コネ入学」…一言で言えば、完全にネガティブなイメージを持っていたのである。

 大部分の人も私と同じように、こうしたイメージを持ってはいないだろうか。
 だが、それは実状とは異なる(と本書は主張する)。それらはドラマなどで過剰に演出される”お受験”の様子により、歪められた私立小学校へのイメージなのであるという。

 勿論、コネ入学や富裕性が完全に否定されたわけではない。実際、「K」「E」「I」「O」の4種類に分けられるクラスの中で、「K」は代々慶應出身者を輩出した家庭の子が集められている。入学試験の内容も、内容自体は「ペーパーテストを課さない(ガリ勉イメージの否定)」、「保護者の面接はない(保護者の学歴や熱意は直接合否結果を左右しない)」など、あくまでも子供の自主性を重視したものであり、その子の優秀性よりその子らしさが合否の基準となっているのだ。

 これは、福沢諭吉の教育理念「まず獣身を成して而して後に人心を養う」に基づいているそうだ(まるで嘴平伊之助のよう)。幼いうちにアレコレと知識を詰め込むのではなく、まだ未発達の段階では体作りを優先させ、体が丈夫になったところで教養を与える…なるほど、理にかなっている。古代ギリシアの哲学者プラトンも、人間は精神と肉体が合わさって初めて誕生すると考え、体を健康に保つことを重視した(もっとも彼は福沢とは対照的に、精神は肉体よりも重要であると主張した (小林 1983) のだが)。

 そのため、慶應幼稚舎でも、勉強は家庭で面倒を見、学校ではスポーツや遊びに力を入れ、「獣身」を養うことが優先される。私の抱いていたガリ勉集団へのイメージはここで540度覆された。

 幼稚舎では6年間を同じ担任・クラスで過ごし、担任は1人1人をじっくり観察・管理し、伸ばしていく。画一的になりがちな公立小学校とはケアの質が違うのである。

 この本に出会わなければ、私は一生、幼稚舎へあらぬイメージを持ち続け、尚且つ謎の一種のコンプレックス(?)を感じて生きていただろう。そんな中で幼稚舎出身者の方に出会ったとき、私は色眼鏡なしに付き合いができるのだろうか。改めて、勝手な先入観は見る目を曇らせると言わざるを得ない。

引用文献
小林日出至朗(1983). 『プラトンの体育思想における価値の検討』, 日本体育学会第34回大会

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