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漆塗りされた琥珀色のカウンターテーブルに置かれたグラスを俺は見つめている。一体にこの場所、この椅子に辿り着いた経緯を俺は思い出せない。
「経路」
そういった事を納めている記憶の引き出しの当該箇所を引っ張り出してみても中身はどれも空でいて、糸口の様なものも皆目検討がつかなかった。
時間軸を遡る行為に意味があるのかすらも解せないでいるのに、俺は惰性で再び自分の脳内の別の引き出しを開ける。何も出てこない。
眼前一面に広がるのは、しん。とした闇だけだ。
別の引き出しに手をかける。何もない。こっちはどうだ。無い。真っ暗だ。
まるで何かに操られでもしている様に、俺は引き出しを悪戯に繰り返し開け続けた。
これ以上続ける意味が無いという事は薄々気付き始めてはいた。
無論一向に頭の中には不気味な静寂しか存在しなかった。
カウンターテーブルに両肘をつき、左右の掌を顔の前で重ねあった俺は、頭の中の自己意識をそうやって掻き回しながら、まるで小さな生き物みたいにゆっくり浮かんで消えるソーダの気泡を只ぼうっと眺め続けているのだった。
この場所は一体なんなんだ。視界に映る世界が何処かぼやけて見える。
薄暗い空間は必要最低限な箇所を照らす間接照明の明かりだけが頼りで、豆粒みたいな光は闇の中では温かな希望の粒みたいだった。
しかしながら何もかもが不確定な現状の俺には、ぼんやりとした灯かりが燈る空間が、かえって時間感覚も曖昧にさせてしまうのだった。
グラスの液面から絶えずパチパチと空気中に弾ける泡をじっと見つめる。
蜃気楼の中で呼吸している様な感覚の俺は、大きく仮説をたててこの事態を考える事にする。仮にだ。ここは何処かのバーだと仮定しよう。
大概この手の店というのは夜に営業しているのが俺の中での認識だ。ならば時刻は深夜か、或いは既に明け方か。いずれにしてもこの場所が飲食店とするならば、、俺はこの店に酒を呑みに来たのだろうか。
自分自身で選択をし、行動し、ここに赴いたというのか。記憶も無いのに。
まあいい。こうした場所では何かの拍子に記憶がすっぽり抜け落ちる事も無いわけじゃない。ともすれば俺は単に酔いつぶれていただけということになる。
確認するように改めて意識を自分の肉体に向けると、確かに少し酒酔いの様な感覚がある。さっきから感じるこの感覚は酒の所為なのだろうか。
グラスビールを二杯程度呑んだくらい、それに近いと思う。
俺は潜在的に「経験」の中にある過去の体験から、大まかな仮定に沿ってそれらしい答えを導きだした。
しかし、その答えも神経系の出入り口にビニールの蓋でも張られているような、くぐもった違和感を伴ったものだった。
自分の中でこんなにも煮え切らない不快な「だと思う」は初めてだ。
駄目だ。なんだか頭がキリキリと痛む。いや、頭の中だろうか。
考えようとすると体がそれを受け付けないのを痛みをもって遅れて認識する。俺は一旦その場を離れるつもりで内向的な意識を外へ向けた。
終わりが見えない自己思案の箸休めに顔を上げ、店内を回し見る。
座席は俺が座っている席を含めて四席で、テーブル席などは無いようだ。
目的を持ち、自らこの空間に足を踏み入れたとするなら誰しもが直ぐさま理解しうるそんなありきたりな光景を、わざわざ眺めることをして改めて認知している自分を奇妙に思う。
瞼を閉じたまま夢遊病の様に俺はここまでやってきたのだろうか。
分からない。考えるほどに答えはますます見えにくくなった。
薄暗い空間に目を凝らす。陰りがあるせいで黒みがかった真っ赤な壁面には目立った装飾品などは無く、床に敷かれた朱色の絨毯はまるでそのまま壁と一体化しているように繋がって見えた。
触りはしなくても壁の表面から微細な糸たちがびっしりと起毛している印象を受ける。大声の一つや二つあげてもこの毛羽立った壁や床がそれらを全て受け止めてしまいそうだ。
未知の巨大生物の胃袋の中に転がり込んだ様な。俺はそんな事を考える。
全体が毛糸のような素材で覆われたこの空間は、土台が木造建築なのか、あるいはコンクリート打ちっぱなしなのか、そういった事も分からない。
むしろ普遍的な物全てを曖昧にさせることを前提として作られた様な、陰鬱な意図すら俺には感じえた。
俺は顔を床に向け、足の先を立てると軽く二、三回踏みしめてみるが返ってくるのは得体の知れない素材の柔らかな感触だけだった。
光が届かない足元は黒々とした闇が広がり、じっと見つめているとゆっくりと異空間に吸い込まれてしまいそうだった。

「大丈夫ですか」
豆粒のように小さなしゃがれ声が聞こえ顔をあげると、いつのまにか目の前に一人の老人が立っている。突然の事に驚きはしたが、表情に出そうになったのを俺は寸前で押さえた。
こいつ。いつの間に現れたんだ。目を離したのは僅かな時間だ。気配や物音の類いは一切感じ得なかった。
老人は黙ってこちらへ体を向けたままじっと固まっている。
身に付けている唐装帽子と極彩色の衣服に間接照明の光が当たり、ステンドグラスの様にてかてかとこちら向け光を放っている。俺はいつかのアジア映画で観た中国の武術家を老人に重ねていた。
身長が低いためかカウンター越しでは辛うじて半身しか見えない。
呼吸しているのか疑わしいほど静かなこの老人は、さっき俺が見た足元の闇からまるで植物みたいに生えてきたみたいに俺には思えた。
「あ、ああ、問題ない。あんた、ここの店主か。」
老人の顔に浮かぶ無数の皺を見つめながら俺は言った。
老人は俺の言葉にしばらく間を置いてからゆっくりと話し出した。
「店主、、それは、、一体なんでしょうか。」
聴いたことの無い土地の名前でも耳にした様な口調だ。
と、同時に老人の口角が僅かに上がり、ヒヒッと鳴いたように見えた。
至極当たり前な質問に対して何処か馬鹿にされた様に感じた俺は少しだけ目元の筋肉に力を込めた。このジジイ。ふざけてるのか。
「あぁ、、あんた店の人間じゃないのか。なら従業員を呼んでくれないか。すまないが酔ってたのかここに来た経緯が思い出せないんだ。寝てたのかもしれん。ここはどっかのバーかなんかだろ。店の名前でもなんでも教えてくれないか。」
この老人に果たして話が通じるかは別として、俺は可能な限り要約した言葉を乱暴に投げ掛けた。
「覚えが無いのは皆さま同じです。そんなに珍しいことではありません。」
投げた言葉を軽くいなす様な落ち着いた声で老人は今度は素早く答える。が、反応こそしてはいるが、しかしそれは俺の質問の答えにはなっていない。皆様同じことだと?
ジジイ。俺が酒にやられたと知って馬鹿にしてやがるのか。カウンターで寝たことに対する腹いせか。まあいいさ。まともに話せる人間がいないならこんな場所さっさと後にするまでだ。ふざけやがって。
「あぁ、そうか。そうだな。悪かった悪かった。じいさん、店のやつが戻ったら代わりに詫びといてくれ。失礼する。」
俺は殆ど老人の顔を見ずにそう言って席を立った。
「あの、、どちらへ?」
カウンターから離れようと体をひねった俺に老人は言う。
呼び止められて、はっとした。
あぁ、そうか。金だ。支払いがまだだった。
この場から去りたい気持ちばかりが先行した余り肝心なことを忘れていた。俺らしくもない。
「すまない。支払いがまだだったな。」
目の前のグラスの中身がなんなのか分からないままだが迷惑料も合わせて少し多めに出しておくべきだろう。相場を鑑みて俺は紙幣の枚数を思い浮かべた。
自分の体を二、三回触ってからズボンのポケットに手を回す。
無い。財布が消えている。
まさか、意識がない内にスラれたか。
あるいは何処かに忘れてきたのだろうか。あくまで冷静な表情を崩さないまま俺は胸元から尻に到るまでを改めて両手で撫で回した。やはり無い。どうしたものか。
いや、待て。俺はいつも財布をここに入れていたのだろうか。急に記憶が曖昧になる。財布は本当に持ち歩いていたのか?俺は果たしてポケットに財布を、、、くそ、まただ。頭が割れるように痛い。
閃光の様なイメージが目の奥に見え、針の様な鋭利な痛みにこめかみを手の腹で抑え込む。こんな痛みは初めてだ。一体どのくらい飲んだのだろう。
空席のスツールの背もたれに片手を乗せて俺はその場で立ち止まってしまった。
「具合が悪そうですね。しばし席に腰掛けていかれては如何ですか。」
老人のか細い声がカウンターの奥からこちらに聴こえてきた。
激しい痛みで今すぐしゃがみこみたかった俺は、こめかみに片手を押し付けたまま老人の言葉に従い席に戻る。こんな満身創痍の状態で訳のわからない空間と妙な人間を同時に相手にするのはこれ以上ごめんだったが、いずれにしても財布が消えている事も含め、この爺さんに説明と謝罪をしなきゃならない。
如何なる状況であろうともそれすらできないでいるようじゃ、俺もこの目の前の奇怪な爺さんと同じレベルにまで品格が落ち込んでしまう気がした。
再び腰掛けたスツールは、この場所に戻ってくる事をまるで待っていたかのように俺の体をしっとりと優しく受け入れてくれた。
頭の中で響く痛みの中で、俺はそのスツールの感触に得も言われぬ心地よさを覚えた。
「音楽なんて如何でしょう。」
腰掛けた事を合図とするように目の前でじっとしていた老人は言った。低くゆったりとした声は聞き逃してしまいそうなほど小さかったが、不思議と耳にはしっかりと届く。
頭の痛みが治まらない俺は音楽なんて聴いている余裕はなんてものは無かったし、音楽はもとより老人には痛みが落ち着くまでは黙っていて欲しいと願うばかりだったが、返事を待たずして老人はカウンターの隅へゆっくり歩いていってしまう。彼なりの気遣いのつもりだろうが、かえって迷惑な行為だった。
「ここにはね、素敵なレコードが幾つもあるんですよ。どれも時代に囚われないマスターピースばかりです。あぁ、今日はこちらにしましょう。」
老人はそう言うとカウンターの横に埋め込まれた収納スペースの硝子扉を開け、古めかしいレコードを一枚取り出した。
カウンターで頭を抱え、目だけでそれを確認していた俺だったが、隙間無く納められている幾枚ものレコードの中から迷い無く一枚を選び出す所作は実に手際が良かった。
まるでそれらレコードの収まっている場所を完璧に掌握しているように思えた。
老人は取り出したレコードのケースからビニールに包まれた盤を取り出すとカウンターに設置されていたプレイヤーにセットしたようだった。
(ようだった。というのは、こちらからは目視で確認できなかった為である。)
針が盤面に落とされ、チリチリと薪が燃える様なノイズが少し鳴った後にゆるやかなピアノの音色がこちらに流れてきた。
馴染みが無い俺には曲名がなにか分からなかったが、近代的ではない作りからクラシックのピアノ曲だということはなんとなく理解できた。
暗く陰鬱としたこの空間にはいささか優雅過ぎる曲調にも思えたが、俺は耳に流れ込んでくる流麗な音の粒を頭の痛みを抑え黙って受け入れた。
「この曲は、彼が17歳の時に世に産み落とした作品です。曲名はアレグロ。演奏速度における音楽用語として速くという意味で、これよりも少しゆるやかな速度になりますとアレグレットと言い換えます。ピアノソナタというものはどうしてか第一楽章の名前はアレグロと共通していることが多いんですねえ。どれも違った世界観を構築しているというのに名は一様にアレグロ。作曲者にしてみれば名前はさして大事な意味など有していないのかもしれませんが、私にとってはそれらひとつにしても愉快で、総体的な魅力に感じてしまうのです。」
刺々しい痛みを抑えるのに集中している俺には老人の悠長な話が無性に腹立たしかった。
不服な尋問を受ける罪人の様な顔で俺は再度自分のこめかみに両手の指先をぐっと押し付ける。
ほとんど無意識の所作で目の前に置いたままになっていたグラスを手に取ると注がれている液体に口をつけた。
と、弾けた気泡を伴った花のような香りが俺の鼻先を彩った。
甘みや苦味といったものが感じられず只の炭酸水らしかったが香りがあるだけでなんとなく優雅な心持ちになる。耳に流れ込むピアノの音色とそれらは混ざり合い、心なしか頭の痛みが少し和らいだように感じられた。
俺はグラスを元の乾いたコースターに戻し再度老人へ目を向けた。
老人はレコードケースに描かれた作曲家らしき若い男性の肖像画をじっと眺めていた。
老人の堀の深い顔立ちが目元に影を作るせいで目線が確認できず、その黒い窪みはまるで大樹の幹に出来たうろみたいだった。盤面を顔の前に掲げてはいるが果たして本当にそれを見つめているのかは正確にはわからなかった。
「既に故人となった彼ですが、こうして残された作品達は彼の生きた証として遥か未来まで残ります。芸術家が作り上げた作品というのは彼らの子供のようでもありもう一人の自分なのでしょう。時を重ねるごとに朽ちるどころか未だこんなにも瑞々しい。あなたはどう感じられますか?」
老人はカウンターに突っ伏している俺に向け問いかけた。

自費出版の経費などを考えています。